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黄昏泣き

 天宮ユキは死んだ。僕が、殺した。
 頑丈かと思われる体は硝子のように実に繊細で、僕が何かすれば彼女の小さな身体は全身をもって反動した。滑稽なその運動がやけに愉快で、僕は何度も何度も繰り返す。最初は大きく反応していた体は次第にその大きさを萎ませ、だんだん勢いがなくなる。僕はそれにまた苛つきを覚え、さらに力を込めた。
 絶命に気づいたのは瞳孔が開き、ぴくりとも動かなくなったのを不思議に思って、心臓の鼓動を確かめてからだった。とくん、とくん、と生きているのなら聞こえる鼓動の音が、ユキの胸の上から聞こえず、手首に指をあててみても音を感じることはなかった。
 ―――ああ、死んだのか。
 この世界のなによりも大切にしてきたユキの死を、淡泊にも、そうとしか思わなかった。焦燥感は確かにあったけれど、開放感も、またあったのだ。そう、開放感。この瞬間、僕は何から開放された。これでもう僕は彼女を傷つけずに済む。
 誰よりも幸せにしてあげたかった。誰よりも自由の中で過ごさせてやりたかった。
 それなのに、こうやって手をあげるようになってしまったのは、いつからだろう。これもまたいつからかわからないが、気づいたら我を忘れユキに暴力を働いた。自我が戻れば、僕の目の前には床に倒れているユキがいた。数あるこの暴動の中には、時おりユキが意識を失っていることもあった。僕が己のしでかした事を悔やみ、謝っても、ユキはごめんなさいの文字しか繰り返さず、僕が悪いと一言も責めなかった。けれど献身的な痛々しいその態度は、無言で僕を責めていた。ユキの慈愛にも似た海よりも深い優しさは、僕を辛酸にさせるもの以外、何物でもなかった。
 動じない体を抱えると、かつてあった温かな体温は冷え切っているのがわかる。天宮ユキという人間のいない世界が、ようやく現実味を帯びてきた。現実は、波のように押してはひいていく。僕の腕の中で静かに横たわるユキは、声をかければいつかのようにけだるそうに目元を擦り、間延びした声で僕の名を呼んでくれそうだった。実はそうなのかもしれない。これはユキの茶目っ気たっぷりの悪戯で、実は、本当は生きているのかもしれない。そんな子供じみた希望を夢見るも、僕の脳はこの死を受け入れつつある。
 腫れ上がった顔は穏やかで、ユキは倖せそうに微笑んでいた。
 死して、尚、僕を赦すのか。
 はじめから僕には君ひとりしかいない。古い記憶の底にいまも血の池で佇む少女は、僕を見つめていた。
 君はもういない。
 頬をぬくいものが伝う。指を這わせる。それは初めて見る、透明な液体だった。


