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きみさえいなければ

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 なまえは凛が気がついたときにはいつも近くにいた。冴と凛の間の年だから、冴にとっても似たようなものだっただろう。家族でも親戚でもないなまえは家が近く、親の仲がいいとかいうありきたりな理由で凛の人生の大体のところで世界のどこかに立っていた。年が近く、親の仲が良ければその子供たちも何となく仲が良くなるものである。

 とはいえ、冴と凛の人生はずっとサッカーに彩られていた。仲が良いと言っても三人で一緒にかくれんぼをしたり鬼ごっこをしたりということは多くなかった。どちらかと言えばなまえはしょっちゅう凛と一緒に金網にへばりついて冴がサッカーをするのを眺めていたし、そのうち冴と凛がサッカーをするのを見ているようになった。あんまりにもよく見てくるので練習が終わった後に三人でボールを蹴ったこともあった。が、ボールのコントロールも覚束なく、蹴る力も弱いなまえはすぐにボールを蹴るのはやめてしまった。
それでも二人のサッカーは観にきていた。するのは下手くそだけれど、サッカーは好きなんだろうなと凛は納得していた。そうでなければ試合でもなんでもない日にも夕陽が沈むまで二人を眺めているはずがないからだ。

「冴くん、凛ちゃんおつかれさま」
「おー」
 二人が練習をしているところを最後まで見たなまえは練習が終わった二人とよく一緒に家まで帰った。帰りには三人で揃ってアイスを買うこともあった。子供のお小遣いでも十分に買える棒付きのアイスを。
冴がサッカー以外に運を使うべきでないと言ってからは棒アイスは凛にとってもハズレを祈る運試しのようなものだった。選んだ後にしても仕方がない神頼みを心の端に浮かべながら棒までそっと歯を立てる。表面のアイスを口の中で飲み込んで、薄い木の表面に浮かぶ三文字に凛は顔を歪めた。
「あたった…」
「俺はハズレ」
「当たったの?凛ちゃんすごい、良かったね」
「良くない」
 唇を尖らせる凛になまえは瞬いた。不思議そうな目に見つめられた冴はハズレのアイスをかじりながらなんともなさそうな顔で言う。
「サッカー以外のとこで運は使いたくねーんだ。だからあたりは外れ」
「あ、そうなの?」
 へえぇと首を傾げたなまえは少し考えると、まだ棒が隠れているアイスを何度か噛んでから自分の棒を凛に向けた。
「じゃあ凛ちゃん、私とアイス交換しようか。ほら、私のはハズレだよ」
「え?」
 思いがけない提案に凛はなまえを見上げて少し迷った。そんなことをして良いのかが凛にはわからなかった。彷徨う視線が自然と兄の顔を伺う。
「…したかったらすれば」
 兄は凛とその向こうでニコニコしているなまえを見比べると、どうでもよさそうにアイスをかじった。
兄ちゃんがしても良いというならそれでも良いのかもしれない。凛は俯くように頷いてあたりの棒を兄と同じハズレに交換してもらった。
「でも冴くん、この『あたり』っていうのどうするものなのかな」
「知らねー、捨てれば?」
 軽く肩を竦める冴に困ったように眉を下げ、なまえは雫を浮かべるアイスを黙って口に入れた。


 いくつか季節を過ぎて、天才サッカー少年の冴はスペインに行くことになった。家族ではないなまえはそれを冴が旅立つほんの少し前に聞くことになった。決めたらすぐに言ってやれば良いのにと凛は思っていたが、冴は「俺から言う」と言ったわりに伝えるまでに時間をかけていた。
目玉が転がりそうなほど目を開いたまま呟いた「いつから?」に冴は「明日」と天気を告げるような声で答える。なまえは呼吸さえ止めたように動きを止め、やがてため息と共に視線を落とした。
「冴くんに会えなくなるのちょっと寂しいな」
「ちょっと?」
 ジャージのポケットに手を突っ込んだまま聞き返す冴になまえは「うん」と指を目元に寄せる。指先の触れるところは少し赤い。やや瞳を伏せたそれはなまえの顔に浮かぶのを見たことがない表情だったので、凛にはその意味がわからなくてただ黙ったまま横顔を眺めていた。
「…冴くん、元気でね」
 風邪引かないように気をつけてね、とようやく視線を上げたなまえに冴は少し考える仕草を見せる。
「凛と仲良くしろって言おうかと思ってたけど、やめた」
「うん、私言われなくても凛ちゃんと仲良くするよ」
「いや、なまえが凛に仲良くしてもらう方だろ」
「えっ」
 瞬くなまえの頭を軽く掻き混ぜてから冴は凛の方に目を向けた。
「凛、なまえを頼んだ」
「うん、俺がなまえと仲良くしてやる」
「えっ」
 兄からの言葉に凛は意気込んで頷いた。冴に乱された髪を手櫛で整えていたなまえが凛の言葉に驚いたように固まる。冴は二人の様子を軽く吐息だけで笑うとなまえの跳ねた髪を指先で軽く撫でて直してやった。


