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ペケ

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 私はキスをするなら風見がいい。
 『恋人のフリをするなら誰がいいか』って軽口にそう言ったのには別に深い理由があったわけじゃない。もし相手が風見なら遠慮もいらないし、キスするのが嫌ってほど何も思ってないわけでもなかったから。強いて理由を作るなら風見は好きと好きじゃないのバランスがちょうど良かったからそう思っただけ。風見にはなんか微妙な顔で嫌がられたけど、まあもしもそういう日が来たら相手が誰でもなんだろうと否応なく演じるしかないのでそれ以上はない。軽口は軽口だ。明日になれば記憶にすら残らない。
 …はずだったのに。さあ帰ろうと帰路に向けた爪先を降谷さんに止められた私は背筋を伸ばしてやや童顔な上司の方に顔を向けた。刺さるような眼差しから逃げるために目線は柔らかいカーブを描く目尻に添えておく。そちらもそちらでほんの少し前までは家に帰ろうとしていたらしい上司は片手の指先で軽く鍵を回して、ややあってから腕を組む。
「僕が好きなんじゃないのか」
「え?」
「僕が好きなんだろう」
「私が?」
「君以外に誰がいる」
「はあ」
 どこか威圧的なそのセリフは場合によってはパワハラかセクハラになりそうな気もしたけれど、多分これまで積み重ねてきたなんらかの言動から推理されたであろう私の慕情は正しくその通りだった。照れも情緒もTPOもなく、数式から弾かれた答えのように暴かれた恋心に私も恥ずかしがるタイミングを完全に逃していた。
「まあ、好きですけど」
「君が?」
「みょうじが」
 誘導尋問のような問いに頷いたが会話はそこから先に進まない。上司の意図を汲む良き部下の私は仕方なく一人で会話を続ける。
「降谷さんを」
 が、目的語を増やしてもまだ進まない。どうにもしようがなく文章は完成した。
「好きです」
 私が、降谷さんを、好きです。完成した告白を前にしても降谷さんは信じられないくらいに冷静だった。出来の悪い生徒が自信なさそうに答えを弾き出した時にみせる教師みたいな顔をしている。
「それで?」
「…それだけですけど」
「何故?」
 どうしてそうなると思ったんだ?と学生の頃たまに聞かれた途中式のことを思い出す。告白じゃなくて数学みたいだなとよくわからないノスタルジーを感じながら私は自分の手首に目を向けた。
「降谷さんのこと好きな理由ですか?ええと……、この後何分もらえます?」
「何故それだけなんだ」
 先に余白を確認する私に降谷さんの唇が歪んだ。それでさっきの『何故』が途中式の要求の方ではなく次の大問の話であることに気がついた。私は降谷さんが好き、の次の話だ。
「…えーと、その先がある方が理由いりません?」
 好きだってだけならなんの責任も勇気も覚悟もいらないし、私は私が降谷さんが好きってそれだけでいい気がする。告白って普通は好きで、だから何かをして欲しいって要求のためにするものだろうけど、別に私は告白したくてしてるわけでもないし。させられてるようなものだし。などと内心でこねくり回していることもなんとなくバレているのか形のいい眉が微妙に跳ねる。仕方なく私は言い訳のターンに移った。
「その、私…、降谷さんが好きだからキスとかはしたくないんです…」
「…は?」
 宇宙人の第一声を聞いたみたいな反応だった。釣り上がっていた眉毛がストンと落ちる。どうやら自慢の推理力も恋する気持ちというのは計算できないらしい。鼻筋と目頭の間のあたりで彷徨わせていた焦点をちょっと降谷さんに合わせてみる。ああ…。
「こんなに好きな顔とキスしたら死んじゃうかも…」
 心臓がふたつになって目がひとつになったみたい。顔が熱くて、頭を動かすための血が全部そこに流れていく。降谷さんを見ていることしか出来なくなりそう。思考がめちゃくちゃになるのが怖くて、すぐ艶々の革靴の先に視線が滑り落ちる。体の向こうに弾け飛んでいきそうな心臓を体の外側からギュッと抑えた。
「じゃあ死なせてやる」
「えっ」
 降谷さんの声のトーンが信じられないくらいに低い。慌てて顔を跳ね上げれば、降谷さんはさっきより三歩ほど私に近づいて手を伸ばしてくる。その顔は誰かとキスする時の顔というよりは引き金を引く時の顔だった。顔、怖。喉が勝手にヒュッと息を呑む。いくら好きな相手とはいえ相手が相手なのでちょっと結構本気で怖い。さっきと違う方向に心臓が暴れだす。後ずさろうとする私を案外力強い右手が掴み、左手が顎の位置を固定する。この人、まさか本気で引き金を引く気かと怖気付いて私は震えた。
「あ、え、もしかして降谷さん私のこと好きなんですか?」
「そう見えるのか」
 なんとか冗談にして逃げようと口走った言葉は逃げ切る前に捕まった。疑問系にしてもらえたら否定もできたのに、部下の意図を全然汲まない上司は言葉尻を平然と落としてゆっくりと顔を寄せてくる。ひたすら良い顔が。ありがたいのは近付きすぎて逆に顔が見えにくいことくらいだった。おろおろと逃げ道を探すうちに私を抑える手から力が抜けていることには気が付いたけれど、降谷さんの胸を押し除けるほどキスが嫌なのかはもう血の気の抜け切った脳ではわからなかった。
「あなたのためならしんでもいい…」
 シャットダウン間近の言語中枢が吐き出したのはそれだった。文学的な『愛している』という意味ではなくて本当に文字通りの意味で。途端に空気が冷えた。降谷さんの体温も0.5℃くらいは下がった気がする。もう何の意味があるのかもわからないくらい添え物だった左手が消えて右手の力が復活した。
「この後時間あるか?話したいことがある」
 急展開に消えかけの思考が降谷さんの言葉の意味を探して明滅している。パソコンだったらファンの音を響かせていそうな私はもつれかけている舌を必死に動かした。
「え、ある、ですけど、も、もしかして降谷さんが私のことどんなに好きかって話を…?」
 ボヤけていた焦点が降谷さんの端正なお顔にバッチリ合って私はさっきよりも大きく息を呑んだ。顔が怖い。さっきとまた違う意味で。存在感を消していた左手が全力で一歩足を引く私の襟首を掴む。
「いや、説教だ」
 それは1+1の答えに「田んぼの田」と答えた生徒を見るときの数学教師の顔だった。


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