| ナノ


01.おかしいようで、

 彼女に始めて会ったのは、とても小さな赤ん坊の時だと思う。女姉妹が三人もいたから、彼女の母アレクサンドラは今度こそ女ではなく男の子が欲しかったようだけど、腹を痛めて産んだ子は残念ながらまたしても女の子だった。それでも生まれてきたことをまだ幼い姉達に祝福されているアナスタシアを見て、僕はまるで猿のようだと、とても失礼なことを考えていた。力を込めればすぐに息絶えてしまいそうな赤黒くしわしわの肌をした非力な赤ん坊は、少々グロテスクだ。けれど青灰色をした二つの瞳いっぱいに僕を映し、頬を崩して笑った顔は花のようにとても可愛くて、猿なんて思ったことを心の中で謝った。すくすくと成長し、それと共に立派になっていく金色の髪は、極寒に咲く向日葵のように見えた。
 いつだったか、「アナスタシアの髪は向日葵のようだね」と言うと、アナスタシアは嬉しそうに「イヴァンの好きな花ね」と嬉しそうに笑っていた。
 だが、ロシア帝国の厳しい寒さの中で向日葵が咲くことは決して無く、滅多な事でもない限り僕の国の民は写真や絵でしか見ることができなかった。自由に歩き回れる僕と違って、王宮から出ることのできないアナスタシアも同じで、彼女は実際の向日葵を見たことがない。夏を焦がれる僕が好きな夏の花。
 大地に根強く足を張り、太い茎は人間の背骨のように太陽のような花を支える。あの立派な花がこの国を埋めつくせたら、どんなにいいだろう。


02.忘れるくらいの永い時を

 歳を重ねて行くのと同時に、おてんばなところも成長して行き、少し病弱だったが明るくて活発な子に育つアナスタシアは本当に向日葵のようだった。
 アナスタシアを産んでから数年して、アレクサンドラはまた子を身篭り、今度こそ男の子を出産した。その喜びようはまるで砂漠から水が噴き出すようなもので、国をあげて皇太子の誕生を喜んだ。名をアレクセイといい、初めての男の子であり後継ぎなのでアレクサンドラは自分の息子に盲目的な愛を捧げる。彼女は息子を溺愛していた。しかしアレクセイは体が弱く、床についているほうが多かった。アナスタシアは歳が近いせいか、よくアレクセイの面倒をみていて、ひょうきんな子供から面倒見の良い姉になりつつあった。僕は親のような兄のような気持ちでそれを見守る。
 僕にとってアナスタシアは妹のような存在だった。正直なところ妹のナターリヤはあまり甘えるような素振りを見せないよく出来た妹なので、僕が何もしなくても自分ですべて片付けてしまう。だけどアナスタシアは、なにかと僕を頼る。他国に恐れられていた僕にとって、それがこそばゆくも、嬉しかった。
「アナスタシア」
 クレヨンを握り、手を必死に動かしているアナスタシアに背後から声をかけると、くるっと首を動かしアナスタシアが僕を見る。振り向いたのと同時に、後ろで結っていた髪が円をかきながら回った。薄いブルーのリボンが波状の金色の髪に映える。
「何をしてるの?」
「ふふ、見て」
 画用紙いっぱいに広がる黄色と人のようなものが二つ。手を結んでいる。黄色はきっと。
「向日葵畑よ。イヴァンと私、手を繋いで歩くの!」
 僕が向日葵を好きなことを知っているからか、画用紙はたくさんの向日葵で埋めつくされていた。紙の中の僕は笑っていて、アナスタシアも笑っていて、その小さな世界には雪なんて結晶一つなかった。
「イヴァンにあげる!」
「いいの?」
「うん。だってイヴァンのために描いたものだもの」
 ありがとう、と僕は大事にそっと丸めてそれを自室の一番見えやすいところに飾ることを決めた。しばらくその絵を眺めていると、アナスタシアは言った。
「冬は嫌い?私は好きよ。真っ白で銀色の光がきらきらしてて、お家にみんないて、寒いけどあったかいもの!」
「冬が温かい?」
 極寒の地に震えてばかりの僕には、アナスタシアの言うことがわからない。
「ええ、雪が降れば父様も母様もお姉様達もアレクセイもみんなお家にいて、それにイヴァンがいるわ」
「僕?」
 予想もつかない事ばかり言うアナスタシアに驚いてばかりだ。
「だって私、イヴァンだいすきだから。イヴァンがいてくれたらとても楽しいもの!」
「………僕もアナスタシアのこと、好きだよ」
 口元をくしゃりとはにかませて、ふふと笑う。子供なのに上品さがあり、すごく綺麗だと思った。
「ねえ、向日葵ってどれくらい大きいの?」
 本物を見たことのないアナスタシアは、向日葵とはどういうものかとよく聞いてくる。遠い昔に見た花を説明してあげると、うっとりした顔で彼女は僕の話に耳を傾けるのだった。僕はその穏やかな時間がとても好きで、ずっとずっとアナスタシアに話してあげたいといつも思った。アナスタシアは、あの五人の子供達の中で一番僕を慕ってくれていた。人懐こい性格がそうさせたのだろうか。僕が彼女を妹のように思ったように、彼女も僕を兄のように思えたのだろうか。
 国として、僕の体の中を流れる時間は普通の人間とは違うのに。