 兄が日本からいなくなっても凛はなまえと仲良くしていた。兄に言われたからというのもあったけど、わざわざ仲良くしない理由もなかったから。
なまえの方も特に変わりなく、平日にはよく凛がサッカーをしているのを観に来た。家もすぐそばだから帰るのも一緒だ。前と違って帰り道は二人きりになったけれど。
「凛ちゃんはすごいね」
 凛が買ったのを真似するように買った棒アイスに口をつけながらなまえは言った。チームメイトと比べて凛の実力は頭一つ飛び抜けている。冴がいなくなったことでそれはよく際立って見えるようになっていた。凛は兄が通り過ぎていった空を見上げた。そのずっと先に、いつか追いつきたい兄がいるから。
「兄ちゃんはもっとすごい」
 自分への賛辞を肯定することなく遠くを見つめる凛になまえは少し目を眇めて頷いた。
「うん、冴くんもすごいよ」
 微笑むなまえに「当たり前」と言いながらアイスをかじる。削ったアイスの下から出てくるのは機械的な三文字だった。あたり。
「げ」
「凛ちゃんよく当たるねえ」
 あまり見たくなかった文字に顔を顰める凛の手元をなまえが覗く。のんびりした口調で感心しながら冷たい氷を一口かじってなまえは「あ」と棒を回した。『はずれ』が凛の視界で踊る。
「凛ちゃん、交換しようか」
 当たり前のような声音に凛は驚いてその顔を見た。柔やかな微笑みは凛がまだ六歳であると信じているようだった。本当はもう背だって凛の方が上なのに。
「…当たった後なんだから変えたって意味ないだろ」
「まあ、それもそうだよね」
 視線を逸らして応えた凛に、納得した様子でなまえは頷く。確かに、とのんびりした様子ではずれの棒を咥える横顔を凛はそっと横目で伺った。
なまえは何を考えてそんなことを言ったのか。いや、何も考えてないからそんなことを言えたのか。
凛の心に薄く靄がかかるような気がした。兄ちゃんだってもう『したかったらすれば』とは言わないだろう、と考えながら凛はあたりの棒をかじった。言われたってもうそんなことをする気はなかったけれど。

 兄がいなくて物足りないサッカーを繰り返す日々が続く。少しでも冴に近付きたくて居残りをする凛に合わせてなまえも日が暮れるまで金網のそばに寄り添っていた。
いくつかの日を過ぎた帰り道、凛はふと違和感を覚えた。なまえの言葉が少ないような気がした。元からそう元気良く話しかけてくるタイプではないが、そうではなく何か口を開きかけてはやめているようなそんな雰囲気があった。雲が星を隠していないという、特に意味もない話を曖昧な言葉で二度繰り返したなまえの顔を凛は軽く覗いた。
「何かあったのか?」
 なまえは閉じかけていた口を少し大きく開いてから何か覚悟を決めたような目で凛を見返してきた。道に灯る街灯の光がなまえの瞳の中で輝いている。
「…凛ちゃん、ホラーゲームって出来る?」
「は?」
 決められた覚悟からすればあまりに軽い言葉に凛は拍子抜けした。調子の外れた声には気が付かなかったようになまえはやや緊張した声のまま言葉を続ける。
「あのね、ちょっと買ってみたゲームがあるんだけど、わたしどうしても苦手で、先に進められなくて…」
「ホラーが苦手なのか」
「ええと、そうじゃなくて、怖いのは平気なんだけど、その…見て貰えばわかると思うんだけど」
 声は言い難そうに途切れ途切れに続いている。必死そうな様子で言葉を紡ぐなまえの祈るように組まれた指を見て凛は週末になまえを部屋へ呼ぶことにした。色々とぼんやりしているなまえの部屋に入るよりはなんとなくその方が良いような気がした。

