| ナノ




修羅場

 掴まれた手は骸の自宅へ帰るまで、一度も離されることがありませんでした。無言だったけれど、逃がさない、逃げることは許さないと物語っているようで、私の肩にのしかかる恐怖は頂点に達しようとしていました。けれど私はこの手を振り解くことも、逃げることも、なにもできませんでした。ここで逃げてしまえば、きっと彼は悲しみ、怒りに拍車をかけるだけと思ったのです。綱吉さんの家からの間、一言も声を漏らさない骸に、私はばれないようにそっと彼の顔色を伺うと、その端正な顔にはなんの表情もありませんでした。いわば、無です。その若さにしては広すぎる家の玄関の扉を目前に、ようやく骸は口を開きました。私の好きな、薄いくちびるが綺麗に動くのを、私はじっと眺めておりました。
「僕が昔、ユキに言ったことを覚えていますか」
「……私は、骸に嘘をつかない。秘密を作らない、でしょう」
 私は震える声を必死に繋いで、骸の求める答えをいいます。忘れるはずがありません。これは私の法律なのですから。
 しかし法律というものは守るために存在しています。守られてこそそこで初めて意味の生まれる、言い換えると、守らなければ存在できない非力なものなのです。
「どうして破ったんです?僕との約束」
 今度こそ、私は答えられなくなりました。なぜなら骸が目を細め、にこやかな微笑みを浮かべながら、私の首をその手で掴んでいたからです。骨張った長い指に絞められる喉は必死に酸素を求め、金魚のようにぱくぱくと口を開きます。自分の身のことなのに、私はどこか他人事でした。あと一歩で意識を失うというところで、骸は手に込める力を緩めたので、情けなくも私の腰は砕け、地に崩れ落ちました。どさっと醜い音がたつのが耳に入ります。
「さあ、言いなさい。どうして破ったんです?」
 私よりも遥か高みにいる骸は私を見下ろします。私は必死に顔をあげて、彼を見ようとします。しかしそのたびに顔を蹴られ、また地面に戻されてしまいました。私がめげずに何度も彼を見上げると、電球の光のせいか、彼の顔が光で隠されてしまい、なかなか骸の顔を見ることができませんでした。酷いもどかしさを感じました。
「つ、綱吉さんを一目見てみたかったから」
「綱吉さん?」
 骸が気をとめたのは、私の答えの中に出てきた綱吉さんという言葉だったらしく、蹴る足をとめて、彼は一度復唱しました。
「どうして名前で呼んでいるんですか?」
 そしてもう一度にこやかな微笑みを浮かべながら、今度は私の腹にその長い足を振り上げ、力の限りを込めて、蹴りを入れました。音にもならない鈍い音が体内に響いたので、この一発で肋が数本使い物にならなくなってしまった気がします。心なしか呼吸も苦しくなったので、やはり肋骨が数本折れてしまったのでしょう。腹を抱えて背中を丸めた私を腹立たしく思ったのか、次は背中に数回の蹴りが入りました。マフィア業をしている骸の力は、そこらの人よりも断然強烈で、私の背骨はみしみしと音をたてていました。きっと背には青紫よりも、もっと痛々しい黒い痣が広がっているでしょう。でもこの傷は時間が経てばいつかは消えてしまいます。けれど、骸の負った傷は時間が経っても消えることはないのです。その代償と思えば、こんな傷は易いものです。
「どうして答えられないんですか?なにか疚しい理由でもあるんですか?」
「……そう呼んでって、言われた、から」
「ボンゴレに責任を押し付けるんですか。ユキは狡い人ですね。とても卑怯だ」
 私の髪を掴み、引っ張りながら、骸は耳元で囁きます。勿論力に手を抜くなんて甘い優しさがあるわけもなく、私の毛根が抜けてしまいそうなほどの激しい痛みに顔を歪ませることしかできません。引っ張られながら頭部を殴られると、力が比例して、互いが逆方向にとぼうとするので、倍痛みを感じます。抵抗しない私をいいことに、骸の乱暴な暴力行為は彼の気が治まるまで続くのです。肋の後に追い撃ちをかけるように拳を入れ、腕を踏み骨を砕き、顔が腫れ上がれるほど殴られました。骸は何度も何度も繰り返し、それも人間の急所を攻撃します。それは骸の職業柄故無意識のことなのでしょうか。わかりませんが、こうも的確に急所を狙われると命の危機を覚えます。
「どうして、貴方は!どうして僕を!この、畜生、僕はっ」
 骸の悲痛な金切り声だけが、いやに耳につきました。
 私は激しい痛みの中、昔の出来事を思い出していました。それはあの、無断外出の時のことです。あの時よりも骸の暴力は強い気がします。それも仕方のないことですね。あの時は二つの約束を、今度は三つの約束を破ってしまったのですから。
 今度こそ、私は死んでしまうのかと思ってしまいました。
 でもそれも有りなのかもしれません。約束を破った私が悪いのです。


