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 私のクラスには座られたことのない寂しそうな椅子と机がある。幸村くんの席だ。私のクラスの幸村精市という男の子の席。
 幸村くんは去年の冬に入院したらしく、それから退院することもなくずっと病院で療養生活をしているため、私は春のクラス替えではじめて同じクラスになったというものの、その顔を見たことがなかった。テニス部の部長ということで結構有名らしいのだけれど、たくさん生徒のいる立海大付属中の一人だと思うと仕方ない。
 学年便りや学校から配布されるプリントは、同じクラスでもないのに、いつも真田くんというテニス部副部長の人が届けていた。これが友情というものかと、真田くんが私の教室にプリント類を取りに来る時こっそりと思う。今日も月に一度の学年便りが配られたからきっとまた真田くんが取りにくるんだろうなと、日誌を書いていたら教室の扉が開いた。現れたのは、やっぱり学校内なのにトレードマークの帽子を被っている真田くんだった。真田くんは風紀委員なのに、校内で帽子を被るのはいいのだろうか。しかし今日に限っていつもと違い、真田くんは申し訳なさそうな顔で先生に話し始めた。

「先生、今日はどうしても練習試合が入っていて、幸村に手紙を届けることができません」
「そうか。じゃあ…今日の日直は……天宮、お前届けてくれ」
「私、ですか?」
「ああ。大丈夫だ、真田。試合がんばれよ」

 ありがとうございます。そう真田くんはいって教室から出て行った。先生は今なんと言ったのだろうか。今日の日直である私が、幸村くんに学年便りを届けろ、と。べつに今日ではなくても、明日真田くんが幸村くんに届ければいいんじゃないんでしょうか。なんて小心者の私が言い出せることもできず、私の手には幸村くん宛ての学年便りとその他もろもろが渡されたのである。
 かくして私は立海大付属病院へと足を進めているのであった。学校からそれほど遠くない病院で助かった。しかし問題がひとつ。私は幸村くんの顔を知らない。初対面なのだ。これは結構気まずいものがある、と思うのは私だけだろうか。
 とりあえず受付で幸村くんの病室番号を聞き、その部屋へとむかってみるが、病室は無人だった。トイレだろうかと思い、ベッドの近くにあった固いパイプ椅子に座って、病室へ10分ほど待ってみるが一向に帰ってくる気配はなかった。長いということは検査中なのだろうか。気の長い方ではない私はすぐに退屈になってしまって、パイプ椅子から立ち上がる。病室から出て病室周りをうろついてみると、自動販売機などがある休憩室を見つけた。覗いてみるけれど、私と同じ歳のような子はいなかった。幸村くんはここにはいない。そう、私は幸村くんを探すことにしたのだ。退屈だった中、幸村くん探しはかくれんぼのようで少しだけ楽しくなる。
 フロア内を歩き回ってみたが、結局幸村くんは見つからなかったので、近くに会った階段を昇りはじめた。大学付属病院なのでこの病院は結構広い。コの字型に設計された病棟のどこに自分がいるのか、私はわかっていなかった。とにかく上へ、上へと昇る。運動があまり好きではない私には体力はないためか、すぐに息を切らしはじめた。階段を昇りつめると、目の前に扉が出現した。重そうな扉だ。外の世界と病院の中を堅く閉ざしているような。扉のノブに手をかけ、力を込めて開くと、一人の少年が居た。淡い緑色のパジャマを着ている彼はおそらくこの病院に入院している者だろう。私と同じくらいの歳で、儚げな横顔はとても中性的な顔立ちだった。女の子と間違われてもおかしくなさそうな。けれど風になびく髪の隙間から見える喉仏や、私よりも高い背が、少年だと示唆している。