 凛となまえは決して仲が悪いわけではなかったが、出会うのは屋外であることがほとんどだった。なまえが自分の部屋に足を踏み入れるという、交流の長さにしては不思議なほど珍しい光景に凛は少し戸惑った。なまえを部屋のどこに配置すれば自然なのかがわからない。緊張感のある凛に反してなまえは凛の部屋にいることよりは自分がゲームを手にしていることの方に意識が向いているようだった。手元の方ばかりを気にかけているなまえに凛は漏れそうな吐息を飲み込み、躊躇ってからベッドを指差す。なまえは迷いもなくベッドに座り込むと真剣な顔でゲームのパッケージを開いた。
「すぐわかるから、見ててね」

 何度も内容を言い淀むゲームがどんな内容なのかと凛は訝っていたが、なまえは始まってから数分のうちにゲームオーバーになることをただ数十分ほど繰り返しただけだった。どうにも単純になまえがそのゲームの操作が下手すきるだけで前に進めなかったというだけ。確かに、幽霊が出てきたときに急いで切り抜けなければならないそのゲームは反射神経すらぼんやりしているなまえには感心するほど向いてない。このゲームが何を目指しているのかもいまいち把握できないほどの進行度に凛は流石に呆れた。
「なんでこんな出来ないゲーム買ったんだよ」
「だって気になっちゃったから…」
 落ち込んだ様子で俯くなまえからコントローラーを受け取る。少しでも緊張したのがバカらしくなるような空気だった。ゲーム自体も体が強張るほど難しいものでもない。何度かのミスはしながらもスムーズに攻略を進める凛に俯きがちだったなまえも顔を上げて食い入るようにスクリーンを見つめ始めた。
「凛ちゃんはすごいねえ」
 時折小さく手を叩きながらなまえは感心した様子で凛を褒める。サッカーを褒められる時よりも熱が入っているような褒め言葉だ。しかし、ゲームがサッカーほど難しいわけではない。
「これくらい、誰だって出来るだろ」
「そんなことないよ」
 珍しく真剣な顔をしてなまえが言う。画面から振り向いたなまえのひどくしっかりした否定に凛はやや戸惑ったが、そもそもこのゲームが持ち込まれた理由を思い出してすぐに納得した。これだけのことでもなまえにとってはなにかとてつもない偉業なのかもしれない。
不思議と少しだけ胸がざわめいた凛はそれ以上何も言わずにスティックを動かした。ゲームはなかなかホラー演出の出来は良かったが、なまえは怯えるような様子はなくどちらかといえば凛のプレイによく感嘆の声を漏らしては拍手して瞳を輝かせていた。



