「じゃあ沙希、頼んだよ」
「はーい、行ってらっしゃい吉良さん」

 流石の沙希も、吉良による出勤時の恒例行事のような手の甲へのキスには慣れてきた。何か意味があるのかと思い調べたが、敬愛という意味が出てくるのみで沙希が実は焦っていたことは吉良は知る由も無いだろう。吉良のその敬愛は、確かにその華奢で滑らかな沙希の手に、あくまでも手に対する思慕として携えていることには違いない。然し乍ら、あまり男性経験のない沙希にとって年上の、それなりに容姿の整った男にそんなことをされては、いつもの調子ではいられないのだ。

「吉良さんのあれ、いつ終わるのかなあ……」

 それもようやく慣れてきた頃、吉良の出張が入った。
 この日は珍しく他の住人たちは各々の予定で出払っており、残るは日中棺桶の中で眠りこけているDIOのみとなる。彼はすでに体内時計を完備しているようで、日の沈む時間にもなれば自ずと寝床から這い出てくるので沙希が留守番をする必要なんてものは無かったのだが、つい最近DIOが一人でいるときにありったけの食料を食い潰してしまったらしく、一日暇をしていた沙希は吉良から留守番と、吸血鬼の見張りを頼まれていたのだ。
 チラリ、居間に置かれた規格外の棺桶に視線を送る。午前十一時、その禍々しい漆黒の箱は微動だにしない。

「おい、そこに居るのだろう小娘」
「?! DIOさん!起きてたんですか!」
「耳慣れない声が聞こえたもんでな、カーテンを閉めろ」

 思わず背中がシャキッと伸びた沙希は急いで居間の遮光カーテンを勢いよく閉めた後で、光漏れがないか入念にチェックする。
 この部屋のカーテンは吉良とディエゴが買い付けてきたものだが、ディエゴのアシストがなければ危うくごく普通の、コストを抑えたカーテンになるところだったらしい。吉良がレジで遮光カーテンの金額を目にした際に、砂になった方が食費を抑えられるんだけどと真顔で言い放ったことをディエゴは笑いながら沙希に話していた。

「もう大丈夫ですよ」
「……一ミリでも漏れてはならんのだ。まあ、貴様なら大丈夫か」
「信じてくださいよ」

 WRY……という吸血鬼の鳴き声なのか、はたまた口癖なのかはわからない声が漏れ、やっとその棺桶の蓋が開かれる。思わず正座をして待ち構える沙希の眉間には無意識にシワが寄せられていた。
 DIOは沙希に対して前科があるのだ。彼のスタンドは非常に厄介だと沙希は思わずにはいられなかった。初対面の邂逅で時を止められ、思わず絶命の危機を味わったのだ。それ以来まともに話すらしていないDIOの見張りは、正直なところいくら吉良の頼みでも断りたかったのが実のところである。

「そう身構えるなよ」
「う、うりぃ……」
「……貴様、バカにしているのかこの私を」
「滅相も!ないです!!」

 冗談だと、わずかに口角をあげるDIOは寝起きだというのにその美貌は崩れず、棺桶の上で男らしく足を組みながら髪をかきあげる様子は、彼を見慣れない女性たちからしたら身の毛もよだつほどの、安易に形容もできない代物となるだろう。
 沙希とて、その様子に当てられたように一瞬クラクラと眩暈がしたような感覚を覚えていた。とはいえ、夜にもなれば普段隣から声は聞こえてくるし、たまに顔を合わせることは多少なりともあったのだ。少なからず耐性というものは付いていたようで、すぐに目の前の人物には見慣れた。とはいえ、服をきて欲しいのだ。その立派な上半身を直ぐにでも布で覆ってくれないと、沙希は目のやりどころに困ってしまう。

