ユンが帰ってきた。
「ただいま」
帰ってきた、というより、『遊びにきた』という表現の方が正しいのだけど。
「おかえり、ユン」
どうしても、この言葉を言わないわけにはいかなかったんだ。
冬の冷たい空気が体を刺す中、首に巻いた灰色のマフラーに顔を埋めながら夜の帰り道を歩く。
空からはらはらと落ちてくる雪に、目を細めた。
『雪って、カナシイよね』
二年前の冬、彼はそう言った。その時も、急な来日だったことを覚えてる。
雪を触ろうとして、手を伸ばす。でも手に触れたときには、雪はもう形を変えて雫になってしまう。雪の本当の姿に触れてくれる人は誰もいないんだ。それって、悲しくない?
今と同じ道を二人で歩きながら、彼はそう呟いた。
きっと彼は私に言ったつもりなのだろうが、その時の私には、彼が自分に向けて言ったように聞こえた。
その時のユンの顔が、寂しさや悲しさを含んだ、見たことのないような顔だったら。
カナシイのは、ユンの方じゃないの?
そう、聞けたら良かったのに。
隣のユンとの距離が、初めよりも縮まって、最後には0になって、抱き締められた。
「名前、」
「ユン…?」
「ごめんね」
そう囁かれて重なった唇は、涙の味がした。
その三日後、ユンは徴兵制によって、韓国軍に入った。
私がそのことを聞かされたのは、夏も終わる頃、ユンが来るはずの夏休みだった。
あれから、二年。
ユンに会えない休みには慣れなかった。
帰り道の中、どんどんと闇を深くしていく街に、自然と足は早く動く。
最後の曲がり角を曲がったとき、闇の中に一際黒い影が見えた。位置的には、自宅のちょうど目の前。
普段の自分なら、絶対に怪しんでいただろう。
だけど今日は、何故か警戒心が芽生えなかった。足を進めるにつれ、流れている空気が懐かしさを帯びてきて、あと少しの位置までくると、もうその影が彼のものであることに、気づいてしまった。
足音が止まり、静寂が訪れる。
相手が息を吸う音が聞こえた。
「…名前、?」
「ユン」
彼が、一歩踏み出す。
家の前に明かりがついた。
「ただいま」
二年ぶりに見た彼の顔は、あの頃よりも大人っぽくなっていて、でも、昔の面影は残っていて、ユンであることには変わりなくて。
「おかえり、ユン」
微笑みながら、精一杯の気持ちを込めてこの言葉を贈るよ。
ユンが帰ってきたら笑って迎えてあげる、ってあの時決めたから。
「待っててくれて、ありがとう」
そして私たちの影はまた一つになった。
空夜に潜む甘い罠
(名前のこと、1日だって忘れたことなかったよ)
(私だって忘れられなかったんだから)
(090731)
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