この透明は光のほかには穢されない



 名前が御手洗から戻ると、メローネは知らない男児と会話をしているようだった。恐らく年齢でいえば3歳そこらの、舌足らずが可愛い年頃で、1人でご機嫌になっているところを大人に目撃されると急に恥ずかしがるような、そのくらいの年齢の男の子と思える。周りにその子の親がいるようには見えず、メローネと男児の前を悠々とキリンが歩いていた。
 この日のビオパルコは特に混雑も見られず、そもそもボルゲーゼ公園を歩いてるときもすれ違う人間は疎らだった。だから余計に、人の少ないこの動物園で、少しでもキリンに近づけるようにとメローネが男児を肩車しているところを親御さんにでも見つかったら、何か言われるのではないかと名前は内心ハラハラしていたのだ。
「だれ、その子」
 名前が後ろから声をかければ、メローネは男児を気遣いゆっくりと身体ごと回転させ振り返る。頭ふたつ分ほど上から、くりっとした、緑がかった瞳の男の子に名前は見下ろされた。
「名前がトイレに行ってる最中に知り合ったんだ」
「随分懐かれてるようだけど、」
 あまり目立つようなことはしないで。そう言葉を続ける前に、メローネは男児を肩から下ろす。しゃがんで見えた2つの後頭部のつむじは、同じようなところに、同じ方向にぐるりと渦をまいていた。思わず降りたその子はまだ肩車をせがむようにメローネの脚にしがみつき、いよいよメローネのズボンに顔を押し当てて抗議しているようだった。やだ、もっと、もっと肩車。メローネの膝に押し当てた顔を離せば、涙の跡と鼻水がズボンから伸びていた。
「おいおい、ガッティーナの前で男がそんな情けない顔するもんじゃあねえぜ」
「まあ、まだ子どもなんだからいいじゃない。それにしても君のマードレはどこにいるのかな」
「……今日は、ひとり」
 絶対に嘘だ。名前が苦笑いをし、さてこの子をどうするか、親御さんを探す旅に出るかとしゃがんでいるメローネに声をかけようとして、やめた。
 今までに名前が見たことのない、メローネの顔がそこにあったのだ。
 伏し目は男児を捉えているわけでもなく、思考に集中するために黒目は動きを止めていた。眉間に皺を寄せ、口角は並行のまま、不機嫌そうと言われればそうかもしれないが、名前は実際不機嫌なときのメローネの顔を知っているので、今の顔がそれとは違うことは明白だった。
 僅か数秒の事だったが、名前の頭にはその瞬間が長尺で切り抜かれて頭に植え付けられたようにすら思えた。カメラのシャッター代わりになったように、瞬きをする度に微妙に変化していくメローネの顔を、名前は脳裏に焼き付かせられた。
「……お前まだ1人で出歩けるような歳じゃあないだろう?そろそろマードレが心配してるぜ」
「……うん、でも僕」
「喧嘩して、迷子なんだろ?探してやるよ、ちゃんと。追跡は得意なんだ」
 名前は思わずくすりと笑う。確かに、メローネの追跡は完璧だが、この男児には理解しえない事だ。
 右手で男児の手を引き、左手で名前の手を引きとりあえず歩くかいとメローネは歩み出す。メローネと名前が男児を挟む形で、寂しくないように手を繋ぐのが本来想定される並び方だと思われるのだが、あろうことかメローネが中央を陣取っているのだ。
「普通、この子真ん中にしない?普通はさぁ」
「そんなことしたら、名前と手が繋げないじゃないか。それに子どもとはいえ、他の男と手なんか繋げさせたくないね」
「ええ、そんな嫉妬深かったっけあんた」
 俺は存外そんなもんだよ。そうメローネが名前と男児の手を握りなおした。片方だけは恋人繋ぎというやつだ。どこまでもこのメローネという男はどんな場面でも自分本位であり、それであって相手を喜ばせることのできる男で、そんなところを名前は気に入っていたのだ。
 歩きながらもメローネは楽しませることを忘れなかった。鼻の長いのが象さん、大きな猫みたいなのがライオン、ちなみにあれはメスだ。立ち止まり、男児を抱き上げ動物を指しながら説明をしてやり、男児が正しく発音し直せばベネと褒める。名前は、自分たちの将来をこの仕事をしている以上、そんな贅沢を考えたことはなかったが、カタギならこんな将来もあったのだろうかと思わず感傷にも似た感情を覚えていた。
「Cucciolo!」
「お、マードレとパードレのお出ましだぜ」
 数メートル先でキョロキョロしていたかと思えば、夫婦はこちらを目視した瞬間に走ってきた。子犬ちゃん、確かにこの男児は人懐こいしピッタリだと名前は思った。男児も両親の元に走り出し、マードレの胸に飛び込んでいる。やはり本物のお母さんじゃないとまだまだ寂しい年頃だ。
 男児の両親は再会を喜んだあとに、十分すぎるほど名前たちにお礼を述べた。男児も安堵の笑みを浮かべ、メローネと名前の頬にキスをしに飛び込んできた。
