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『本日は定休日のためお休みです』
 カラフルなかわいらしい文字でそう書かれている、チューリップを象ったプレートが、スザクの営む花屋のシャッターに、ちょこんとかけられていた。隅にしっかりと定休日も書いてある。 商店街の端の方にある数木スザクが仕入れから販売までこなす自営業の花屋は、水曜日と日曜日が週を交互に定休日となっている。ある週の水曜日が休みであれば、日曜は店を開くし、次回の定休日は翌週の日曜である、という風にだ。しかし休みにしたのはいいものの、普段毎日店に立って働くという規則正しい生活をしているためか、スザクはすることがなかなか思いつかない。早朝から悩むことは、もはや定休日恒例となりつつあった。
 ちなみにまだ辺りは薄暗く、かろうじて始発の電車が動き出したくらいの時間である。花の仕入れに向かわなければならないため、スザクにとってこれくらいは普通のことだった。けれど人間、そんな簡単に癖を治すことはできないため、体の慣れでいつもと同じ時間に朝起きてしまったのだった。
 とりあえず、朝食を食べることにした。一日の始まりは、食事から。
 つけっぱなしにしてあるテレビの画面では、天気予報のコーナーだった。それによると、今日は温かな天気で快晴らしい。窓から見える青空には、たしかに雲一つなかった。
 そして画面は、ニュースコーナーに移る。
 毎朝番組の顔となっているお馴染みのキャスターの女性が、笑って挨拶しニュースを読みあげていく。のはずだが、今日の彼女は挨拶の後すぐにニュースに移らずに、いきなり出産予定六週間前をきったため出産休暇を取ることを、幸せそうな笑顔で告げていた。よく見ると彼女の腹も、膨らみが目立ち始めていた。
「お、おめでとう、ございます…?」
 スザクは思わず箸を止めて、独り言を呟いた。数度膨らんだ腹を撫でる女性の顔は、母親のそれを思い出させる。
 そして彼女の代理を勤めるキャスターが、その女性によって紹介された。
『はじめまして!おはようございます。ミレイ・アッシュフォードです』
 フォーマルなスーツ、とまではいかないが、清楚に纏められた新人キャスターは、スザクのよく見知った人物であった。
「み、ミレイさん!」
 思わず叫ぶ。
 ミレイとは学生だったころの知り合いだった。先輩と後輩の間柄で親しくしてもらっていた方だと思う。はきはきとした明るい先輩で、よく突拍子もないことを言って、最後には実現させていた。
(メディアの方に進んだとは聞いてたけど…)
 ブラウン管を通して見る知人に、不思議な気分になりつつも、スザクは箸を再開させた。食べ終わり、洗い物や家事全般を一通りしてみても、まだまだ朝と呼べる時間帯で。スザクは溜息をついた。
 さて、何をしようか。普段ならもうとっくに朝の仕入れに向かうはずだけれども、今日は定休日なのだから行く必要がない。することがなさすぎる。手持ち無沙汰だった。
 けして無欲なわけではなかったが、スザクはストイックな面が強いところがあった。欲しがらなさすぎるといわれたことも、諦めが早いといわれたこともある。自分的にはそんなことないと思うけれど――何かをどうしても手に入れたい、と思うことはあまりなかった。
 せっかくの休みに家の中にいるのも仕方ない。外に出よう。と、スザクは家を出ることにした。この街に越して来てから、暇な時間にだいたいの場所には行ったことはあるけれど、まだ他に行ったことのない場所はあるはずだ。
 街の地図を見てみる。デパート、教会、ショッピングモール、市民体育館、公園、図書館。
(図書館?)
 ふと、そこで目がとまる。
(図書館は行ったことがなかったな)
 スザクはそこに行こうと玄関に向かった。