03.雷雲が現れて

 世界は止まることを知らない。時間はなにが起ころうとも進む足を止めないのだ。
 ヨーロッパで不穏な空気が絡み合う中で、複雑な同盟や対立が絡み合いながらも一秒一秒変わってゆく世界には、暗雲がかかり始めていた。
 その頃にはアナスタシアは十代半ばで、もう社交界に足を運んでもいいような立派な淑女だった。とはいっても、おてんばなところは全く変わっておらず、相変わらずドイツ語の勉強の時間には部屋から逃げ出して、よく先生を困らせていた。僕のところで隠れ逃げるのもそう少なくはない。そのたびに僕はこっそりと彼女を匿ってあげた。勉強も大事だと思うけれど、僕がアナスタシアと楽しむのも大事だと思うから。
 国民の不安は僕にすぐに反映する。戦争が始まることによって生まれる不安と、逆に始まることによって利益を得たい者達の比例している気持ちは、口で言われるよりも肌で感じたほうがダイレクトに伝わり、体調が良くない時もあった。そんな時必ずアナスタシアは僕の手を握り、「大丈夫?」と心配そうな声で傍にいてくれるのだ。それがどんなに心強かったことか。
「きっともうすぐ大きな戦いが始まる」呟けば、アナスタシアは恐る恐る口を開いた。
「イヴァンも行くの?」
「僕は国だからね。行かないと」
 最前線とまではいかないが、それでも戦場には赴かなければならない。国としてすべきことは山のようにあるのだ。兵士達の志気を高め、少しでも国に勝利への道をもたらさなければ。勝たなければならないのだ。敗北の二文字を味わってはいけない。
「だめ!嫌よ、イヴァン行かないで!」
 眉が下がる。青灰色のつぶらな瞳いっぱいに涙がたまる。
 震える肩はこの子が赤ん坊だった時と変わらず、とても小さく見えた。泣くまいと精一杯に維持を張っているところに愛おしさを感じる。心から僕を慕ってくれるアナスタシアを誰が悲しませたいと思うだろうか。できるなら悲しませたくない。護ってやりたい。
 けれど僕はアナスタシアのその言葉に、ただ笑うしかできない。すべてを決めるのは僕ではなく、上司なのだから。