雪国

 汽笛の音で彼女の意識は深海から浮上するように目覚めた。鉛のような瞼を持ち上げると、そこには美しい銀世界が、見渡す限り一面に広がっていた。ユキは初めて見るその別世界のような景色に、微かに残っていた完全に睡魔を忘れ、わぁ、と感嘆の声をあげた。声をあげるたびに口元で吐息が白くなり、たったそれだけのことが、彼女を更に高揚させた。子供のような一面を見せたユキに、骸はくすりと笑い、彼女の首から解けてしまいそうなマフラーをもう一度結び直してやる。
「ありがとう、骸」
「はしゃぎすぎて風邪をひいても知りませんよ」
「ひかないから大丈夫だよ」
 これは初めての、二人だけの旅行だった。
 ―――雪が見たい。どこか静かな遠いところで。
 そう言い出したのは、寒威がまだその力を発揮していない頃に、椅子の上で膝を抱えながら器用にパンを貪るユキだった。はじめは暇を潰すためにぽつりと呟いた、きっとただの思いつきだったのだろうが、彼女は口にしてみたら行きたい気持ちが膨らんでいくのを止められなかった。言い出した張本人のくせに事務的なことを全て骸に任せたユキは、当日までどこに向かうのかを知らされていなかった。彼女の手には数日分の着替えと少しの日用品が入った鞄があるくらいだ。
 知らないところに行くことに不思議と高鳴る胸の期待に応えるかのように、長いトンネルを抜けた先は雪国だった。言葉通り、四方八方見渡しても雪しかない。
 ―――綺麗。
 服の袖で曇ったガラスを拭き、窓に額をくっつけ、食い入るように外の景色を見つめるユキを、骸は静かに見守っていた。汽笛の懐かしさを感じさせる響きで、駅に着いたことを知らされた二人は荷物を手に持ち、同時に立ち上がった。何もいわずに骸はユキの左手から荷物を奪う。そしてその手に、自分の右手を自然な動作で絡めた。
 列車から降りると、雪にはまだ誰の足跡もついておらず、ユキは骸の手をするりと解き、目を輝かせながら自分の足跡をつけていった。足取りは軽く、ユキがはしゃいでいることは一目瞭然だった。
「そんなに走ると転びますよ」
「大丈夫!大丈っ、ぶっ」
「ほら、言わんこっちゃない」
 骸の注意の数秒後に、雪の絨毯に顔面ダイブを見事にきめたユキに、ゆっくり近づいて骸はその体を起こしてやる。荷物をおき、赤くなった顔面の雪を軽く掃ってやると、ユキはくすぐったそうに身をよじらせた。
「鼻の感覚がないわ」
「凍傷になったら腐って落ちるかもしれませんよ」
「え、やだ、鼻がないとか嫌!」
「なら大人しくしていてくださいね」
「……わかった。大人しくする!でも、もし私に鼻がなくなっても、骸は私と一緒にいてくれる?」
「当たり前ですよ」
「よかった」
 しんしんと降る雪はまるで夢の中にいるようで、この景色が限りなく続く先まで夢が続いているようだった。
 この幻想的な空間にいるのは、ユキと骸の二人だけしかいない。
 骸は置いた荷物を持ち直し、ユキが雪に足をとられて転ばないようにしっかりとその手を握った。十年以上前に初めて握った手と変わらず、小さいと骸は思った。こんなに寒いのに、彼女の手は温かい。
「ここからどこに行くの?」
「歩きますよ。ずっと歩きます」
「骸と二人なら、私はなんだっていいよ」
 しんしんと降る雪のように無垢な笑顔を浮かべるユキに、骸も自然と笑みをつくった。
「好きですよ、ユキ」
 囁くように骸は呟く。
「違うよ。私は骸のことを愛してるよ」
 骸もそうじゃないの?と首を傾げながら尋ねるユキに、骸の目は目一杯瞠目された。そして彼はクハハハと独特の声で笑う。
「これは……やられてしまいましたね」
 静かに雪が降る。二人分の足跡を消すように、降り積もる。またそこには新たな銀世界が無限に広がるのだった。


