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吹けば飛ぶ

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「あなたのことを好きでいるのは、つらい」
 何かを言おうとして開いた口が、向かい合う瞳が潤んでいるのを見て閉じる。こんな言葉を口にする自分がこの世で一番苦しくて、その私を苦しめたのはあなたなのだとその眼差しは言っていた。通り過ぎる沈黙に頭をひとつ振り、なまえは「ごめんね」とだけ呟いてハンカチを差し出した。


「またフラれた」
 綺麗に揚がった筍を摘む箸を見下ろしながらぼやかれた言葉を降谷はこれまでの一年で三回ほど耳にしていた。しかも、同じ声音で。リフレインにしても面白みのない台詞に何の感慨もなく聞き返す。
「それで、今度は何股したんだ?」
「してねーよ」
 ノンアルコールの缶を机の上に放るように置き、なまえは据えた目で無礼な質問を口にした相手を見る。知らない相手であれば多少は怯むだろう眼差しも、年内で三回ほど見かけていれば驚きすら浮かばない。降谷は不満そうな表情を一瞥して雑然と並ぶ調味料の左端を手に取った。
「君ならそろそろ三股はしていてもおかしくないからな」
 大した興味もなさそうに天ぷらを塩味にする指先を睨み、不名誉な評価になまえが腕を組む。
「失礼な、私くらい一途な生き物はこの世におしどりくらいだぜ?」
「鴛鴦は毎年つがいを変える鳥だ」
「え、そうなの?降谷って鳥博士?」
 丸くなった視線に向き合う青い瞳が呆れた色を乗せた。
「だいたい君が毎回毎回来るもの拒まず去るもの追わずなのが悪いんだろう」
「…だって好きだって言われたら好きだなって思っちゃうし」
 言い訳を口にする唇が拗ねたように尖る。それが憂いを吐き出した後、何かを思い出す仕草で左に視線を揺れ動くのを降谷は見た。行儀悪くついた頬杖に細い顎を乗る。1%のアルコールも口にしていないのに赤らんだ目元に睫毛の影がかかった。
「好きでいるのが辛いとか、好きって言われても苦しいって言われたら追い方もわかんなくなるんだよ」
 淡い色をした唇が何かを堪えるような仕草で軽く引き結ばれるのを降谷は見た。しかしその仕草は一秒にも満たず、瞬きほどの間留められた言葉がこぼれ出す。
「好きなのは嘘じゃなかったのに」
「『浮気』ができるほど好きであればまだ良かったのかもな」
 口から外側に転がり出ない程度の声で降谷は呟く。好きと言われるだけで好きな気がするのであればたんぽぽの種子の方がよほど誠実だろう。
聞こえなかったか聞こえないふりをしたのか、なまえは何度か瞬きを繰り返してから「あーあ」と腕を伸ばした。
「お前のこと一番好きな女がまたフリーになっちゃいましたぁ」
「良かったな」
「今度こそ私と付き合ってみる?」
 おざなりな返事に向かうのは誘うような蕩けた瞳。普段は自分一人で立っているような顔をする人間が見せる、弱ったような顔。今目の前にいる相手だけのような顔をして隙を見せるのが本当に上手い。本当に意図していないのかもわからない仕草に溜め息を飲み込み、媚びているような眼差しへ降谷は首を振る。
「お前をフる人間の気持ちがよくわかる」
「え、そう?私は誰のこと好きだと思ってようが結局はお前のことが一番好きなんだけどなぁ」
 不思議そうに首を捻りながら吐き出された綿毛のような『一番好き』を鼻で笑い、降谷は五千円札を置いて席を立ち上がった。


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