| ナノ




 目が見えないのは生まれたときからのものではなく、幼少の頃の不慮の事故のためであった。だから色は知っていた。
 視覚を失ってから時間が経つにつれ、それを補うかのように他の感覚は発達していった。人一倍敏感になった指先は最先端のセンサーのように触れた物体の型や輪郭を感じとり、獣のように優れた嗅覚は匂いを嗅ぎとり、僅かな音にも敏感に反応する聴覚は物音を聴き逃がさない。
 視力の無い自分の身を危険から守るように、それらが人一倍懸命に働いてくれるので、正体の分からないものが何なのかはだいたい理解することが可能になった。
 目が見えなくなった分失ったものは多かったが、その分、得たものも多くあったのだ。


 もうずっと住んでいる街の中を、ルルーシュは視覚障害者用の白杖を持って歩く。何処に、どんな店があるのかは頭の中に記憶済みで理解しているし、街の人も自分の持っている障害のことを知っているため、街の住人は皆よくしてくれた。
 家を出て、歩き慣れた道を歩き、いつものように角を曲がろうとした。そこはずっと何も無い空き地のはずだったので、ルルーシュは碌に確認もせず、感覚のみで曲がる。そこは何もない、空き地のはずだったのだ。
 けれど何かに躓き、ルルーシュは転んだ。闇に包まれたルルーシュの世界は、イレギュラーなその何かに驚いた。転んだ時に咄嗟に手をついたため、離れてしまった白杖を手探りで探すが、指先が棒の感触に出会うことは無かった。いくら手を伸ばしても、冷たく固いコンクリートの感触しかしない。それでもルルーシュは探す。
「ごめんなさい!」
 頭上から、あわてたように心配する声がかかった。
「僕が出しっぱなしにしたせいで! 大丈夫ですか?」
 声質からして、きっと若い男のものだろうとすぐにわかった。なかなか立ちあがらないルルーシュを心配したのだろうか。ルルーシュは地を這う手を止めて、声のする方へ首から上を向けた。
「俺のほうこそ申し訳ない。…ここらに、白杖は落ちてませんか?」
「白杖?ああ、これですね。はい」
 男はルルーシュがずっと探していたものを、ものの数秒で見つけて、手にのせた。
 そっと手に置かれた相棒ともいえる白杖をルルーシュが握ると、そこには確かな感触があった。それに自分の半身が戻ってきたような安心感を覚え、ルルーシュはほっと小さく息を吐いた。これがないと歩行が難しい自分にとって、白棒はいつの間にか体の一部となっていた。
「ありがとうございます。助かりました。俺は目が見えないんです」
「目が…」
 哀れむような、驚いたような声色は聞き慣れていた。
「そんな声を出さないでください。俺は気にしてませんから」
 これは本当のことだっだ。自分が盲目であることを告げると、必ずといっていいほど相手は聞いてはいけなかったことを聞いてしまったような態度になる。自分は別に気にしていないので、そんな態度取らなくていいものだし、自分が気にしてない分、尚更他人に気にされたくもなかった。何故相手がそう態度を取るのかはわからなくもないが、そんなに大したことじゃないだろうと本人は思っている。
 しかし、その男も失言だったかというように、素早く話題を変えた。
「……手が擦り切れてますね。よかったら中に入ってください」
 転んだ時に擦り剥いてしまったのだろうか、そう言われてからルルーシュは己の手の平からズキズキとした痛みに気づいた。擦り剥いた箇所は空気にあたり、ひりひりと痛み始める。
 青年はルルーシュの手をとって、ゆっくりと室内と思われる所へと誘導した。少しずつ短い歩幅で進んで行くと、急にたくさんの入り交じった花の匂いが鼻孔をくすぐる。
「花の匂いがしますね。良い香りだ」
 嗅覚が優れているために、花々の甘ったるい香りが少々きつくもあった。けれど、それほど嫌とも思わなかった。
「今日オープンする花屋なんです」
「ああ、なるほど」
 それならまるで花畑にいるような錯覚をさせる、この押し寄せるような匂いの量にも納得がいく。
 青年の名は枢木スザクと云った。歳も同じだと知った途端に、敬語はいつの間にか消え去っていた。スザクはルルーシュを店先の近くにあったイスに座らせ、消毒液を浸した脱脂綿で擦りむいた箇所を綺麗にし始めた。途端に消毒液独特の鼻を衝くような匂いが広がる。
 病院を思わせるその匂いは、嫌いではない。少し懐かしいものがあった。脱脂綿が傷口に触れたときにちくっとした痛みが走ったけれど、別に悲鳴を上げるほどのものでもない。
「これで大丈夫」
 声と同時に、ぺたりと絆創膏が貼られた。
「ありがとう。スザク」
 声のほうを向きながら礼を言うルルーシュの目は確実にスザクを見ているのに、その瞳にスザクの姿は映っていなかった。二人の周りにはたくさんの花もあったが、一対の濃紫の細長いアメジストに映されるものは、何一つなかった。それがなんだか、スザクには悲しく、寂しく感じた。
「何かもらおうかな」
 手当ての終わったルルーシュは甘い匂いが漂うこの場所が、店内であることに気づいていた。白棒を持って立ち上がり、それで歩く先に障害物がないか確かめながらゆっくりと進んでゆく。時折、これは、と思う花の前で立ち止まって花の匂いを楽しんだ。この行為はきっと嗅覚が優れているからこそできることなのだろう。
「じゃあ、これはどうかな。ヒナゲシの花」
 スザクは淡い橙が広がる薄く広い花びらが茎先を取り囲んだ花を一輪抜いて、ルルーシュの手に握らせた。
「随分と華奢なんだな」
 ルルーシュは空いている片手で、おそるおそるヒナゲシに触れて、それの姿形を確かめた。産毛のような薄い毛がやわやわと指先にあたり、やけに細い茎を伝って花の部分へと辿りつくと、薄い花弁に指が触れた。
「花は大きいのに茎は細いんだ。色はオレンジ色なんだ」
 ヒナゲシの花は太陽から浴びた光をそのまま吸収したように、とても立派な橙色をしていた。きっと大切に丁寧に育てられたのだろう。そう思うと、スザクは自分の顔が微笑むのを止められなかった。
「力をこめたら折れそうだ」
「可哀想だから、折らないでやってね。丹精込めて育てられた花だから、優しく持ってあげて」
「わかってるさ」
 面白そうに笑うルルーシュに、随分と花の似合う人だと、スザクは思った。そしてルルーシュは、ヒナゲシの花を一輪買い、帰路についた。