04.ないがしろにされてもいいよ

「兄さん」
 ドアを後ろ手でナターリヤは閉めた。音をださないあたり、忍び込むのが得意なだけある。足音は絨毯に吸い込まれて聞こえない。僕と同じでなかなか歳をとらない、国であるナターリヤも、やはり気づいているのだろう。
「戦争が始まりますね」開口一番にナターリヤが言ったことに、イヴァンはやっぱりと思った。「この間イギリスとフランスと同盟を組んだよ」
 三国協商という名のそれは、オーストリアとドイツとイタリアの三国同盟に対して結ばれたものだ。イギリスは日本と同盟を結んだというし、結んで損はないだろう。
 きっとたくさんの国を巻き込んだ戦いになるのは目に見えている。だから仲間はいたほうが良い。過去の戦争は力が第一だったけれど、ここ最近では頭脳戦も視野に入れられ、騙しあいや誤情報を流すなどとても面倒くさくなった。
「ナターリヤ、向日葵が咲くのは温かい場所なんだ。僕はその地を手に入れたい」
 南が欲しい。極寒を知らない土地が欲しい。吹雪に震えることを知らない土地が欲しい。氷柱に刺される痛みを知らない土地が欲しい。
「…アナスタシアに見せてあげるの?」
「本や絵だけじゃなくて、本物を見せてあげたいんだ」
「さっき泣いてたわあの子」
「少しいろいろあってね」
 僕は死なない。この国が死ぬまでは。ナイフで刺されても銃で撃たれても毒薬を飲まされても必ず治ってしまう。僕は死ねない。
 そこが僕とアナスタシア達の間にある見えない分厚い壁だった。人の言葉で不老不死という。歳はとても長い時間をかけてとることはできるため不老ではないけれど、体は国が滅びなければ不死だ。人にはどこかで必ずしも不老不死を願っているところがあるため、僕のような国の化身をうらやましく思う者もいれば、恐ろしく思う者もいる。同じ時間を過ごせず、ただ見送り続けることしかできないことは、とても虚しく、哀しいことなのに。おいていかれるのは慣れっこだが、とても悲しいのだ。
「人間は面倒くさい」
 ナターリヤが吐き捨てるように云った。人間は面倒くさい。時間軸の違う僕らはそれをよく感じる。
 短い時間しか生きれない人間は欲深く醜い。醜いからこそ、一瞬が美しいのだけれど。
「アナスタシアは中庭を抜けて薔薇園に向かっていました」
 まったく。
「早く行ったほうが」
 よく出来た妹を持ったものだ。


05.いつか、何かが終わるなら

 窓の外では雪が我が物顔をして駆けずり回っている。跳びはねたり、転がったり、逆立ちしたり、何をしても咎められず、許されると思っているのか。もしそうなら少し考えないといけない。
 それに負けじと、部屋の暖炉は轟々と音をたてて燃えている。槙の軋む音や酸素を取り込む音がやけにうるさかった。
 エカテリンブルクの閉鎖的な館の部屋で、鋼のような堅い袖に腕を通し、国の紋章が入った鉛のようなボタンをとめる。机に置いてある軍帽を被り鏡の前で直した。すべてが堅苦しい服は首を絞めるような錯覚をもたらす。それを紛らわすように昔姉さんがくれたマフラーを首に巻きつければ、鏡に映る僕は立派な軍人だった。
 がたん、と音をたてて扉が開き、気まずそうに入ってきたのはアナスタシアだった。閉鎖された家に監禁されているせいか過去の健康さが損なわれ、いつもと違い僕の目を見ない。白肌の手はぎゅっとスカートを握っている。そんな力を込めたら服に皺がよってしまうよ。そう言いたいのに言えない。
「行ってくるね」
 頬に手を沿え、豊かな黄金色だったのに艶がなくなってしまった髪を避け、額にキスをする。
 必ず帰ってくるよ。そう言わなかったのは絶対に帰ってくる自信があったから。
 すぐにまた会えるて信じていたから。