 冴が帰国した。
凛にとって幸福となるはずだったそれは凛にとって終末を告げるラッパになった。兄と手に入れたトロフィーを賞状を、思い出を。全てを叩き落とした凛はマグマのように胸に湧き上がる兄への怒りを秘めていた。蛍光灯に照らされている金色が瞼の裏に焼き付くようだった。焼き切ることができない兄と見た夢の形が脳裏で燃えている。床に落ちたものを片付けなければならないのに、頭が燃えるようで体が動かない。そのままどれほどかの時間が経った。ふと、静まり返った部屋に小さなノックの音がした。凛の頭に過った親の可能性をかき消すように柔らかな声が聞こえる。
「凛ちゃん」
 煮えるような脳に扉の前にいるだろうその姿が浮かんだ。
そういえば今日はなまえはいなかった。いや、本当にいなかったのか思い出せない。少なくとも、一緒に帰ったような記憶はなかった。もしかして置いて帰ってしまったのか。
凛がぼんやりと記憶を辿っていると「入るね?」と添えるような疑問符がついた声が聞こえて扉が開く。扉が開いてもなまえはしばらく何も言わなかった。驚いていたのかもしれないし、部屋の状態を見て言葉を選んでいたのかもしれない。数十秒、もしくは数分。ある程度の時間を置いてから凛の耳に声が届いた。
「凛ちゃん、大丈夫?」
 怪我はない?入口の方から聞こえてくる声はこの部屋に起きた異変の理由は聞かなかった。呼びかけてくる方に顔を向けないまま、凛はその名前を呼んだ。少しの沈黙の後に爪先が視界の端に忍び寄ってきた。
「何?」
 なまえが身を屈めて顔を覗き込んでくる。「どこか痛いの?」と不安そうな瞳が曇る。懐かしい表情だった。小さかった頃、サッカーをしたことがなかったような頃に凛が転んだ時に見せていた表情。今ではもう何かに躓くのはなまえの方だけなのに。不意に浮かぶ物懐かしさに焼けるようだった思考が冷えていく。凛は唇を開く。
「兄ちゃんと…」
「…冴くんと?」
 言い淀む凛の言葉の背をなまえがなぞる。首を傾げた時に揺れた髪の向こうで壊れた額縁が微かな光を反射する。淡い光に凛は唇を噛んだ。違う、昔になんて戻れない。もうあの頃とは全てが違う。据えた目をして凛は言い換えた。
「もう、俺はアイツと同じ夢は見ない」
 凛の言葉に目を丸くしたなまえの反応は、数秒遅れてから返ってきた。ゆっくりと瞬きをしたなまえは静かに首肯して「そう」と小さく呟く。そして一呼吸の後にまっすぐ凛の瞳を見つめた。
「凛ちゃん、怪我はしてない?」
 凛が黙って首を振ると「良かった」となまえは安心したように微笑んで凛の頭に手を伸ばした。小さな凛を慰めるときのように。
凛はその手が届く前に自分から掴んで引き寄せた。抱き上げるように体を寄せれば、どちらのものかわからない心臓の音を感じる。抱き寄せたなまえの体は微かに強張っていた。凛のベッドに腰掛けることにも緊張しなかったなまえが動揺しているのを凛は体で感じていた。自分より小さくなった体が力を抜くまで、凛はずっとそうしていた。


 凛はそれからもなまえと変わらず仲良くしていた。態度や言葉は前よりも少し素っ気なくなったが、それはそういう風に凛が変わったからで凛と冴の確執そのものに影響されてのことではなかった。なまえの方も何を考えているのかいないのか、何もなかったかのように凛と仲良くしていた。なまえの方からは何も言わないので兄との交流があるのか凛は知らない。そんなことは聞きたくもなかった。
 なまえは凛が誘えば当然のように凛の部屋まで遊びに来た。ゲームをする時でも映画を見る時でも当然のような顔をして自分から凛のすぐ隣に並んでベッドの上に座っていた。幽霊が突然画面外から飛び出してきても相変わらず体を震わせることはなく、時々感心したように口を緩く開くだけだった。「へえー」なんて間の抜けた声を出している時すらあった。もしかしたらぼんやりしすぎていてこれが怖い演出であることに気がついていないのかもしれないなと横目に見ながら凛は思っていた。緩いやつだ。もう少し何か言うことはないのか。
恐怖映像に怯えてほしいわけではないけれど、何を考えているのかもわからなければ次に見るものを選ぶ時に少し指先が揺らぐ。
「なんか面白い映画だったね。凛ちゃん、次は何見るの?」
「待ってろ」
 何を選んでも感想は大して深くならないが、それでも声を弾ませるなまえは一応映画を楽しんでいるらしい。次の映画を準備してニコニコしているなまえの横に座ろうとする凛と、ちょうど座り直そうとしていたなまえの指が不意に重なった。熱いものに触れたように凛は反射的に手を引いた。勢いよく浮かんだ手になまえが驚いて目を丸くする。露骨な反応をしてしまったことが気まずく視線を泳がせた凛になまえは少し微笑むと浮いている凛の手に触れてそっとベッドの上に乗せる。頼りない指が覆い隠すように手の甲を握りしめるのを凛は黙って受け入れた。


