「名前」

ああほらまた、

「大丈夫か?」


眉を八の字にして、私にじっと向けられた、優しく細めた目に。肩を支える少し皮の厚い掌に。どこにいようと何をしようと崩れない端正な顔立ちに。優しすぎるその性格に、苛立つ。



躊躇いつつも、差し出された右手をぎゅっと握り、気づかれないようにため息を吐く。


「大丈夫、」
「急に立ったらふらつくでって、いつも言っとるのに」
「ごめんね、わかってるんだけど、つい」
「わかっとるならええねんで?でも、俺が居る時は倒れても受け止めたれるけど、居らん時に倒れられたらかなわんから、な」


そう、少し照れながら、はにかんだ笑顔をこちらに向けるその姿に、これは素なのかなぁなんていつも疑う。
何度疑ったって、これがありのままの蔵ノ介だってことくらい、私が一番よく知ってるのに。


「蔵ノ介、テニス部どう?」
「そやなぁ、全国行けるようになったって知って、皆一段と練習頑張るようになったで」
「皆結構遅くまで自主練してるよね」
「金ちゃんとか謙也は自分でメニュー作れん〜言うて俺んとこ泣きついてきたわ」
「ちゃんと作ってあげたんだ?」
「ちょっとキツメにな。でもあいつらそれにも気づかんと毎日ようやっとるわ」

そうやって、爽やかに笑うその横顔はテニス部部長の顔で、その強い眼差しに自信と誇りが表れている。

その強さに、たまらなく嫉妬する。


真っ暗な道に、自分の汚い感情が溶け出していってる気がして、握った手に力を込めて祈った。消えろ消えろ消えろ。わざと音を立てて地面を蹴る。
ああそれでも、消えてくれない。

じわり、少し泣きたくなった。
そう思うと本当に涙が出てきた。ぎり、と歯を食いしばるけれど一向に涙が引く気配はない。
ああでも、周りはもう夜で、私は今闇の中にいて、少しくらい涙を流したって大丈夫なんじゃないか。
抵抗を止めて、肩の力を抜いたら一筋涙が流れた。
そして左手に、強い力。


「、どうしたん?」


そうなんだ。
こいつが気づかないはずがない。だってこいつは白石蔵ノ介だから。そこらの中3男子とは訳が違う。


「なんで、泣いとるん?」


一粒だけ、そう思っていた雫は私の両目から止めどなく溢れてきていた。
私を心配そうに見る蔵ノ介の顔。
その顔の皮を剥がしたい。剥がしてその下の表情を見てみたい。


でもきっとその下にはただの骨しか残ってないんだろう。


「蔵ノ介、ごめんね、」
「なんで、謝るん?」
「私、ダメだ、蔵ノ介の隣にいられない、」
「…なんでなん?」


それは言えない、言いたくない。こんな汚い感情、蔵ノ介には知られたくない。

何も言うことができなくて、ただただ首を左右に振り続けた。
しゃっくりが喉を押し上げて嗚咽を生み出す。


「俺と、別れたいん?」
「ごめん、なさ、」


蔵ノ介に苛立ったり、嫉妬したり。そんな自分が嫌で嫌でたまらない。
ごめんなさいと謝るその声すらも、私は醜い。


隣に並ぶ蔵ノ介は余りにも眩しすぎて、完璧すぎて。
これ以上一緒にいたら何かがおかしくなる、そう本能で感じ取っていた。


何かが、おかしくなる。


私ではなく、蔵ノ介の何かが。


本当は、何がおかしくなるかなんてわかっているのだけど。


ほらまた、そんな悲しそうな顔で私を見るでしょう?

その顔が、憎らしくて、本当に、


「好きやねん」


大好きなんだよ。



強く強く抱きしめられて、少し腕と背中が痛い。
耳から全身に流れる蔵ノ介の声に、少し身震いをした。


「俺は、名前が好きやねん。ほんまに大好きやねん。名前がおらなあかんねん、俺は俺じゃなくなってまう、」
「蔵、」
「名前…、俺のこと嫌いになってもたん?俺なんか悪いことした?」


そこで、気づくのだ。

いいや、元から気づいては、いたのだけど。
見ない振りを、していた。


肩に込めていた力を抜いて、首筋に押しつけられていた頭を起こして彼としっかりと目を合わせて。


「蔵ノ介、好きだよ。大好きだよ」
「…ほんまに?」
「うん、私も、蔵ノ介じゃないと、ダメなんだよ」
「…っ、名前、愛しとる」
「私も、愛してる」


そう言ってまた綺麗に笑う蔵ノ介が、嫌いで、大好き。




彼はいつのまにか、完璧じゃなくなっていた。


彼が私を愛している、その事実がもうすでに、

彼と私をおかしくしていた。







(110410)


あれっ何か行き先間違えた







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