 数日後、再びルルーシュはスザクの前に姿を現した。
「いらっしゃいま………ルルーシュ?」
「花を買いに来た」
 前と同じく白棒で前方を注意しながら歩き、時たま花に顔を近づけ、匂いを嗅ぎながら何の花を買おうかと、迷っているルルーシュが、スザクには同性のように見えなかった。もともと中世的な顔立ちで細身の体つきのせいだろう。ショートカットの女性のようにも見えてしまう。
(――僕は何を、馬鹿なことを考えているんだ)
 スザクは頭を軽く振った。
「ゆっくり選んでね」
 スザクはルルーシュがまるで女性のようにみえてしまうなんて、気取られないように、そう声をかけた。
 ルルーシュは本当にゆっくり、というより花の香りを楽しむように、立ち止まっては匂いを嗅ぎ、立ち止まっては匂いを嗅ぎの繰り返しを続けている。
(花が好きなのかな)
 ぼんやりとスザクは思った。一見、外見上で判断すると、あまり興味無さそうな人にも見える。花を好むのはどちらかというと女性のほうが多いため、同性で、しかも同年代のルルーシュの存在はスザクにとってとても嬉しいものである。
「俺に何かついているか?その…視線を感じるんだが」
 自分でも気づかぬうちに、どうやらずっとルルーシュを見ていたようだった。
「ごめんね、何もついてないよ」
 そうスザクが答えると、
「いや、ならいいんだ」
 と、ルルーシュは云った。
 また、ルルーシュは花へと向き合う。
 ルルーシュのその瞳には綺麗に花だけが映っていた。それに気づくと、今度はどうしてルルーシュが視力を失ったかが気になり始める。けれど、赤の他人である自分がそれを聞いていいものか、とも懊悩させる疑問でもあった。
「なあ、本当に何もないか?」
 ルルーシュがもう一度聞いた。視線を感じたのか、悶々と考えているスザクの内心が空気にのって伝わったのかわからないが、ルルーシュはスザクに再度聞いた。
(これはもう隠せないな)
 スザクは瞬間的に、そう思った。そして先日会ってから疑問に思っていたことを口にする前に、一息吸った。
 すうっと、氷のように冷たい何かが、喉奥を通った。
「こんなこと聞いていいのか、わからないけど」
 短く前置いてから、申し訳なさそうに尋ねた。
「どうして、目が?」
 スザクはルルーシュが気を悪くしてしまったらどうしよう、と思ったのと同時に、ぎゅっと身が固くなるのが分かった。筋肉が固まったような、鉛の鎖で縛られたように身動きができない錯覚に陥る。それは自分が聞いたことが失礼に値し、そこまで足を踏み込んでいいのかと、思わざるを得ないものだからなのかもしれない。
 そんなスザクとは逆に、ルルーシュはおかしな昔話をするように、口を開いた。
「それはあれだ。ガラスが――…」
あれは、もうずっと昔の、思い出すのも懐かしいと思うほどの、幼い頃におきた出来事で、事故だった。