「DIOさんこれ!着てください!」
「随分とウブな反応をするじゃあないか、沙希よ」
「いいから!着て!ください!」

 DIOとしてはもう少し沙希をからかい、ついでにあわよくば血液を分けてもらえればなんてことを考えていたのだがそれ以上に沙希は頬を紅潮させながら、取り込んだ洗濯物の中から適当に大きなTシャツを引っ掴んでDIOの顔面に勢いよく突きつけたのだ。なんて色気もなければ恥じらいもない女だとDIOが密かに落胆しながら仕方なしに白いTシャツを着ながら沙希を横目で見れば、相変わらず正座をしながら頬を抑え困ったような顔をしていた。これはこれで、なかなかいじらしいなとDIOは考える。
 お望み通りに着てやったんだから、こっちを向いてくれないかとDIOが珍しくも優しげな声で沙希を呼ぶ。沙希はおずおずと身体をDIOの方に向けるも、あっちこっちに目を逸らすばかりである。

「せっかく着てやったのに、何故目を合わせんのだ」
「あの、私の服のチョイスが悪かったんです」
「? まあ、確かにこれはカビ男のTシャツだが」
「ディアボロさんとは体格の差がありますよね、白Tがピッチピチで逆にその、セクシーというか……」

 ……やられた。沙希が状況把握した頃には、既にDIOの腕の中である。己の発言の何がDIOをそうさせたのか、沙希には皆目検討もつかなかったが、決してこの美丈夫が機嫌を悪くしている訳ではなさそうなのでひとまずの安堵である。
腹の前で交差したDIOの手の大きさに驚き、沙希が首を後ろに傾ければ存外楽しそうに、気分良さげにしているDIOがそこにいた。
 間違っても波紋の呼吸なんてするんじゃあないぞと耳元で囁くDIOの声は、その通り行動を抑止させる効果でもあるのか。カーズから随時教え込まれたそれを、この状況でしようとはとても思えなかった。

「あの、ずっと言いたいことがあって」
「なんだ」
「初めてあった時、制御できなかったとはいえ酷いことをしてしまったと思って」
「ああ、驚いたなあのときは」

 あとその、この体制はちょっと身がもたないので解放してもらえますか。そう沙希が付け加えると、存外簡単にDIOは沙希を解放した。どうせ血も飲ませてくれないのだから紅茶でも淹れろと言いながらDIOも棺桶から床に腰をおろし、テレビのリモコンに手を伸ばす。
 確か、彼はイギリス出身だったか。聞きかじる程度にはここの住人のことは吉良やディエゴ、たまにドッピオから聞いていた沙希はぼんやりと思い出す。それに、名門貴族出身だったっけか、ということは紅茶も一級品を正しい作法で飲んでいたに違いない。しかし沙希にはそんな知識はなく、ティーパックを入れたマグカップにお湯を適量注いで蒸らしてというごくごく一般的な、作法とも呼べないやり方しか心得ていないのだ。
 まあいい、どうとでもなれといつも通りの方法で準備したマグカップを二つ手にして居間に戻る。ワイドショーが美人女優とブサイク芸人の電撃婚を報じているところだった。ひとまず何も言わないで出してみよう、まずいと言われたら仕方ない。教わるのみだ。

「この男、そんなにブサイクと思うか沙希」
「うーん、どうでしょう。DIOさんはどう思いますか?」
「最近テレビをつけるたびにこの男はよく出ているし、司会もこなしているしゲストのマネジメントも十分だ。顔だけで判断するには惜しいと思うがな」
「確かに、この人はレギュラー番組も多いですしね」
「まあ、世間一般にそういった評価をされている男を選んだこの女は、中身で男を選んだということだな」