歌舞伎

「外の世界を見たいと思いませんか?」
「外のせかい?」
 これ以上ここにいてはいけない。ここは僕の居るべき場所ではないと思った。だから僕はユキに聞いた。僕が外へと行くなら彼女も連れていきたいと思ったからだ。けれど僕の言葉に、ユキは全くわからなそうに疑問形で僕に聞き返す。
 僕は、ユキがこの狭い世界以外を知らないことに、初めて気づいた。
 ユキはずっとここにいたのだ。外の世界といくら僕がいっても、ここ以外を知らないユキはどう返事をすることもできない。ならば僕が見せてやりたい。僕が彼女にこんなとるにたらない世界ではなく、もっと自由に羽ばたける世界を見せてやりたい。
「質問を変えましょう。もし僕がここを出て行くとしたら、ユキは僕と一緒にきてくれますか?」
「ここをでていく?どこに?」
「遠い遠い所ですかね」
「あなたがいなくなるのはいや・・・・・・・・・ついてく」
「本当ですか?」
「うん」
 まだきちんと理解していないけれど、僕と離れるのは嫌らしく、ユキは恐々と頷いた。この時にはもう、ファミリーの大人共よりも僕のほうが、ユキの信頼を絶大に手にしていただろう。実験回数や研究にあけくれる大人よりも、僕のほうがずっと彼女と一緒にいてやれる。ユキが欲していたのは、自分の傍にいてくれる人物だった。
 こうして僕はエストラーネオファミリーを壊滅させようと決心に至った。
 壊滅させるのは、赤子の手を捻るくらい簡単なことだった。僕ら子供は特殊兵器開発のための人体実験のモルモットということを彼らは忘れていたのか、僕らの手を縛ったり自由を奪うことをしていなかったのも、僕の勝利の理由のひとつだったと思う。
 ユキを誰もこない防音された一室に寝かせ、完全に寝に入ったのを確認し、僕は大人の集まる実験室へと足を運んだ。急に姿を現した僕に驚いたのか、大人達は僕を凝視する。僕は動く。僕が腕を一振りすれば、一人倒れる。どこからか溢れたのか、この施設内の者が次第に僕のところへと集まってきていた。わざわざこちらから出向いていかなくても良くて、楽になる。好都合の出来事に、僕の体はなおさら勢いを増した。こんな子供一人殺せないなんて、彼は非力すぎる。人の命の儚さを実感させられた。そしてあんなに憎んだものが、こんな簡単に壊すことができることにとても落胆した。
「やはり取るに足らない世の中だ。全部消してしまおう・・・・・・」
 一夜も経たない間に、僕は三叉槍のみで地の海地獄へと変えることに成功した。必死に大人は僕に殺されまいと銃を撃つ。小さい的を狙うのは酷く難しいことで、銃など簡単に避けることができる。銃など無意味だった。死を恐れ叫ぶ無残な声とサイレンサーのついていない銃の火薬がはじける音は、予想していたよりも響く。その騒ぎをかきつけて、二人の子供がこの惨たる光景の広がる部屋へ足をふみいれた。
「一緒に来ますか?」
 僕は声をかけた。二人の子は放心したように、けれどしっかりと首を縦におろした。
「外へ行くなら、名前が必要ですね」
 僕達には名前がなかった。かつてはあったのだろうけれど、長い間呼ばれていなかったせいで忘れてしまっていたのだ。ここに居るまでは必要なかったのだが、これからは嫌でも必要になる。その点、ユキはあのファミリーから天宮ユキという名を授けられていた。彼女は唯一あの子供達の中で名前を与えられていたのだ。あいつらから与えられたと思うと、少々やるせなさが残る。
「好きな名を自分に与えなさい。もう、自由なんですよ」
 僕は二人に声をかけ、その場を離れた。すぐに戻りますと一言おいておく。#nam31#が起きる前にこの体に滴る汚らわしい血を流す必要があった。そこまで温かくない水が放射状に、僕を頭から濡らしていく。放っておけば自然と水と共に血は排水溝へ流れていった。吸い込まれていった水はこの場所が終わったように見えた。
 終わり、そしてそれは始まりを連れてきた。
 漠然とした未来は何も僕にもたらしてはくれない。自分で行動しなければ何も変わらない。
「ユキ、起きてください」
 僕は汚れひとつついていない服に着替え、ユキを起こした。もうこんな場所に用はなかった。ユキはけだるそうに目元を擦り、上半身だけ起こす。
「もう、おきるの?」
 間延びした声でユキはベッドからでた。白い二本の足で立ち上がる。
「すべて終わらせてきた。外に行きますよ」
「外?」
「僕ときてくれるのでしょう?」
「―――いく」
 地に足がついていないんじゃないかと心配させる足取りで、ふらふらと歩くユキの手をひく。数時間前に慌しく誰かが歩いていた廊下には人の影すらなく、僕とユキは進んだ。ふぁあと気の抜けた欠伸が隣から聞こえる。まだ意識が覚醒せず、半分眠りの中にいるユキは手を離せば、また夢の中へ帰っていきそうだった。
「そういえば僕、名を考えたんです」
 僕は思い出したように云った。
「なまえ?」
「六道骸と呼んでください」
 六道骸。一夜でエストラーネオファミリーを壊滅させ、憎きマフィアの殲滅と世界大戦を図る男。
 僕は、ここから始まった。