「アッアッ!俺のアモーレだぞ!」
「何言ってんのよもう、よかったねマードレと会えて!」
「…………本当に、よかったよ。沢山愛してもらってるようで」
「……?あ、またね。もうはぐれないようにね」
 家族を見送るメローネの視線は、何時までも3人の背中に注がれていた。
 何か思い出してるようだ、そう直感した名前はメローネの腕を引き肩口に頭を寄せた。随分と大胆じゃあないかと無駄口を叩くメローネの頭を撫で、子犬ちゃん、何かあったのと甘えた声で名前が囁くとメローネは大人しくなった。これじゃあ子犬じゃなくて子猫ちゃんだと思った名前だったが、何も言わず頭を撫でればメローネは名前の首元にすりすりと鼻を擦り付けた。
「今日、たまーに寂しそうっていうか、何か考えてるって顔してたね」
「ああ、昔のこと思い出したんだ」
「……聞いてもいい?」
「もちろんだ、嬉しいよ」



 あれはippopotamoだな、赤い汗をかくんだ。乾燥を防いだり、感染予防になる。
 園内を巡り直す。ドマイナーな動物じゃない限りは一言知識を添えて、名前に教えてくれるメローネは今は楽しそうだ。
 しんみり話すことでもないさ、周りながら話そう。メローネがそう言うもんだから、あまり身構えるのも過剰かと思い緊張を解いた名前であったが、そんな簡単な話ではなかった。メローネは、昔のことについては諦観したようだった。
「さっき、Cuccioloって言ってくれただろ?」
「そうね、あの子の後だったからついね」
「なんでも良かったから、言ってほしかったんだ、そういうふうに。俺は、名前でしか呼ばれたことなかった」
「それも素敵じゃない、名前でちゃんと呼んでくれるなんて」
 呼ばれてたのは俺の名前じゃ、ないんだけどな。お、あのorsoはでかくてリーダーみたいだ。
 黒く、大きく、耳が丸くてフワフワな毛並みのそれはハチミツ好きな黄色いキャラクターのように可愛いというよりは、威圧感を与えてくる印象に思えた。確かに、リゾットの前に立ち、見下ろされてる時と同じ感覚を覚えるようだと名前は思う。
「兄貴がいたんだ、俺が小さい頃死んだけどね」
「そう、だったんだ……」
「男親は気づいたら居なくなってたし、女親は気が狂って俺を兄貴の名前で呼び始めてた」
 園内を一周し、ベンチで休憩をとる。私服姿のメローネは結構な伊達男だと改めて思う。ランウェイを歩いていてもなんら違和感もなさそうだし、仕事着でも前衛的なファッションだと言われやっぱりランウェイを歩きそうだと、メローネからエスプレッソを受け取った名前はバレないように微笑む。
「グラッツェ、メローネ。それは何?」
「チームのみんなへ、たまにはな」
 可愛らしい袋に入っていたのは園内で限定販売してる焼菓子だった。さっきのorsoのストラップまで買っているらしく、それはリーダーの携帯につけようと思ってと添えられた。
 ガランとした園内、普段なら外での過度な接触は避ける名前だったが、今日だけは別にいいじゃないかと思えた。隣に座ったメローネは右腕を名前の肩に回し、自身の肩に頭を預けるようにと頭をポンポンと叩く。名前もそれを理解し、メローネの反対側の手を取った。
「兄貴が生きてる頃からそうだった。もともと子供は1人でよかったし兄貴を溺愛してたのに、俺が出来てから生活がより苦しくなったことをあの女はずっと妬んでた」
「……随分早いうちに、この世界に入ったのはやっぱり」
「狂った女を、殺したんだよ俺は。俺を俺の名前で呼ばず、兄貴の名前で呼ぶんだぜ? 口答えを許さず、勉強だけを強いたヒステリックな肉親を、この手でな」
 それでも一度だけ俺を動物園に連れてきてくれたことがあった。もちろん此処じゃあない。そう続けるメローネの表情は曇ることもなければ、勿論高揚しているわけでもない。ただ淡々と、身の上話を重ねていた。
 名前が暗殺チームに入団した頃に世話係をしてくれたイルーゾォから、メローネの話は聞いていた。最初こそ名前はメローネに避けられていたのだ。あのメローネが、とりあえず誰にでも興味を示すメローネが、訳もなく忌み嫌うように名前と接触を持たないようにしていたことにメンバー全員が疑問を覚えていたらしい。
 だが、その答えは存外明白だった。酔ったメローネがイルーゾォに科白したのは、名前って女はめちゃくちゃいい女だけど、雰囲気が俺の女親に似てて、怖くなったんだと。怖いから、自分をあの動物園に置き去りにしたあの女を思い出すから、仕事以外の事で話ができない。でも、喉から手が出るほど俺はきっと、名前を欲していたのだと。
 空を仰ぐ名前の瞳孔はキュッと小さくなり、ハラハラと前髪が左右に流れた。数回の瞬きの度に、随分昔にイルーゾォやプロシュートから聞いたメローネの話がいよいよフラッシュバックする。