 頬杖をつきながら沙希から受け取った紅茶をグビグビと飲んでいるDIOの興味はめっぽう電撃報道に注がれており、さして味もよくみていないであろうその紅茶はただDIOの喉を潤すだけだった。それならそれでいいと思う沙希は、DIOの洞察力に関心を持つ。
 以前大きな組織を動かしていたというDIOにとって、容姿というものは人物をはかるものさしのごくごく一部の要素でしかなく、界隈やコミュニティの中でいかに成果を出せるかの方が重要らしい。なんといったか、ディアボロが悪のカリスマ、かっこわらいと発した直後に酷い目にあったとドッピオから聞いたことを、沙希は思い出した。
 以前カーズが沙希に、ここの住人は以前ひどいことばかりをしてきた集団だと言い放ったことは未だに脳裏にこびりついている。しかし、沙希の中にも考え方の軸があるのだ。
 世間の評価に踊らされない、自分の中で信じていく人たち、ものを決めるということは小さい頃から変わっていない。たとえそれが事実だとしても、沙希は実害を被ってはいない。もちろん隣人としての些細な悩みというものは存在するが、その程度のことである。
 ただし、沙希自身でも狡いことだと思っているのは事実である。自分に実害がなければ、他で何をしても構わないのか。自分にだけ都合の良い面を見せてくれればそれでいいのか。ものの本質というものには正解はない。自分の中の基準を決め、情報の取捨選択をし、自分を守っていく。それしか、生きていく方法はないのだと、沙希いつからかこんなことを考えるようになっていたのだ。
 それは特に、ここの住人と交流を交わすようになってからますます深まったものである。

「沙希よ」
「はい?」
「お前の考え方は、大事にしていい。だが、その考えを正義と思うのは危険なことだ」
「……DIOさんが、他の人達が今まで何をしてきたかも、私にはわかりません。きっとカーズさんとそんな話をしたんだと思いますけど、私は自分のことも波紋も、スタンドもまだ分かってない初心者ですから」

 めでたい事も凄惨な事件も、身の回りで溢れかえっている。あんな事をするような人とは思えなかったという常套句はいつの時代も充満しており、性悪説か性善説か、二十三世紀間、答えは出ていない。
 沙希はどうにも、カーズもDIOも悪い人と一括りにすることには抵抗があったのだ。それは少しずつ彼らの内面や普段の一面を目の当たりにするようになった沙希のせめてもの抗議だったのかもしれない。要するに、お互い都合がいいのだ。

「それと沙希」

 最近になって、自分のことをよく考えるようになったとまたぐるぐる思考をめぐらせていると、少々機嫌の悪そうなDIOの声が響いた。思わず沙希が顔を上げる。

「何でしょうか?」
「くだらんことを考えてないで、私のために少しぐらい紅茶の淹れ方の勉強でもしろ。飲めたもんじゃあない」
「……善処します」

 フンと鼻で笑うDIOは膝に手をつき立ち上がり、台所へと向かう。沙希がその様子を見ていると、お前も来いと、早速紅茶の淹れ方の指導が入るらしい。思わず沙希が勢いよくハイと敬礼すると、暑苦しいからやめろと牽制されながら、ティーカップは先に温めておけだのと懇切丁寧な指導が始まったのは、午後四時を過ぎた頃である。




 喧嘩をしていないといいのだが。いや、むしろ喧嘩をするほど打ち解けていてくれていたなら申し分ないのだが。
 当初の予定より二時間ほど早く切り上げることができたので観光をしてきても良かったのだが、沙希を思うと悠長に楽しんでなどいられなかったのでホーム内の売店で土産を購入し、吉良はさっさと帰宅することにした。
 アパートの階段を登りきり、自宅に入るのになぜこんなにも妙に緊張するのか。というよりもこの感情は沙希へ多少の罪悪感が募った結果である。だがいい年こいた男がいつまでもウジウジしていられない。

「ただいま、留守番させてすまな……」

 目下に広がっていた光景に、吉良は思わず瞠目する。そうしてこの大男はどうでもいいとして、沙希が風邪を引いたらいけない。
 吉良は男臭くて申し訳ないがと独り言を言いながら、沙希に掛け布団をかける。

「まあ、杞憂だったってことかな」

 午後七時過ぎ、肩をくっつけ合って仰向けで眠るDIOと沙希を見て、吉良は胸を撫で下ろした。

(2019/06/24)

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