透明人間

 沢田綱吉は痺れを切らしていた。苛々しているときに無意識にしてしまう貧乏揺すりが、時間が経つにつれてだんだんと強くなっていき、ボンゴレ幹部のひとり、獄寺隼人は内心冷や汗を流す。しかし彼にはあきらかに不機嫌な自分のボスの機嫌を損ねた原因が、いくら考えても思いつかなかった。朝食に何か嫌いなものがあったのだろうか、と考えてみたが、わざわざ彼の嫌いなものを出す無粋なシェフなど雇った覚えはないので案を消す。次に考えてみたのは、抗争関係でいざこざでもあったのだろうかということだった。だが、話術巧みな沢田綱吉がそんなことで悩むことはなかなかないので、きっとこれも違うだろう。朝からの出来事を律儀に一つ一つ丁寧に思い返してみるが、叩いてみても埃が出ることは一つもなかった。記憶力に自信はあったので、見落としなどするはずがない。
「十代目、なにを怒ってるんですか?」
 獄寺は意を決して、眉間に眉根を寄せている綱吉に訊ねた。考えてもわからないのなら聞くしない。気づかないことを決めて、スルーするという行為のできない、自分に正直な獄寺だった。
「べつに。怒ってないよ」
 幾分か声のトーンが低い綱吉の返答に、獄寺はさらに慌てた。こんなに見え見えの態度で、どこが怒ってないというのか。
「怒ってないけどね・・・・・骸がさ」
 綱吉の続けた言葉に獄寺は反応した。骸、という名は幹部の一人の男の名だった。そしていつかは綱吉の命を狙ったことのある、油断ならない男でもある。また何かやらかしたのかと獄寺は怪しむ。
「こないだアメリカに用事でいってもらったんだけど、結果報告を書類で提出するっていったくせに、あいつまだ書類を出してこないんだよ。もう五日も経つのにさ」
 いくらなんでも遅いと思わない?と綱吉は言う。
 たしかに獄寺も五日は長いと思った。それは六道骸という男は油断ならない男だが、有能な男でもあったからだ。完璧主義者というのだろうか、プライドが高いだけなのか、与えられた任務に失敗したことのない出来のいい奴だった。綱吉の力に一番なりたいと思う獄寺にとっては、そこが少し憎らしい。
「それは少しおかしいですね」
「うん、そうだよね。よし、隼人。骸の家にでも行ってみようか」
「は?十代目?」
「部下の責任は俺の責任。ましてや骸は幹部なんだから、俺が直々に行こうかな。いろいろ言いたいしね」
 綱吉は座っていた椅子から立ち上がった。柔らかな羽毛たっぷりの椅子を元の位置に戻るよう押し、腕を後頭部で組んで、ぐんと伸びをする。綱吉は良いことを思いついたとばかりに上機嫌へ変わり、あの低い声はどこへやら、今はもう楽しそうな声だった。それに比べて、急に出来た予定に獄寺は慌てていた。たった数分の出来事に、彼の頭はまだ追いついていかない。
「じゃあ三十分後に車用意しておいて。よろしくね、隼人」
「・・・・・・・・・わかりました」
 けれど敬愛する綱吉がこういうからには獄寺は従うしかないのだ。自分の尊敬する人物にわざわざ反抗する馬鹿がどこにいるだろう。綱吉が自室へと戻るのを確認してから、獄寺は携帯を取り出して、部下へと連絡をいれる。
「今から三十分後に表に車を用意しろ。六道骸の自宅へ十代目が出かける」
 部下からの了解の声を聞き、電話を切った。骸の家を訪れるなんて久々なので道のりはあまり憶えていないが、きっと今車を用意している部下は、同時にそれもきちんと調べているのだろう。獄寺は息を吐き、ポケットから煙草を一本抜いた。
 三十分後。ボンゴレ屋敷の前には黒塗りの車が一台停まっていた。一目で有名車会社のものだとわかるそれには、傷一つ無く、よく磨かれているのかきらりと光っていた。獄寺が車の前で綱吉を待っていると、綱吉はスーツにコートを羽織って現れた。獄寺が車の扉を開け、綱吉は中へと乗り込む。
「今日はすこし冷えるね」
「もう冬ですからね。風邪ひかないでくださいよ」
「はは、気をつける」
 よく熱を出していた若かりし頃を思い出して二人は笑った。綱吉が熱を出すたびに獄寺は、この世の終わりがきたような顔をして彼の家へ押しかけ、率先して彼の看病に徹した。それが空回りしてさらに綱吉を悪化させることも少なからずあったけれど、その誠意は確かに綱吉には伝わっていた。現在もこの世の終わりがきたような顔をして率先して看病するところは変わっていない。けれどもう空回りすることはなくなった。それに時間の経過を感じられる。綱吉を慕う獄寺は、きっと綱吉のためならば命をも投げ出すだろう。それくらい彼は沢田綱吉という人間を敬慕しているのだった。