「その制服、立海だね?」

 強い風が容赦なく吹いている。その風にのって声は届いた。私を見る太陽を背にした少年の声は落ち着いていて、逆光で顔が見えない。思わず逆光の眩しさに手で影を作った。

「はい。そうです、けど」

 私が答えると、少年はふうんと鼻を鳴らした。数歩だけ私に近づくと、彼の影が私へ重なり、ようやく真正面から顔を見ることができるようになる。横顔からわかったように、少年は非常に中性的な顔立ちは怖ろしいほど整っていた。あまりに整えられたそれに、思わず恐怖を抱かずにはいられなかったほどだ。

「君は何しにきたの?」
「友人に、届け物を」

 はたして初対面となる幸村くんを友人と呼んでいいのかはわからないけれど、私と幸村くんの関係を即座に言葉へ変換すると友人だった。告げてから友人よりもクラスメイトのほうがあてはまってると思いなおす。また、少年はふうんと鼻を鳴らす。

「君は運動は好き?」
「いえ、嫌いです」
「どうして?」
「動くことがあまり得意ではないので」
「汗をかくのは嫌い?」
「嫌いというよりも苦手です」
「なぜ?俺は好きだよ。がむしゃらに走って、必死に身体を動かして、そうして流れる汗が俺はとても好きだ。好きなのに、できない。この悔しさがわかるかい?」

 双眼で見据える少年は淡々と話す。彼の言葉は厚いベールのように私を包み込み、私は言葉を聞くのに必死で、息をするのも、いつの間にか自分がこの場にいる理由を忘れてしまいそうだった。どくんどくんという自分の心臓が脈打つ音がやけに体中に響いて、頭の奥がきゅうっと縮まり、吐きだされる息が荒い。悔しさがわかるかといわれても、私にはわからない。なぜなら私は少年のように思ったことがないから。走ることも、身体を動かすことも、汗をかくことも好きと思えない私が、悔しいと思えるはずがない。

「立海の生徒なんだよね。幸村精市って名前、知らない?」

 黙り込んだ私に、先程までの鋭いまなざしをやめた少年はそう聞いた。知らぬもなにも、私はその人に会いにきたのだ。顔は知らないが。

「私はその人に、会いにきたんです」
「へぇ。なにしに?」
「プリントを届けるように言われたんです。真田くんがこれないから私が代わりに、頼まれて」
「そのプリントは?」
「これです」

 誘導させるような少年の言葉に、私は完全にのせられていた。鞄からプリント類を取り出して少年に渡すと、彼は手に取って眺めた。右から左へとゆるやかに動く双つの瞳に見惚れてしまう。上から下へと読み終わって顔をあげた少年は、プリントの端を持つ。

「うん、ありがとう。ごくろうさま」

 ――俺が、幸村精市だよ。
 びりびりと破りながら、少年こと幸村くんは言った。私が今まで話していたのは、幸村くんだったのだ。小さく刻まれたプリントが強風にあおられて、桜の花びらのように空へと舞っていく。幸村くんとこの屋上で話始めてから初めて見た彼の微笑みは、神を追求した中世の人々の手によって作られた彫刻物のように美しかった。私の心臓がさらに激しく脈打つ。羨ましいなあ、と幸村くんは続けた。

「俺は走りたい。テニスコートに戻りたい。試合をしたい。もっとテニスをしたい。どうしてこんなに切願している俺は病院に縛られていなくちゃいけなくて、俺が欲しいものを持っている健康な君がのうのうと生活できているんだ。おかしいと思わない?ねぇ、羨ましいよ」

 ますます私の心臓は早鐘のように脈打つ速度をあげる。後ずさった私にうつる幸村くんは、恐怖のかたまりだった。こわい。その三文字がぐるぐると脳内を駆け巡る。

「俺は、欲しがりなんだよ。君の持ってるものが全部欲しい。ラケットを簡単に触れる腕も、テニスコートを走り回れる脚も、倒れることのない健康な身体も、その全部が欲しいんだ」

 ねえ、その価値をわからないなら、俺に頂戴よ。そう続けた幸村くんは微笑んでいた。綺麗に頬をあげて。





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