ブラックアウト

 死は常に隣り合わせのものです。関係ないと思っていればこそ身近なもので、避けることのできない、絶対的なものなのです。
「もう声が出ないんですか?嘘でしょう。答えなさい。僕との約束を、あなたはどうしたんです?」
 喉はとっくに潰れておりました。致命的な原因は何だったでしょうか。硬い革の靴の先で蹴られたのかもしれないし、綺麗に切り揃えられた爪にえぐられたのかもしれません。度重なった攻撃をいちいち覚えていられるほど、私は器用ではないので、わかりません。私の喉からは息を吸うたびにひゅうひゅうと霞んだ音がしました。穴が空いていたのでしょう。肋が肺に刺さっていたのかもしれません。
「いいなさい。答えなさい」
 必死にくちびるを動かすけれど、私の喉から骸に聞き取れるような声があがることは、一度もありませんでした。それをわかっているのかいないのか、骸は私に答えるように求めます。
「僕に愛想がつきましたか。それでボンゴレの所へいったのですか」
 ごりっ、ぼき、ぐちゃ、ずさっ―――私の身体からいびつな音が発せられるけれど、不思議と痛みは感じられませんでした。きっと神経が麻痺しているのか、私の意識が遠退いているのか、どちらにせよ、私は危険な状態に身を置いているのです。その証拠に私の二本の足は使い物にならず、私はだらし無く地に体を預けていました。せめて上半身でも持ち上げようとしても、腕も折れてしまい力が入らないので、どうにもできません。海から引き上げられた魚のように、私は抵抗もできず、横たわっておりました。
「もう貴方なんて知りません」
 その言葉を引き金に、全身の血が逆流したのを、私は確かに感じました。汗が噴き出、ひやりと気味の悪い寒気に囲まれました。次第に体の力は抜けていき、狭かった視界が隅のほうから黒く濁っていきます。
 私は漠然と、核心に至りました。
 これが、死なのだと。
 私に姿を見せず、死という怪物はその足をひそかに進めていたのでした。密かな足音に気づくことができたのはもうすぐ終わりを迎える時で、取り返しのつかないところまできていたのです。
 ―――骸、待って、いかないで。
 思ったように動いてくれない身体を何度も叱咤し、私は狭すぎる視界に骸をいれました。私の瞳に映ったのは、荒々しい暴言や乱暴な態度とは掛け離れた、今にも泣いてしまいそうな表情の骸でした。彼はそこに立っていました。
 骸が涙を流したところを、私は見たことがありません。
 私はもう十年以上彼の傍にいて、彼のすべてを見てきましたが、骸の双眼から涙が流れるところを一度も見たことがありませんでした。誰もが感動する映画を見ても、喜悦に震えても、彼は嗚咽をあげることも号哭することもできないのです。だから私は彼の代わりに泣きます。彼は私に暴行を働き、私は涙を流します。こうしてやっと骸は泣いたことになるのです。腕を振るうことで、乱脚させ、獰猛に四肢を働かすことで、全身で骸は泣くのです。
 けれどこのままだと、私はもう逝ってしまうでしょう。骸の前から私はいなくなってしまいます。そうすると、彼はこの先泣けるのでしょうか。私がいなくても、彼は泣くことができるのでしょうか。私はそれだけが、酷く心残りなのです。
 骸の華美な双眼が霞んでみえてきます。いよいよ、お別れの時がきたのでしょう。私は振り絞った力で、声の出ないくちびるを動かしました。
 ―――ごめんなさい。あいしてました。
 そして視界は完全に漆黒に飲み込まれたのです。あっけない、人生の終わりでした。
 ごめんなさい。骸。本当に、ごめんなさい。
 あの時、重い扉を開け放し、澄み渡る青空を見せてくれたあなたを、どうして嫌えるはずがあるでしょう。
 どうすれば、私の隣にいてくれたあなたを、嫌えるのでしょう。
 はじめての、私の友達を。
 私が、はじめて愛した、大切な人を。





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