捧/頂

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 私には昔から「そういうもの」が見えた。本当に小さい小さい頃はそれが誰にでも見えるんだと思っていた気がする。けれど、それが決して当然のものじゃない…むしろ、珍しいというかあり得ないと理解出来たのが小学校に入る頃。そして、小学校で私はそれを知らないフリをすることを覚えた。
それから、中学に入った後から本当に限られたモノ以外は段々と見えなくなっていった。だから、今その姿が見えてお話が出来る限られた「お友達」は少し特別で、いつか少しずつ彼らとお話をすることもなくなっていくんだと、いつかは何も見えなくなるんだろうと思っていた。

「ブラック・ミストだ」
「ブラック、ミスト?」
 そんな時だった。彼と出会ったのは。
いや、出会った…というのともなんだか少し違う気がする。彼はまるでその名前のように正体が掴めない靄のようなものだったし、そもそも私は面と向かって会ったわけでなく、私は夢の中でブラックミストを見たんだから。それでも、彼の存在は私の大切な友達との別れの予感を少しだけ削ることを許してくれた。私はそれがとても嬉しかった。けれど、私の友達はそれをあまり喜んでいないように見えた。
「なまえ、それはたぶん『よくないモノ』だと思う」
「でも…だって、彼だってカードなんだよ?」
「そうかもしれない。だけどニンゲンにだって優しい人と意地悪な人がいるだろう。そいつはきっと意地悪なやつだ」
「…なんで?」
「わからない」
「わからない?」
「ああ。…ただ、そんな気がする」
 それじゃあ私もわからない。不満な気持ちを隠せず少しだけ唇を尖らせる私に友達はそっと苦笑した。
 と、言われても人は眠るものだし、そうすると夢は見るものだ。私は否応なしにブラックミストに会う。初めて見たときに輪郭さえなかったミストはいつのまにか人間のような形を取るようになってた。
「どうしたんだ」
「…え?なにが?」
「この俺に会えて嬉しいんじゃなかったのかよ」
「べ、べつにブラックミストに会えたから嬉しいってわけじゃないもの」
「にしてもいつもよりよっぽどブッサイクな顔してるぜぇ?」
「ぶっ…」
 思い切り顔を歪めるとブラックミストはとても楽しそうに笑い声を響かせる。悩みでもあるのか、と笑いの間に挟むミストは冗談みたいな口ぶりで一瞬だけ真面目な色を語尾に乗せた。私にはやっぱり彼が悪い何かには見えない。それをみんなは「なまえはまだそれを知らないからだ」なんて言うけれど。でも、私は…。
「…あのね、私の友達が…ミストのことあんまり、ええとよくない…って」
 直接的な言い方を避けた呟きはとても意味が曖昧になった。それでもミストはとても察しが良かった。顔の中身も朧だというのに、機嫌がぐっと落ちて行くのを感じる。
「へえ。そりゃあそうだ、会いたくもなくなるよなぁ?つい最近出会った新参よか伝聞でしか俺を知らない古くからの旧友のアドバイスってのが大事だからなぁ」
「ち、違うよ!」
 声を張り上げると胡乱げな空気が揺らめいた。私は決してミストに会いたくなくて頭を悩ませていたわけじゃない。
「じゃ、なくて…みんながブラックミストに会えるような方法はないのかなぁ…」
 ブラックミストはどう贔屓目に見ても口はよくない。態度だってどちらかといえば不良だ。でも、…でも決して私に危害を加えたりしないし、さっきみたいに私のことを気にしてもくれる。みんなは私が何かを知らないから、なんていうけどそれを言うならみんなはミストを知らない。きっとみんなだって会えばわかるのに。小さな子どもみたいに口が自然と尖っていく。隠すように膝を口に寄せた。
 どうやら機嫌はあっさり覆ったらしい。くっく、と笑う声が聞こえる。口だってあるのかも曖昧なのに、ミストはお喋りで笑い上戸だ。笑い事じゃないのに。ムスッとした気持ちを隠さないままブラックミストに目を移す。お腹でも抱えているような笑い方をしたミストはふと顔をこちらに向けた。目なんて無いのに探られている気がする。「なによ」なんて呟いた途端、突然ミストの顔に二本の線が走る。ひどくくっきりした横線。驚いて固まるとそれは大きく開いた。宝石に光を当てたような色、金色の瞳。それがぎょろりと私を見た瞬間、ヒッと喉の奥で弾けた悲鳴で目が覚めた。私の声にならない情けない声を聞いたのか、天井を背景に友達が不安そうな顔で覗き込んできた。胸が、とてもどきどきしていた。