 その日は珍しくなまえを見かけなかった。何か約束をしていたわけではなかったが、それでも凛にとってなまえはいつも一日のどこかで見かけるものだった。なんとなく落ち着かない気持ちで携帯に連絡しても珍しく反応がない。とはいえ、なまえも凛以外との交流がないわけではない。多いとは言えないだろうが、高校の友人と遊ぶような時もあるだろうと凛はサッカーに明け暮れた。
一通りの練習を終えた帰り道、凛は道の先に見慣れた後ろ姿を見つけた。送ったメッセージへの返信はまだなかった。文句の一つでも言ってやろうかと凛は僅かに歩くスピードを上げた。なまえの後ろ姿は簡単に近づいてくる。元よりのんびりしているとは思っていたが、それにしてもひどく足が遅い。これならアリの方がまだ足が早いかもしれないかもしれないとさえ凛は思った。後ろ姿に手を伸ばせそうな距離まで近づいた凛になまえが気がつくのは、凛が声をかけるより早かった。
「凛ちゃん…?」
「な」
 振り向いたなまえに言おうとしていた言葉はその顔を見た瞬間に凛の喉を転がり落ちて消えた。開いた口が消えた言葉を探して二度開閉を繰り返す。
「…なに泣いてんだ」
 微かに濡れた睫毛を震わせて不思議そうに凛を見ていたなまえがハッと自分の目元を指で抑えてから「え」と「あ」で作られたいくつかの文字を溢すと少し俯いて目を逸らした。とても珍しい仕草だった。思わず凛が目を眇めた姿が見えたわけではないだろうに、なまえは身を小さくしてさらに意味のない言葉を続けた。
「あの、その……」
「泣かされたのか」
「ち、違うよ。そうじゃなくて、ええと」
 凛の声がやや低くなったことに慌てた様子でなまえが目線を上げる。目が合ったなまえの目元が赤いのは今にも空の端に消えそうな日差しのせいだけではないのかもしれない。何もかも珍しいことばかりで凛は少し目眩がしそうな気分だった。
「…映画、見に行ったの」
 なまえは見た映画の名前をあげる。凛も知ってるタイトルだった。最近公開されたばかりのホラー映画だ。
「どんな内容かなって気になって…面白いかなって、その…見てみようかなって」
 そこで一度言葉を切ったなまえは、凛が促すまでもなく話を続けた。
「でも一人で見てみたらなんかこわくて、びっくりしちゃって……」
「怖くて?」
 揺れる声が想像もしていなかった感想を形作るのを聞いて凛は思わず聞き返した。いつもあんなに平然と見ていたのにホラー映画にそんなことを考えることができたんだな、と不審と疑念が半々に浮かぶ。普段は平気そうなフリをしていただけだったのだろうか。疑問に疑いが籠っているのには気が付かなかった様子でなまえは「怖くて」と神妙な顔をして頷いた。
「凛ちゃんとホラーとか見る時は平気なんだよ。凛ちゃんといるときに見てるのはぜんぜん、平気……だったんだけど」
 言いながら凛を見上げていた視線が少しずつ落ちていく。最後の言葉を聞く頃には凛が見えるのはなまえの旋毛だけになっていた。
「一人じゃ…凛ちゃんがいないとほんとはホラー、駄目だったみたい」
 静かに呟かれた言葉が鼓膜を叩くのに、弾かれたように鼓動が聞こえる。なまえを抱いていない体から聞こえるのは凛一人の鼓動だった。
「…なまえ」
 俯くなまえの名前を呼んで凛はそっと手を伸ばす。それが視界に入ったのか、なまえはパッと顔を上げた。
「やだな、凛ちゃんと仲良くしていたいのに、私、凛ちゃんに良くしてもらってばっかりで恥ずかしいよね。私の方がお姉さんなのに」
 えへへ、と眉尻を下げてなまえは笑う。
 凛は笑わなかった。
「…凛ちゃん?」
 肩に伸ばしかけていた手を上げて凛は柔らかい頬を掴む。なまえはそれに驚きもしなかった。これから何が起きるのかわからない顔をして、そのくせ凛にされるがままにされていた。
何をされると思っているんだろう。いや、多分なまえはこの先に起きることなんて何も考えていないんだろう。さっきまで頬は確かに赤く見えたのに、今では夕日の失せた空の色を映している。逢魔時の薄紫色をしたなまえの頬の体温はほんの少しも上がっていなかった。凛は唇を噛んだ。
「…うぜぇ」
「え、何?凛」
 何かを言いかけたなまえの口目掛けて凛は勢い良く身を屈めた。歯が唇にぶつかるのを感じる。微かに香る鉄の匂いと一緒に唇から溢れかけていた『ちゃん』を飲み込む。見たことがないほど大きく開かれた瞳を間近で見つめるのはなんだかひどく気分が良かった。


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