 1918年1月。新年を迎えたばかりの、僕の大嫌いな雪の降りしきる凍てつくような寒い日のことだった。


06.冬は消えない

 すぐに帰れると思っていた僕の考えはどうやら甘かったようで、半年経った7月を迎えても、僕はまだ戦場に居た。
7月といっても暑いこともなく、やはりこの地が今は雪は降らなくとも冬将軍の住まう土地だと思わせる。
本当にたまにエカテリンブルクに戻ることもあったけれど、すぐにこちらに戻らなくてはいけないからゆっくりすることもできず、一日泊まるだけで精一杯だった。
 その代わり、でもないが、アナスタシアからは頻繁に手紙がきた。今日のアレクセイの様子だったり、姉達と悪戯したことだったり、少しドイツ語が読めるようになったりだとか。イパチェフ館から出れない一家にとってどんなに精神的に辛い状況でも、アナスタシアからの手紙はとてもそんなことを感じさせるものはなかった。でも必ず最後にはさびしいと書いてあり、読むたびにごめんねと謝りたくなる。
 最初の頃は僕も返事を書いていたけれど、時間が経つにつれてその余裕もなくなり、送られてくる手紙に目を通すので一杯一杯となる。
 だけど毎月三回はきていた手紙が、もう半月を過ぎようとしているのに今月はまだ一通も届かない。僕はあの子からの手紙を心待ちにしていた。
「イヴァン!皇帝陛下が、」
 慌ただしく部屋に入ってきた上司の顔は青冷めている。その顔と手にしている紙は酷く僕の不安を誘った。
「ニコライ二世含め、アレクサンドラ様、ご子女のオリガ様、タチアナ様、マリア様、アナスタシア様、ご子息のアレクセイ様虐殺、との…!」
 続く言葉は不安を誘うどころではなく、大きく裏切るものだったが。
「え…?」
 耳を疑った。
「市民には皇帝陛下しか殺されておらず、家族は安全な所へいると発表するそうだ…」
 嘘、だろう。上司の声は無機質なもになり、聞こえない。走馬灯のようにアナスタシアの思い出が浮かぶ。
 すぐまた会えると、信じていたのに。

 僕は馬に跨り、田舎道を走らせた。後ろから聞こえる、僕を止める上司の声など一切耳に入らず、心ばかり焦る。それから何時間も走ったかわからないが、エカテリンブルクに着き、白いペンキで塗られたイパチェフ館の窓が見えてくると心臓の音がとても五月蝿く、気を抜けばぽろっと口から出てきそうだった。馬から降り、急いで家へ入る。家の中はまだ血生臭さが拭いきれていなかったので、きっとまだあるのだろう。階段を降りた。
 かつ、かつ、と靴が響く。階段を降りきると一つの扉がそこにあった。扉は至極重そうで、その奥の部屋を外の世界から遮断させるような威圧感があった。
 その扉は開けてはならない。開けたら、そこには。脳内が必死にそう訴えるけれど、ああ神様、と祈るような気持ちで僕は扉を押した。転がるのは十一の人だったものたち。床に広がる赤黒く濁ったものはもう固まっていて、事後から時間がかなり経っていることを告げていた。


07.雪の舞を眺めながら

 あれから戦争が終わったかと思えばまた戦争が起こり、アメリカと冷戦をしたり、いろいろとあったけれど、あの頃よりは平和と呼べる時代となった。
 今日もこの国には雪が降る。雪が降るたびに思い出すあの少女が描いた絵は、まだ部屋にきちんと飾られてある。
「ロシアさん?」
「……ああ、何?リトアニア」
「いえ、窓から目をそらさないので。何か見えたんですか?」
「ううん、ただの銀世界」

 冬は嫌い?私は好きよ。真っ白で銀色の光がきらきらしてて、お家にみんないて、寒いけどあったかいもの!
 雪が降れば父様も母様もお姉様達もアレクセイもみんなお家にいて、それにイヴァンがいるわ。

 そうだね。君がいないととても寒いよ、アナスタシア。





歴史上の人物を取り扱いましたが、必ずしも史実に伴っているわけではありません
多少捏造してありますので、ご了承ください
(090627)



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