「ねぇ、明日どこにいきたい?」
夕飯を終えた後、名前が机を片付けながらそう声を投げかけてくる。明日、は何の日だったか。壁にかけられたカレンダーを見やれば、大きな丸印。その中には彼女の整った小さな字で『英士の誕生日』とそう書いてあった。
あぁそうか、明日は俺の誕生日か。
そう、何の気なしにぽつりと溢すと、台所の方から笑い声が飛んできた。
「なに、英士ってば自分の誕生日忘れてたの?」
クスクス、鼓膜を揺らすその声に、反論しようと口を開いて、やめた。忘れていたのは本当のことだし、言い訳する理由も見当たらない。まぁ最近忙しかったから。と、精一杯の強がりを、彼女の頭に被せるようにゆっくりと吐いた。座っていた椅子から腰を浮かせてカウンターに近づけば、奥にいる彼女とぱちり、目が合う。
「どこか行きたいところ、ある?」
「特にはないけど、どうせもう決めてあるんでしょ」
「あ、バレた?」
彼女がへらりと笑う。何年一緒にいると思ってるんだ。彼女と共に、自分の誕生日を迎えるようになって重ねた年月は、もう10年を越す頃だろう。
「まぁ正確には9年だけど」
「どっちでも変わらないでしょ」
「ほらまた英士はそういうこと言うー。そういう節目の年は大切なんだから。誕生日しかり記念日しかり。ちゃんと覚えとかなきゃ駄目なの」
「はいはい」
女性というのは、どうして記念日とか、何年目とかいうものに拘りたがるのだろう。別に、長年支え合って一緒にいる、という事実だけでいいんじゃないの、そう思うけれど。そうもいかないようで。
「そういう日を迎える度に、色々思うんだよ」
伏せ目がちに、目を細めて彼女は言う。
あぁ、こんなことがあったなぁ。
あんなことで喧嘩したなぁ。
でも、本当に幸せだったなぁ、って。
「そうして幸せを噛みしめるのです。おわかり?」
そう、諭すように、けれど挑戦的に見上げられ、これは少し怒っている時の顔だな、と気づく。さすがにこのタイミングでの喧嘩は避けたい。
「で、結局どこに行くわけ?」
急いで取り繕うように、眼鏡を外して顔を覗き込めば。手を濡らす水泡をエプロンで落としながら、にやりと笑って。
「河川敷。河川敷に行こう」
***
車を走らせて15分。自宅から少し都市部に近づいたあたり。平日だからか、あまり人はいないけれど、所々自分たちのような家族連れが見える。先程3歳ほどの息子とボールを蹴っていた父親が、こちらを何度も見ていたけれど、気づかない振りをして歩く足を早めた。
「パパー!」
タタタッ、と足音。空色のスカートがふわりと揺れて。太陽のような笑みで我が家の天使がこちらを振り向く。ゆらゆらと揺れる手の反対は、名前の手にしっかりと、握られていた。
それに自然と笑みを漏らし近づけば、自分の右手を握られ、名前の左手と一緒にぎゅうっと胸元に引き寄せられる。あまりにその仕草が可愛くて。どうしようもなく胸がいっぱいになる。
近づいた妻と顔を見合わせてお互いにはにかんで。娘を抱き上げた瞬間に、ふと思う。
あぁ、これを、幸せというんだ、と。
恋愛なんて、馬鹿がするものだと思っていた。自分にはサッカーがあれば、共に高め合える仲間や強敵がいればそれでいい、そう思っていた。名前と会うまでは。
彼女の持つ、たまに見せる凛とした強さとか、わかりにくい優しさとか、温かい雰囲気とか、変に頑固なところとか。何に惚れたかなんて挙げきれやしないし、いつから惹かれてたかなんて思い出せやしないけれど。きっと出会った瞬間から、徐々にこうなっていくことは運命やらで決まってたんだろう、なんて柄でもないことを思ってしまうくらい。今こうやって彼女と生活していることが、本当に幸せなんだと、自分は世界一の幸せ者だろうと確信できる。
多分その事実が、一番幸せなんだろう。
芝生の中の、焦げ茶色のベンチに腰かける。名前と自分の間に、小さく娘を座らせて。冬にしては暖かい日射しに、小さく息を吐く。長く伸びた草を突っつく娘と、その様子を携帯で撮ろうとしている妻の向こうに、真っ青に広がる空と小さな白い雲。その下に、ボールを挟む先ほどの親子が見えた。
あぁそうだ。
「ねぇ、来年のプレゼント、今から予約できる?」
「物によればできるんじゃない?でも、今年じゃなくていいの?」
「うん。というか、今からじゃ無理だから。物理的に」
え?と不思議そうな表情を浮かべる彼女。間に座る愛娘も、母の真似をしてこちらを覗き込んでいる。
この幸せな生活は、俺一人じゃ成り立たない。
生活も、サッカーも、喜びも悲しみも、俺自身でさえも、もう俺だけのものじゃないんだ。
誕生日だって、俺だけの誕生日じゃない。皆で一緒に楽しむべきじゃない?
だからこれも、俺からのある種のサプライズ。
愛娘を抱き寄せながら、名前の耳に口を近づけ、
「来年の誕生日は、4人で過ごしたいな」
できれば、男の子。息子と一緒にサッカーする夢、叶えてほしい。
そう囁いてみれば、お日様に暖められた頬はより一層熱を帯びる。
いいと思わない?
そう言って額をくっつけると、恥ずかしそうに声が返ってくる。
「実はね、今日サプライズで言おうとしてたことがあったんだけど…、英士に先越されちゃったね」
悔しそうに、でも嬉しそうに、お腹を撫でながらくすりと笑う。
あのね、
と一呼吸。もしかして、
「今お腹に赤ちゃんいるの」
相当、びっくりした顔をしてたのか。こちらを見て、してやったり、といった表情を浮かべる彼女をとりあえず抱き締めて。
「ありがとう」
「まだどっちかはわかんないよ?」
「どっちでも嬉しいに決まってるでしょ。名前、ありがとう」
「こちらこそ。男の子だと、いいね」
「大丈夫、絶対男の子だから」
よくわかんない自信だね、そう笑う妻にもう一度、ありがとうと小さなキスを贈る。
彼女の頭越しに見えた大きな空が、自分たちを祝福してくれているような、そんな気がした。
空色リボンに口づけを
来年の今日、また家族と、次は4人で、ここに来る未来を思い描いて、そっと。
Happy Birthday Eishi.K!!
『0125-vol.color-』提出
お題:空色
(110125)
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