 ◆

『留守番は嫌だ! 僕も行く! 良い子にしてるから!』
 そう我儘を云って無理矢理、両親に連いていったのが間違いだったのかもしれない。それとも出かけ先にあったステンドグラスの何色にも射し込んでくる光が、あまりにも綺麗で美しかったため、魅入ってしまったのが間違いだったのかもしれない。ともかく、我儘を云ったことからが、そもそもの原因だったのだろう。
『お母さんとお父さんはちょっとお話があるから、あまりうろちょろしちゃ駄目よ。良い子にしててね』
 駄々を捏ねる息子に根負けした母はしっかりと釘をさし、先に店の者と話をしていた父の隣に座った。母がいなくなった瞬間、うろちょろしちゃ駄目よ、という言葉はすっかりルルーシュの頭の中からは消えていて、知らない空間を探検家のようにルルーシュは歩き回り始めた。
 ゆっくりじっくり隅々まで観察しながら歩いていったルルーシュの前に、一つ、窓にはめられている巨大な物体が待ち構えていた。様々なガラスを組み合わせて模様や画像を模っているステンドグラスがそこにあった。
 初めて見るそのガラスの画は、どこか神々しく息を呑むものを、まだ歳も満たない子供ながらにも感じた。
 瞬き一つできないほど、両目を思いきり開いて、脳奥に模写するようにじっと見ていたら、突然。
 ぱりん、と音が響いたのと共に、目の前に居座っていたステンドグラスが粉々になりながら、割れた。
 その日は風が酷く吹き荒れる日だったので、偶然窓を叩き割るほどの突風が吹いたのだろう。背中から遠く離れたところから、両親の自分を呼ぶ叫ぶような声が聞こえた。
 だが、雪のように降ってきたガラスの破片は、目が奪われてしまうほどに美しく、ルルーシュは瞼さえも動かすことができないほどに、魅入ってしまっていた。
 そして次の瞬間、ルルーシュの目には粉々になった色とりどりのガラス達が刺さっていた。
『痛っ!』
 皮膚よりも軟で繊細な幕に覆われた瞳に、鋭く尖ったガラスの破片が容赦なく襲い掛かった。幼いルルーシュは痛みに反射で目を閉じようとするが、破片が邪魔をして目を閉じることもできない。透明な涙に混じり、どろりとした鉄の匂いのする赤い液体が目の端から流れ落ちた。
 その後すぐに病院にいったが、結局、ルルーシュが失明を免れることは出来なかった。
 最後にルルーシュの色が溢れる世界を印象深く飾ったのは、失明するに至った物である、舞い降ってくるガラス達であった。目が離せないほど、外から差し込む光に反射してきらきらと輝く破片は、とてもとても美しく、この世のものとは思えないほどのものだった。

