捧/頂

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私はこの部屋が好きだ。なまえと暮らす、古いアパートの二階にあるこの小さな部屋が好きだ。焼けてささくれた畳、壁沿いにひっそりと置かれた古いタンス、部屋の隅に畳まれた布団。部屋の中央に置かれた小さなちゃぶ台に、古びた扇風機、一ヶ所だけ破けている障子。この狭い六畳を彩るシミだらけの家具に包まれ私は幸せに暮らしている。なまえはよく「こんなボロい家でごめんね」と申し訳なさそうに言うが、私は特別ボロいなどとは思ったことがない。それは私が一般的な部屋を見慣れていないだけなのかもしれないが、結局はなまえがいればどこでも構わないのだ。
私がこのなまえの部屋で生活を始めてからしばらく経った。初めは慣れないことばかりであったが、私の戸惑いはなまえの笑みで消えてしまうほどに、私は彼女と共にいることに安堵を覚えていた。私の失敗を笑い飛ばす温かな表情や、ドルべ、と私の名を呼ぶその声は私の呼吸の源だ。料理ができない私に包丁の扱いを教える、輪郭が白くぼやけた指先ですら私の生を実感させる。なまえと出会うまでぼやけていた私の生が、ぼやけた指先で確かなものになるとは少しおかしな気もするが、なまえはきっと気にしないのだろう。そして、太陽の光のように笑うのだろう。

「ドルべ、少し出掛けてくるからよろしくね」

朝食を食べ終えたなまえが髪を耳にかけながら言った。私は皿を洗う手を止める。なまえはずっとこの部屋にいるわけではない。大学というところへ行ったり、仕事をしに行ったりと忙しない。だが今日はそうではないらしかった。

「なまえ、どこへ行くんだ?」
「ちょっとね」
「私も行こうか」
「いいの。ここにいてね」

狭い玄関で靴を履くなまえの背後に立つ。なまえは小さなカバンを肩から掛け、白い日傘を持っていた。現在は夏という季節らしい。バリアン体でいるときは気にならないが、人間の姿でいる時はその暑さがわかる。室内にいても息が苦しいように暑い。湿度が高いせいだとなまえが言っていた。

「帰りはいつになりそうだ?」
「わからない。そうだ、暑かったら窓開けてね。扇風機もつけていいから」
「ああ」
「お昼ご飯作ってあるけど、足りなくなったらお金あるから買って食べて」
「わかった」

私は食糧を必ず摂取しなければならないわけではないのだが、しっかりと頷けばなまえも満足げに頷いた。暫しの別れだというのに何故こんなにも胸が締め付けられるのだろう。なまえは爪先で地面をとんと叩くと、腕を後ろで組んでにこりと笑った。

「じゃあね」
「ああ」

なまえが手を振りながらドアを開けた。そして羽のようにふわりと部屋から出ていく。ぱたんとドアが閉まり、部屋が完結する。急に静かになった部屋に蝉の鳴き声が舞い込んだ。畳を踏み締めて窓を開ける。蒸し暑さと蝉の声が膨張したが、構わずにコンクリートを見下ろした。少しして白い日傘がふわふわとコンクリートを歩いてくるのが見えた。なまえであるのは間違いないのだが、ここからでは顔が見えない。

「なまえ」

名を呼んでみたのだが、私の声は届かなかったようで、なまえは足を止めることなくコンクリートの先に消えた。ふう、と息をつく。すぐそばに生えた木にはアブラゼミが止まっていた。唸るような音を近くに感じながら、壁に寄りかかる。なまえはどこへ行ったのだろうか。いつ帰って来るのか言っていなかったが、夜までには帰って来るのだろうか。様々な疑問が浮かんでは消える。私は畳んである布団に横たわり、目線だけで部屋をぐるりと見回した。なまえがいないだけでこんなにも味気ない。意識がゆっくりと遠退いていく。生温い空気を吸い込みながら、私は静かに眠りに落ちた。

目が冷めると部屋は朱色に染まっていた。どうやら日が暮れてしまったらしい。なまえの気配はない。まだ帰ってきていないようだ。腕に力を入れて起き上がる。じっとりと汗が肌に浮かんでいた。額を乗せていた布団にうっすらとシミができている。明日になったら洗濯をしなければならない。私は壁に寄りかかり、首を傾けて外を眺めた。近くで蝉の声はするのに、先程の木にはもういない。だが、本当に近くにいるのだ。次第に蝉の声が溢れてくる。蝉時雨というらしい。心地悪くなり、扇風機をつけた。プロペラが回転し始める。この風と共に早く蝉が静かになればいいのだが。

「なまえ…」

なまえは、何をしているだろうか。私のように、蝉の声を聴いているだろうか。ふいに、ジジッと音がして、天井の辺りから蝉が外へ飛び出して行った。部屋の中にいたとは全く気が付かなかった。飛び立って行った先をぼんやりと見つめて、目を閉じた。
なまえが帰って来たら、何と声をかけようか。とりあえず、無事に帰って来てくれれば、それでいい。
私は再び布団に横たわった。蝉と扇風機の音が過ぎていく。朱色の太陽はゆるやかに下がっていくのに、なまえは未だ戻らない。
日が、暮れる。


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うぉおおおお!あさりちゃんから!誕生日プレゼントに!いただきました!
最初衝動に合わせてグォオオオーッ!と読んでうひうひぐひぃ!とはしゃいでから何度も読み返して胸に染み入るようなドルベさんの思い、瞼の裏に浮かんでくる景色にため息がでました…ほへぇ…。すごい…。
気持ちはとても落ち着いているのに、胸のどきどきが今も止まらないです…。ううううやっぱりすごい。

ほんとにほんとにありがとございました!


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