「あー………そっか、色々思い出して全部繋がったよメローネ」
「イルーゾォが世話係だったもんな、そりゃ色々聞いてるだろうとは思ってたが」
「最初めちゃくちゃ避けられてたから私もいい気しなかった分、そんな話聞いたけどあまり覚えてなかった、でも今思い出したよ」
「嫌いなくせに、母親を渇望していたんだ。それで似てるあんたが入ってきて、あの時かなりパニクったな。正直いうと数日スタンドが使えなかったぐらいだ」
「あの時仕事なくてよかったね…」
 あの時期は本当に悪かったな、アモーレ。そう名前の顔を覗きこみ、悪戯に笑うメローネの穏やかな顔を見て、名前は安堵したかった。出来なかったのは、今も彼は自身を、彼の理想の母親と重ねているのではないかと一瞬でも考えてしまったからである。
 だが名前は、この男を選んだのだ。自分本位で、そのうえで相手を悦ばせ、楽しませ、安心させてくれるこの男を。
 例え欲した時期に庇護を獲られず、思考ばかりが早熟と達観を遂げ、唯一与えられた安息の日に完全に見捨てられ、そのまま拉致されこの世界に入ったとしても。そうして、初めてスタンドで殺したのが肉親であろうと、そんな男であろうと、名前はそれで良かったのだ。
 名前も過去の残酷さでいえば似たようなものだし、そもそもこの世界に足を踏み入れてしまったのだ。生来この世界には人を愛することなんて許されていない、今とびきりの贅沢をお互いが噛み締めているのだから、余計なことなんて考えなくていいはずなのだ。だから、名前はメローネの次に出てくる言葉に自信を持っていた。
「勘違いするんじゃあねぇぜ。確かに理想の母親像はあったかもしれない、スタンドがこれだからな、深層心理ってやつだ」
「初めて見たとき、正直気持ち悪って思ったよ」
「俺も吐き気を覚えたぐらいだ。……確かに俺は名前を避けたが、大人になってもガキの頃と同じまま、自分が楽なように生きるのはもっと避けたかった。それは良くないことだと思ってた」
 名前とちゃんと向き合えて、名前という人間を、女性を心から愛せるのがこんなに、ベリッシモ最高な事なんだってことをガキの俺に教えてやりたかった。お前が恐れ慄きながらも甘えたかった、愛してもらいたかった母親こそ存在しなかったが、数年後にちゃんと自分の名前を呼んでくれるパートナーがお前にも出来るんだって教えてやりたいぐらいだ。
「〜〜〜rosso come un peperone!!も、もういいから!!」
「なんで名前が照れてるんだい?本当にパプリカみたいに真っ赤になって」
 メローネが期待以上の言葉をつらつら、一瞬も目を逸らさずに述べるものだから、名前は一瞬でも不安に刈られたことすら恥ずかしくなった。
 ケラケラと笑うメローネの手を握り返した名前は、今日は自分でも驚くほど大胆だと思いながら、メローネの唇に軽く押しあてるプレッシャーキスをした。今度は瞠目したメローネが口元を手で覆いながら、目を逸らす。
 似た者同士だ。恋人らしいからかいが好きなくせに、自分がされるとバツが悪くなったように照れる。一緒にいる時間が長くなればなるほど、似てくるものなのだろうと名前は今までの時間までもが愛おしいとすら思えた。
「今日の名前には勝てないな」
「多分、ビオパルコに来るの少し戸惑っただろうけど、私はあんたの過去含めて好きだなって再認識できたよ」
「奇遇だな、俺もようやく話せて、変わらない反応を見て尚信頼できると確信したぜ」
 ……そうこなくてはな、名前!メローネ!2人同時にチームの或る意味切れ者の彼の真似をするところまで、似てしまったらしい。そうして存外、仲良しクラブと揶揄されても自分たちはチームをきちんと愛していることも、再認識したのだ。
 ベンチから腰を上げ、そういえば爬虫類ゾーンを観ていないことに気づいた名前が早く見に行こうとメローネを急かす。爬虫類も任せてくれよ、ガキの頃にしっかり勉強したんだというメローネの屈託もない破顔を見て、どうやら名前の過去も救われたように思えた。今度は自分の話をしよう、名前はメローネの手をしっかりと握り返す。
「ん、待ってくれ。……プロント……デート中なんだがな……そうか、戻る」
「プロント、メローネといるけれど。……了解。迎えに来て」
 互いに溜息をついてから電話を切る。それぞれ、追加任務のようだ。
「気をつけてね、まだ行きたいところ沢山あるんだからへましないでよ」
「そっちこそ、ギアッチョいるから大丈夫だろうけどな。また後でな」
 無事に恋人とおはようからおやすみまでを迎えられないのはもはや慣れっこだ。
 ボルゲーゼ公園を出て、信頼する背中を向け合い左右に別れた。
 仕事の時間だ。



(19/03/11)



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