 ◆

 話し続けたルルーシュの声色は、心なしかどこか楽しそうで、宝物を自慢する子供のようにも聞こえた。そのおかげか、スザクの心の中にあった罪悪感は少し薄れる。
「俺はあのガラスが最後に見れてよかったよ。あれはたくさんの色を残してくれた」
 ルルーシュは過去となったその時を、懐かしむようだった。
 まだ、鮮明に覚えている。ステンドグラスの欠片が太陽の光に反射することで、様々な色を作り出し、雪のように降ってきたあの時を。不思議とあの瞬間、降ってくる欠片に怖いという思いを抱かなかった。恐怖心を感じないほどに、見入っていたのだ。
 きっとこの先どんなに時間が経ってもこの記憶が薄れることはないのだろう、とルルーシュは理由もなく確信していた。
「話してくれて、ありがとう」
 目を細めるルルーシュは至極幸せそうだったので、スザクも何故か温かな気持ちになる。幸せのお裾分けというものだろうか。
「ねえ、ルルーシュ。きみの好きな色を教えてくれる?」
 好きな色。
 ルルーシュの中に、まだ目が見えていた頃の過去の鮮やかな思い出が、ふつふつと浮かんできた。もう見ることができなくなってしまった今、ルルーシュの映像の全ては過去の記憶だけだった。その中から色を思い出す。
「紫だな。俺の瞳の色だ」
 アメジストが、きらりと輝いた。
「ルルーシュの瞳はとても綺麗だね」
 何も映すことのない紫の瞳は、目としての機能を果たさなくなった時から時が止まったようで、汚れをしらないように透き通っていた。
「父譲りなんだ」
 紫の宝石を敵から守るように、長く細い睫毛がしっかりと覆っていた。
「これをあげる。アネモネの花」
 特別ルルーシュの瞳を映し出したような紫の花弁を持ったものを、スザクはルルーシュに握らせた。一瞬、ヒナゲシを握らせた時のことを思い出す。ヒナゲシの華奢な茎とは違い、しっかりとした皮に守られたアネモネの茎は、容易く折れることはないだろう。
「金を…」
「別にいいよ。ルルーシュが話してくれたお礼だと思って受け取って」
 ルルーシュの手に握らしたアネモネから、スザクは自分の手を離した。
「これがアネモネか」
 ルルーシュがこれまたおそるおそる花弁に触ったり、匂いを嗅いだりするので、スザクはなるべく丁寧にゆっくりと花を説明した。出来るだけルルーシュが想像しやすいようにと。アネモネという花を名前でしか知らなかったルルーシュは、楽しそうにスザクが話す花の特徴を脳内に描いた。
「アネモネの花言葉を知ってる?」
「ええと……期待、真実、だった気が」
 急に訊ねたスザクにも関わらず、ルルーシュが素早く正解を口にするので、スザクは軽く驚いた。
「よく知ってるね」
「昔読んだ本に書いてあったんだ。他にはあるのか?」
「えっと他はね…忍耐、期待、儚い恋。あなたを愛します、とか」
「そんな意味もあるのか。さすが花屋だな」
「花言葉はおもしろいからね」
 たとえば薔薇なら愛。百合なら純潔。アカシアなら友情。
 一つ一つの花に意味があってとてもおもしろい、とスザクは言った。その言葉に、ルルーシュはまだ目が見えていたころに行った花畑を思い出した。春先だったため、たくさんのチューリップが咲き誇っていた花畑は圧巻で、思わず溜め息がでてしまったほどだった。
 チューリップの花言葉は、たしか、博愛。
 きっと自分が今ここにいる花屋も花畑のようにさまざまな花がたくさんあるのだろう。
「明日また来てもいいか?」
「もちろん。きみなら大歓迎だよ」
 断る理由は一つもない。それにルルーシュと話すことがスザクはとても楽しく、安らぎも感じていた。それは友人として、だけれど。
 そして手にアネモネの花を持ち、ルルーシュは帰っていった。スザクはその後ろ姿を見送る。

 次は何を用意しようか。彼の瞳の、紫の花。





(080905→090321)


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