「六道様のご自宅へ到着しました」
 なめらかな運転で進んでいた車が静かに停車した。獄寺は先に降り、表札を確認する。たしかに六道と書かれてあった。滑らかな文字で書かれている表札を見ながら、たしかこの広い家には骸だけでなく、もう一人住んでいたことを獄寺は思い出した。話では何度も聞いたことのある、天宮ユキという名の少女だったはずだ。
「ここも久しぶりだね。さて、骸はいるかな」
 律儀にも綱吉は玄関でチャイムをならしたが、機械音がした後、家の中から物音は聞こえてこなかった。もう一度綱吉はチャイムを押す。数秒待ってみるがやはり変わらない。
「留守にしているんでしょうか」
「うーん・・・・・・いや、違う」
 顎に指をおき黙考した綱吉が車へと引き返すと獄寺は思った。しかし綱吉は車へと戻るどころか、屋敷への扉のドアノブを握った。ぐるりとまわり、扉は開く。
「鍵が閉まってない。骸は中にいる」
 そのまま彼は屋敷へと足を踏み入れた。外出する際に鍵を掛け忘れるなんてことを六道骸はしないだろう。だからきっとこの屋敷のどこかにいるはずだと綱吉は思い、広い屋敷を歩き始めた。部屋が多く、なかなか目的の姿は見つからない。一階を一通り巡ってみても何も結果は得られなかった。綱吉は獄寺を引き連れて二階へと続く階段へ足を伸ばす。
 階段を上りきってすぐに、妙なにおいがした。異様な臭い、そして奇妙な違和感が二人の中を駆け巡る。綱吉と獄寺はお互いに視線を交わし、頷いた。きっとこの先に骸がいると確信を持つ。不自然さを感じながら恐々と前進していった二人が見たものは、呆然と床へしゃがみ込み、放心している六道骸だった。背をむけられているため顔こそは見えないが、あの独特な髪型と後ろ毛は六道骸だと断言できる。
「骸?」
 綱吉は確かめるように問いかけた。その声が聞こえないのか、骸は微動だもしない。
「骸」
 もう一度綱吉は声をかけた。それでもやはり骸からは反応がこない。痺れを切らした獄寺は怒鳴った。
「てめぇ!十代目の声を無視すんのか!」
 背をむけていた骸の肩を掴み、獄寺は自分のほうへと力を込め、振り向かす。首だけでなく体全体が獄寺達のほうへと向いた骸に、綱吉は息を呑んだ。遅れて獄寺も動揺したように、その肩を離す。
「骸?その子・・・・・・ユキ、だよね」
 骸の腕の中には生きている人間の色をしていない少女が力無く横たわっていた。綱吉の言葉で、獄寺はその少女がよく骸の話にでてくるあの天宮ユキだということを飲み込む。赤みのささない肌は驚くほど青白く、所々にどす黒い痣が見えた。普通ならば曲がらないほうへ曲がった腕が残忍さを物語っている。
「・・・・・・・・・ああ、ボンゴレですか。それと君も」
 ようやく綱吉に気づいた骸は、覇気の無い顔で綱吉と獄寺を確認した。
「ユキが」
 かつて宝石のようですごく綺麗と褒められたことのある群青と緋色の瞳から涙が静かに零れ落ちる。
「死にました」
 骸は何度も涙を零したのだろう。頬にはいくつもの跡が残っていた。階段を上ったときに感じた異様な臭いと奇妙な違和感はこれだったのだと、二人は悟った。おそらく息絶えてからずっとこの状態だったのだろう。あれは骸の腕に抱えられていた死体から発せられる腐乱臭だったのだ。
「眠っているように、見えませんか。すごく安らかでしょう。僕が殺したんです。あの日、僕がこの手でユキを殺しました。でもこれでようやく、ユキは本当に自由になれた。よかったんです。これでよかったんですよ」
 骸は囁くように声を発していた。あまりの痛々しいその様子に獄寺は目をむけられなくなり、視線を外した。綱吉は骸へ近づく。視線が交わるように彼はしゃがんだ。
「ボンゴレ、これはなんでしょうね。初めてなんですよ、こんなこと。こんなに心臓が張り裂けそうになるのは初めてです。目から液体が落ちるんです」
 骸はユキが帰らぬ旅へと立ってからその場から動くことができなかった。動けばこの小さな体が消えてしまいそうで、離せなかった。腕の中に抱いていないと消散してしまいそうだった。身体も動くのを拒否した。足があがらないのだ。唯一動く手でユキの頬を撫でたり、髪を梳かしてみたが、冷え切った肌は虚しさを生み、生命活動のない体の髪はぎしぎしと硬かった。
「それは涙っていうんだよ」


