| ナノ
その日の夜は空が大泣きしているのかというほど雨が酷く降っていて、でも消音にした枕元のテレビをつけるとテレビの上部には警報のけの字もでていないので、なら大丈夫かと私は適当な予想をつけた。もうすっかり消灯時間をすぎているけれど、柔らかなクリーム色のカーテン一枚でしきられている隣のベッドの主は寝ているだろうと高を括っていた。が、隣のベッドから小さな呻き声がしたので、光が漏れたのかとすぐに消す。小さな呻き声も数秒たてば規則的な呼吸音に変わったので、私は隣のベッドの主を起こさずにすんだと安堵の息を吐いた。
もう一度雨の音に耳を澄ます。夕方までは綺麗に晴れていたのに。天気ほど理屈もなく難しいものなんてないのかもしれない。窓の外から聞こえるざあざあという音が耳から離れず、少し固めのベッドに横になりながら、私はその音を子守歌にしていつの間にか眠りについていた。
翌日は快晴だった。昨日の雨がまるで嘘のように、綺麗に晴れた快晴だった。目をさました私がまず見たものは見慣れた病室の天井ではなく、どういうわけか、雲ひとつない青空だった。まさか病院の屋根は飛ばされてしまったのだろうか、とベッドから起き上がってあたりを見回してみると、そこにはたしかに昨日しめたカーテンも、何もなかった。
台風一過のように前夜の雨は地上の汚いものを洗い流してしまって、晴れた大地は凹凸もなくまっ平らにただ無限にひろがっていた。一見、砂漠のように見えるがそこまで砂が多いわけでもない。病室の窓から覗く建設途中のビルも、綺麗に水を撒く噴水も、なかなか信号の変わらない信号機も、よくジュースを買いに行く病室の先にある自動販売機も、すべて無い。全部流れて消えてしまったのだ。
――じゃあ私が横になったあの固めのベッドはなぜ残っていた?
そう思い後ろを見ると、あったはずのベッドは消えていた。手品のように跡形もなく消え去っていて、そこでようやく、ああ。私は夢をみているのね。ときづいた私はためしに頬を抓ってみた。痛くない。
一度気づいてしまえば怖いものなんてなかった。これは夢。夢なんだから何がおこっても大丈夫。そう思って辺りを散策することに決めた。
しばらく歩いてみても、何かを発見――というわけもなく、特に変わりもしない景色に飽きて、何度も溜息を吐くだけだった。最初の頃は冒険みたいで楽しさもあったけれど、もうそんなもの遠くへ消えてしまっていた。ただの飽き性なのかもしれないが、さすがにこんな何もないところに一人きりというのはつまらない。せめて話相手が欲しい。夢ならはやくさめたらいいのに。なんて思ったりして。
彼の声がしたのは、そんな時だった。
「ユキ?」
後ろから恐る恐る尋ねるようにかけられた声に、私は何故か恐怖を感じ、ぎこちなく声のする方へ振り向いた。
「せい…いち…く、ん」
ライムグリーンのパジャマで声の主が同じ病室の精市くんだとわかった私は心の中でほっと息を吐いた。身体が畏縮したのは、勝手に病室から出歩いたことをナースの比和さんに咎められると思ったのだ。よくよく考えると声質はまったく違うしここは私の夢
なのだからそんなことを気にする必要はないのだけれど。
「精市くん、こんなところで何しているの?」
「それは俺がききたいよ」
女の子の私よりも綺麗な微笑みを浮かべて精市くんは私にいう。相変わらず中性的な儚さを持った綺麗な顔だ。精市くんのそんな顔に見惚れつつも、ここは私の夢なんだよ、なんていえるわけもなくて、へらりと笑って私はごまかした。
「私もわからない」
――これは夢だから。
これは夢だから、話し相手がほしいと思った私のために夢が精市くんを出してくれたのかもしれない。
「そう。気づいたらユキがいたんだ。驚いたよ」
私と精市くんは並んでまた歩き出した。どこに行こう、なんて考えてもない。たぶん歩いてもどこまでいっても何もないと思うけれど、立ち止まっているだけなのはよくない気がしたのだ。それはきっと精市くんも同じなのだろう。
「精市くん」
ここまででわかったことが一つだけある。それは、やはりこれが夢だということ。この夢は私に優しくつくられている。
悲しくも、精市くんが私に優しいわけがない。彼は綺麗な顔をした悪魔だ。いや、その美貌を使って世界を手中に収める魔王だ。少なくとも、さっき私がへらりと笑ったら彼は絶対に私の頬をその白く細い指で抓って限界まで引っ張りながら「わからない、じゃないよ。俺がわかるようにさっさと調べなよ」くらいは言ってのけるだろう。なぜなら彼は精市くんだから。
「何してるの、ユキ。はやくおいで」
足を止めた私を見て精市くんは手を差し伸ばしてくれる。ああ、優しい。これはやっぱり夢なんだ。
「っていう夢を見たの」
「はは、やだなあ。ユキが俺の隣を歩くなんて何万年はやいと思うの?」
「……デスヨネー」
やはりというか、現実世界に起きた私がまず見たものは見慣れた病院の天井で、周りには柔らかいクリーム色のカーテンがひかれていた。精市くんにその夢のことを話すとにこやかに微笑まれながら頬を抓られた。離された頬はしばらくたっても腫れがひかず、ナースの比和さんにアイスノンをお願いしたのは、また別の話。
(090829)