 ◆


 焦げた赤茶色のレンガで造られている図書館は、どこか中世ヨーロッパの薫りを漂わせている。本の所管数はここら一帯では抜群らしく、地下書庫まであるらしい。ここは一般人が入れることはできないらしいけれど。目の前に立ってみると、レンガがずしんと重く、厳かに感じた。
 スザクは回転式のドアをくぐり抜け中へ入った。なるだけ音をたてないように、そうっと足を動かす。緊張感が隅々まで張り詰めているような館内は、胸を締め付けるようなものがある。通気性が良いのか、肌寒い。
 書庫は噂通り膨大な量の本が多く並び保管されており、この図書館が国有数の中でも有名であることを示していた。ずっと続く棚と棚の間の道を歩きながら、ゆっくりと閲覧していく。本を手に取らずに闊歩するだけでも、知らない世界へ来たようでおもしろい。スザクの知らない文字が並んでいる本もあれば、子供向けのかわいらしい絵が描いてある本や百科事典のようなものまである。何百年もの歴史の中をわたってきた本達の重みが、ずっしりと伝わってくる。 しばらく歩くと、『特別コーナー』とかかれているところにさしかかった。遮りは透明なガラス窓で、中が覗けるようになっていた。誰かいるのかな、とスザクが覗いてみるとそこには誰かがいた。
 皺一つもない白いシャツに映える黒髪。
(ルルーシュ?)
 後姿だけれど、あの細身の身体は、たぶん。きっと。
 平日の朝早くだったからか、人気はあまりない。ちらほらとずっと遠くの奥に、司書がいる程度だ。
 だからスザクは、少し大きな声で声をかけた。
「ルルーシュ」
 その人物は顔をあげて、声のするほうへと体をむける。
「………その声、スザクか?」
「うん。僕だよ」
 スザクはガラスでできた扉を押して部屋へと入った。
「やあ、ルルーシュ」
 扉を閉めれば、空調の音しか室内にはしていない。
「こんなところでも会えるなんてな。少し驚いた」
「僕もだよ。こんな朝早くからルルーシュがいるなんてね」
 スザクはルルーシュの座っている隣の席へ、腰を下ろした。ルルーシュの読んでいた本をちらりと見てみるが、そこには文字らしいものは書かれていない。点のようなものが紙面を覆うように、いっぱいに散乱していた。その上をルルーシュの綺麗な指が、撫でるようになめらかに左から右へと動いている。
「何を読んでいるの?」
「ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』だ」
 どう見ても紙面には文字はない。
 その前に、ルルーシュはいったい何をどうやって読んでいるのだろうと、スザクは疑問に思った。そんなスザクが分かりやすかったのか、ルルーシュはくすりと笑った。
「これは点字。俺みたいな目の不自由な人達は、これで文字を読むんだ」
「すごいね。僕全然わからないよ」
 細かい点だらけの世界を、スザクはまるで別次元のようなものに感じた。どうしても点が並んでいるようにしかみえない。
「そう難しく考えるな。慣れればすぐに解かるさ。外国語のような感覚で捕らえればいい」
 それなら少し身近なものに思えるだろう、とルルーシュは微笑んだ。なるほど、それなら。スザクの中に勝手につくられた重石のような堅苦しさが消えてゆく。
「点字は俺にとっての文字だから。本を読むときはこれに頼る」
 ルルーシュは本を一撫ですると、スザクの手をとって、本の表紙にかかれている点字に触れさせた。
 でこぼことした感触が指を通してわかる。しかし小さな点なので、注意しないと見落としてしまいそうになる。
「これが、しゃ」
 横二列×縦三列の右側の一番上の一つが盛りあがっているのが、『さ』の字。左側の一番上と右側の下二つが盛りあがっているのと組み合わせて、『しゃ』と読む。
「り」
 左側の上二つと右側の真ん中が盛りあがっていた。
「ん」
 左側の一番下と右側の下二つが、盛りあがっている。
 ルルーシュは時間を十分かけながら、声を出し、丁寧にスザクの指を点字に触れさせる。それはスザクにとって未知の世界に片足を踏み入れたようだった。必死に理解しようと指の先に意識を集中させる。ルルーシュの声は気持ち良いテノールで、触れている冷たい手が気持ちよかった。次第に、スザクはぼつぼつとした膨らみに、なんとなく規則性が見えてくる。 そして『車輪の下』の最後のたの字にたどり着くと、ルルーシュは握っていた手を名残惜しそうにそっと離した。離れていった手にスザクは寂しさを覚える。もう少し触れていたかったな、と心の何処かがぼんやりと思った。
「どうだ?」
「六つの点でこんなに世界が広がっているんだね」
 たった六つ。されど六つ。
 けれどそれは、組み合わせ次第で仮名を作り出してしまうものだった。
「不思議だろう? 平仮名しかできないから、漢字に頭の中で変換しなきゃいけないのが少しやっかいだけどな」
「また教えてほしい……って言ったら、だめかな」
 これがルルーシュにとっての文字というのなら、興味が湧かないでもない。
「これくらいならいつだっていいさ。ようやく花のお礼ができる。そういえばスザク。今日、店は?」
 不思議そうな声で、ルルーシュはスザクに言う。その瞳には、やはり自分が居る。映っている。映っているのに。
 スザクはルルーシュに分からないように苦笑した。彼の眼が見えなくてよかったと、不謹慎にも、このときだけ思ってしまった。
「定休日なんだよ。水曜日と日曜日が二週間に一回ずつ。交互にね」
 でもすることがなくて。そうスザクが困ったように言うと、「お前らしいな」とルルーシュがおかしそうに笑った。そしてそういえば、とルルーシュは口を開く。
「お前がくれた花。全部とってあるんだ」
「枯れちゃうよ?」
 どんな生き物だって永遠にその命が続くはずがない。ましてや花は短命で、それに根と離してしまっているから、すぐに枯れてしまう。どんなに眩い色を持っていても、花弁は最後には皺に刻まれ、色暗くなる。香りだってすぐに消えてしまう。
「乾燥させてドライフラワーにしてあるから大丈夫だ。匂いも残ってるし」
「ドライフラワーに? それ……すごい、うれしい。ありがとう」
 ドライフラワーは乾燥させておけば、枯れてもしばらくは観賞することができる。渡した花を、ルルーシュが捨てずに持っていてくれることに、スザクはとても嬉しく思った。しばらくしてスザクはぼんやりとなにかあたたかいものが自分を満たしていくのを感じはじめた。胸の奥にふわふわと、まるで雛鳥を優しく包む親鳥の羽のようなあたたかさが広がっていく。自分がいる場所が図書館ではなく、軽やかなピアノの音が響く穏やかな昼下がりの誰もいないのひっそりとした奥地にいるようなそんな気分になる。初めての気持ちはスザクの中に心地よさを与えた。この気持ちはなんと呼ぶのだろうか。ルルーシュは彼の綺麗な指を再び本の上に戻し、またゆっくりとなめらかに滑らせていた。





(080905→090607)


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