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 まだ完全に下がりきっておらず、子供のあどけなさを残した声が今やたった二人しかいない教室に響いた。昼間は喧騒にも近いほど煩い生き物のようだった校舎も、日が沈み人が消えてしまえば、ただの無機質な建物と化していた。下校時間まであと十分もないぎりぎりの今に校舎内にいる生徒はあまりいないだろう。

「こんな時間にどうしたの?」

 子供のあどけなさが残っているといっても、彼の中性的な容姿からしたら低すぎる声より、今くらいのほうがちょうどいいのかもしれない。ぼんやりとユキはそんなことを考えながら、「数学のワーク忘れちゃって。明日あたるから」と答えた。朝早くきてやってもいいのだが、生憎数学は一限で、数学がさほど得意でないユキは自分が朝の短い時間で終了させれることができないということを簡単に想像させた。取りに行ったのは賢明な判断だろう。
 窓から侵食するように差し込む橙色の光が、教室を同色に染めあげている。席が窓際に近いユキは自ら橙の光の中へ入っていき、机の中からワークを取り出して、鞄の中へ入れた。

「不二くんは?」
「僕も忘れ物しちゃったんだ」

 ユキよりも少し後ろだが、不二もまた窓際の席だった。ユキがワークを取り出している間に不二も目的のものを鞄にいれてしまったらしい。ラケットの入ったテニスバックを肩にかけ、彼は穏やかな笑みを浮かべて立っていた。橙にあてられ、透ける彼の茶色の髪がべっこう色に光り輝く。
 そのまま二人で教室から出て、階段を下りていった。知名度の高いテニス部レギュラーとそのクラスメイト。同じクラスとはいっても、普段あまり関わりのないユキと不二は接点があまりない。下駄箱への道のりという短い距離でさえも、口数は少なかった。

「送るよ」

 やっと下駄箱に到着した頃には、外はうっすらと暗くなっていて、橙は夜に飲み込まれ始めていた。

「え、いいよ。大丈夫」
「でももう暗いし。女の子を一人で帰させるわけにはいかないよ」
「本当に大丈夫だから」
「天宮さんと帰る方向一緒だったと思うから。ね?」

 半ば強引に不二はユキの首を縦に振らせ、二人は下駄箱を後にした。グラウンドにはパコーンというテニスボールがラケットに打ち付けられる音も無く、コート周りに響く声援も無い。ひぐらしが鳴く以外に、驚くほど静寂が広がる学園は少し不気味だった。

「部活、おつかれさま」

 校門を出たあたりで、思い出したようにユキは云った。本当は最初に思いつくような簡単な言葉だが、すっかり忘れていた。

「ありがとう」
「もう全国だっけ。ごめんね、私疎くて…」
「今週末に決勝なんだよ」
「決勝?凄い。日本一の戦いだね」

 ユキは感嘆の息を吐いた。彼女は自校のテニス部が強いことは知っていたが、全国の決勝までその勢いを伸ばしていることは知らなかった。彼らが全国行きを決めたのも校内新聞でちらりと目に入ったからだ。もう少し興味を持てばよかったと思っても後の祭りで、後悔だけが募る。

「優勝、してね」
「そのつもりだよ。手塚も帰ってきたしね」
「手塚くん……そっかあ、九州から帰ってきたんだっけ」
「天宮さんってあまり僕達のこと知らないんだね」
「ご、ごめん…」
「ううん。なんか新鮮で、楽しいよ」

 自慢ではないけれど、不二は自分が所属する部は学園内で有名だと自負していた。レギュラー陣の名前を聞いたことのない者なんていないと思うし、個性豊かな彼らは嫌が応でも目立つ。気づけば、自分の知らないところで誇張された勝手な自分像だけが一人歩きしていた。誰もが僕のことを知っている。何か期待から外れるようなことがあれば皆、不二くんってそういう人だったんだと白い目で見る。テニスコートだけでなく日常でも気をはっていたのはそれからだ。だから天宮ユキのように、最初から部活を全面的に押し出さない会話はとても新鮮で楽だった。何も知らないユキ相手だと、天才という像に捕われなくて済む。
 不二のするテニス部の話に、ユキは小さく相槌をうちながらも、時折質問を交える。

「不二くんはテニスが大好きなんだね。だってすごい楽しそう」
「……うん。好きだよ」

 自分の隣を歩く少女を不二はいつも見てきた。二つ前斜めの席に座る彼女は黒板を見るには絶対に目に入る距離なのもあるけれど、それとは別に自然と目で追ってしまう。話したことは数えるほどしかなかった。だがその数回は、不二がユキに興味を持つのには多すぎる回数でもあった。
 彼女の眼は不二を取り囲む女子のように浮足立つような軽いものではなく、落ち着きを持ち、凜としている。その眼をむけられると酷く安心するのだ。天才・不二周助でいなくてもいいような気分にさせる。そこに惹かれた。
 いつからか人がつけた天才という像は、彼に押し付ける形で成り立っていた。負けず嫌いな面や、期待を裏切りたくないという思いがそれを後押ししていたのかもしれない。

「好きだ」

 道には誰もいない。夏の気怠さを残す空気がじわりと汗をにじませる。ひぐらしが夏を鳴いていた。

「テニス部の人達ってテニスが恋人みたいだよね」

 検討違いの返答に不二は内心驚きつつ、必死に顔の平静を保った。いきなりすぎたか、と自分の言動を振り返ってみたが、どうやら彼女は鈍感らしい。

「……なかなか手強いね。それもまたいいけど」
「不二くん?どうしたの?」

 頭一つ背の高い不二を、ユキは何食わぬ顔で見遣った。普段にこやかに微笑むクラスメイトは開眼し、スカイブルーの瞳が暗闇で光っていて、ひとつの星のように幻想的だった。

「天宮さん。全国大会の決勝戦が終わったら、聞いてほしいことがあるんだ」





(090901)



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