手紙

 六道骸様
 拝啓 晩冬の候、いかがお過ごしでしょうか。
 とはいっても同じ家で暮らしているのだから、そんなこと聞かなくてもわかっています。こうやってペンを握って手紙を書くのは少し気恥ずかしいところもあるけれど、ペンで紙に何かを書いておくことは、とても大事だと思うのでこうして書いています。この手紙を読む時は私が死んでからがいいです。じゃないと恥ずかしくて、きっと骸の顔を見ることができないと思うから。
 いろいろと書くことはあるのだけど、これだけは先に書いておきます。私をあそこから出してくれて本当にありがとう。
 昔言ったこともあると思うけれど、私の記憶の始まりは薄暗い部屋で機械を操っている白衣を着た大人達です。でも正直に言うと、私はあの人達のことが嫌いではありませんでした。あの人達は私を実験対象として扱っていなかったはずなのに、なぜでしょう。情が湧いているのだと思います。骸と初めて話した時、あなたはまだ名前がありませんでしたね。よく覚えていないけれど、どう呼んでいいのか迷ったこともありました。子供だったのでそんなに悩んでもないと思いますが。大勢の子供達がいる中、私の傍にずっといてくれた骸は、私にとって特別でした。骸達が来る前にはあの場所には私は一人きりだったから最初は戸惑ったけれど、大人びた骸は私の望むままに私の傍にいてくれましたね。嬉しかったです。
 はじめ、骸が外の世界を見たいと思わないかと聞いた時、私は外の世界というものがわかりませんでした。あの場所が私の世界すべてでしたから、当然ですね。夜に骸に手を引かれて誰もいない廊下を歩いた時は、荒波の中を筏で航海に旅立つようなものでした。胸が高鳴ったのと同時に少しだけ恐れを感じていたのを、あなたは気づいていましたか?そういえば、この時骸の名を私は知ったのですね。六道骸。あなたの名前。それまで呼べなかったあなたの名前を口に出して呼べることの喜びといったら!言葉じゃ表せないほとに嬉しかったです。
 二月も終わりに差し掛かってきましたが、まだまだ寒さは厳しさを和らげません。それどころか、最後の粘りとばかりに厳しさを増しているようにも思います。こんなにも寒い日が続くと思い出されるのはあの雪国です。骸は、雪国を覚えていますでしょうか。私の呟きから始まった旅でしたね。骸と二人で遠くへ出掛けるのはこれが初めてだったと思います。あなたの周りにはいつも犬と千種がいましたから。私ははしゃぎ疲れて行きの列車で寝てしまって、確か汽笛の音で目を覚ましたと思います。トンネルを抜けた後に広がった銀世界は、この世のものとは思えないくらい美しいものでした。地面を覆う深雪が太陽の光できらきらと輝いて、本当に目を見張るものがありました。私は今でも覚えています。二人で徒然と歩いた雪道は夢の中にいるようで、気持ちが良かったです。
 骸に連いていった日本は、四季の国というだけあって巡る季節が美しかったですね。目だけでなく肌でも楽しめるあの国はご飯がとても美味しかったです。あの国の桜は見事なもので、どこを見渡しても桃色が広がる満開の桜は圧巻でした。
 骸は私を喜ばす天才ですね。本当に幸せでした。けれど私、実は骸が傍にいてくれるだけでも十分に幸せだったんですよ。
 私のすべてが骸です。あなたがいないと私はこんなにも美しい世界を見ることはなかったし、こんなに幸せを感じれることもなかったでしょう。
 あなたがいてくれてよかった。
 骸がいてくれて、出会えた、このことが一番の幸せだったんですね。
 きっと私は死んでも後悔も何もしないと思います。できるなら骸に殺されたいと思うくらいです。骸に殺されるのは、寧ろ本望です。それは私に愛した人に殺されたいという願望があるからでしょう。もし骸が私を殺してしまっても、どうか悔やまないでください。
 でもそうなると、骸が私のいない世界で生きていけるのか、すこし不安です。骸がこの世界でひとりになってしまうことが心残りになるでしょう。そして私のことをいつか忘れてしまうのかと思うと、とてもこわいです。私は骸に忘れられてしまうのが一番怖いです。骸の中から私が忘れられて消え去ってしまったら、それが本当の死だと思います。
 これ以上長々と書くのもどうかと思うので、最後に一言だけ。
 私は骸を心から愛してます。それはこの手紙を書く前も、書いている間も、書いてからずっと先も、変わることのない真実です。

 敬具
 天宮ユキ

いつかあなたがこれを読むことを願って  20XX.02.05





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