 そしてまた次の日はやってくる。私も眠る。べつにブラックミストは、あの時私に何か怖いことをしようとしたわけでも何でもない。ただ、想像よりも鋭い瞳がいきなり彼の顔に現れただけだった。彼は何も悪くない。あんな反応をしてしまって、悪いのはむしろ私だと思う。
 夢の中で意識がはっきりすると、ブラックミストは夢の終わりの時よりも全体的にくっきりとしていた。ゾッとするほど綺麗な金の瞳はやっぱりほんの少しだけ滲んだ輪郭の中で輝いている。私に焦点があったそれはなんとなく、機嫌があまりよろしくないように見えた。
「よぉ、よく来たなァ」
「ええと、その…ごめんね。昨日…私、なんだかびっくりしちゃって」
 機嫌を伺うみたいに恐る恐る言葉を紡ぐとブラックミストはフンと鼻を鳴らして腕を組む。怒っているようだけど、怒りはそれほどでもなさそうだった。ミストの、組んでいる腕の境が見える。初めて彼を見た時には想像も出来ない姿だった。
「…ブラックミスト、なんだかとっても人間みたいになったね」
 呟くとミストの瞳が細くなって私を見つめる。昨日みたいに目が合っても、今日は悲鳴なんて出ない。ちらちらと光が弾ける眼差しで私を捕まえながら、ミストは口を楽しそうに持ち上げた。
「お前、名前は」
「あ…えと、言ったなかったっけ。私はなまえ、…うん、なまえだよ」
「なまえ」
 少しだけ俯いて確認するように小声で呟くと、ミストはもう一度私の目を見つめる。思わず一歩下がるとミストは、はっきりと唇を開いた。
「なまえ」
 私の、名前。何故だかわからないけれど、胸がひどくどきどきして、そしてなんだかゾッとした。砂の上に寝た時、ざりざりと肌に砂がこすれたみたいな感覚。何も言えないで立ちすくんだままの私にブラックミストは手を伸ばす。近付いてきた手に爪が見えたとき、後ろから思い切り体が引かれて目が覚めた。


「なまえ」
 透き通った瞳が不安とも怒りとも、恐怖ともとれる表情を映している。私を現実では掴めない、友達の透けた腕が私を掴んでいた。そうか、私は起こしてもらったんだ。気づいた途端に泣き出しそうになった。ミストを悪い人だとは言いたくない、思いたくもない。それでも、私はその時確かにブラックミストが怖かった。初めて、もう夢を見たくないと願った。


 曖昧な世界で、誰かとキスをしたような気がした。

 かくんと着いていた肘が落ちて、急激に意識が浮上する。今日は寝ないように寝ないようにとは思っていたけれど、どうやら少しうとうとしていたみたいだ。それでも夢とも現ともとれない世界にミストはいなかった。
ベッドにいるとどうしても眠くなる。いけない。小さなあくびを噛み殺して、顔でも洗って目を覚まそうかとベッドから足を下ろす。そこで私はカードを見つけた。
 黒い枠の小さなカード。エクシーズ。見たことのないイラストがカードの真ん中で薄っすらと光を跳ね返している。なんでこんなところに知らないカードがあるんだろう、とただ不思議に思った。ぼんやりしながら何気なくそれに手を伸ばす。そっとカードの淵に指が触れたその瞬間。黒い黒い、影なんかじゃない本物の手が私の手に重なった。

「やっと会えたなァ?なまえ」

 聞き覚えのある声が直接耳を擽る。重なった指ははっきりくっきりとした人間の形。
なんで、どうして、どうやって?私は決して何も知らない。けれど、もう二度とこの夢は覚めないのだと、ただそれだけはわかっていた。


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