死海で回遊する彼女



 目の前でびょおびょおと泣きながら、顔をグシャグシャにしている哀れな女を見て、クソにはハエが集るというのはこういうことかとプロシュートは改めて再確認した。プロシュート、またやっちゃったよぉ、と仕事終わりの彼に時間を問わず連絡してきた女のためにわざわざ腰をあげて、目立つ昼間にこうしてカフェに素直に呼び出されたのは、プロシュートにとってこの女が非常に厄介な存在で、懸念すべき、危険視すべき、少々気が違っている女だからである。
「その汚ねぇ面なんとかしろよ、ほら」
「うっ、ヒッ…うぇえ、ぷろ、ぷろじゅぅどぉ」
「……それ、おまえにやるから」
 渡してやったハンカチを受け取ってすぐに、それは名前の鼻水やら涙でぐちょぐちょになった。嗚咽交じりの声でグラッツェという言葉を吐いて、顔からハンカチを離したと思いきや、鼻水がびよんとハンカチにくっ付いて透明の糸が伸びているではないか。休みの日に呼び出しておいて、こんな汚いものを見させられるなんて勘弁してほしいとプロシュートは端正な顔を歪めた。
「ぷろじゅぅど、なんで、ハンガヂ持ってるの」
「いろいろとな、小道具の一種だ」
「あ、そっが……あのね、また、またね、まだぁぁあ」
 イタリア人は、ハンカチではなく一般的にティッシュを持ち歩く。ハンカチを持っていようものならおばあちゃんみたいと笑われるほど、イタリアでは極めて厚手で硬く丈夫なティッシュを持ち歩くのが常であった。しかしながらプロシュートのスタンドがあれである。敵を欺くためには老人が持つような小物だっていつでも持ち歩いていた方が都合が良いのだ。
 名前の鼻周りの乾燥が酷いように見受けられたので、優しさを持って肌触りのいい、一応ブランドもののハンカチを渡してやったが、また新しいものを調達しなければなと、この女に金を請求したい気持ちにもなった。
「とりあえず泣き止めよなァ、耳障りだ」
「うぐっ……あの、私が付き合ってたひと、プロシュートも知ってるよねぇ」
「ああ。なんだ、またか」
「なんでだろう、サゲマンとかいうレベルじゃないよねぇ」
 名前はスタンド使いでもなく、極一般的なその辺にいる女と変わらない。普通に仕事もしているし、プロシュートの前でナンパをされたこともあるので、顔だってそこまで悪い類ではない。しかし男と深い仲になると、話は変わってくる。
 彼女と付き合う男は昔から、最初こそ普通の付き合いができる人間だった。しかし時が経つにつれ、名前に酷い仕打ちをしたり、浮気をしたり、金銭を要求したり、DVをしたりと、殆どの男が豹変してしまうのである。それは彼女が要するにダメ男育成機であり、ダメ男を引き寄せるだけでなく、普通の男までもダメ男にさせてしまうのだ。クソにはハエが集る、そういうことだ。
 プロシュートからみても彼女はとことん男を甘やかしがちで、尚且つ我慢強く、それゆえ何をされてもいいのよいいのよで許してしまい、自己犠牲主義者も相まって何をされても自分が悪いのだと思ってしまう節があった。それは名前とプロシュートがこうして気負わず話すようになる前から、生来の気質というもので、彼がどう言っても変えられやしないのだろう。
「まあ、俺としてはお小遣い稼ぎになるわけだし」
「ごめんねぇ、プロシュートォ」
「今回は知り合いってのもあって心苦しいところもあるっちゃあるんだぜ?」
「その分上乗せはするよぉ」
「そうこなくちゃなァ」


 他の暗殺チームメンバーは、彼女を特に気味悪がっていた。それはプロシュートとて例外ではなかったものの、誰かしらが彼女を見守ってやらなければならないという決断をリゾットが下し、任命されたからである。─実際のところは、リゾットに自分を任命させたのだが─彼女はプロシュートたちと全く違う界隈に生きる普通の女である、というのが一般的に見た外面ではあるが、その実情を知るのは暗殺チームの一員のみである。さらに言えば、名前本人でさえ自分の奥深くに眠る猟奇的な一面に気づいていないのである。
 遡ること三年前、暗殺の依頼を受けてリゾット、プロシュート、メローネ、ギアッチョが現場に乗り込んだところだった。といっても何かしらの団体のアジトというわけでもなく、ターゲットは一人で、くたびれたアパートの一室であった。実際のところ処理を命じられたのはリゾットだけであり、他の三人は前後にあまりにも仕事がなく買い出しついでに着いていくというような状態だった。
 依頼を受けた一室にたどり着きドアノブを捻ったとき、深夜だというのに施錠がされていなかったことに違和感を覚えながら、足音を立てずに部屋に踏み込んだ瞬間、リゾットはあまりの血生臭さに思わず顔を顰めたことを今でも覚えている。リゾットが部屋に入ってから争うような音や声が聞こえないことに気づいたプロシュートが様子を伺ったとき、リゾットが一人の女に向かって何やら話しかけている後ろ姿が目に飛び込んできた。そうして暗い室内だというのに、窓に差し込む月の光であたり一面がヌルヌルテラテラと赤い液体で晒されていた。とにかく鉄臭くて、足元に飛び散っている恐らく臓器と思しき物体がブランドの靴を汚してしまいそうだった。
「お前、そこで何をしていた」
「あのねぇ、あの女のお腹にねぇ、私の彼氏との赤ちゃんがいたんだってぇ」
「……おまえが、やったのか」
「そう!大変だったぁ、ふふ!」
 うふふうふふと少女のようなまだあどけない顔つきの女は血だらけでリゾットを見上げていた。目が完全に、狂人のソレであった。なんとか辻褄の合わない話を無理くり繋げ合わせて出た結果は、ターゲットと名前は付き合っていたが、最近特にDVがひどくなったもののそれでも好きだったので、深夜に彼の家に出向いたら浮気女と情事をしているところに遭遇し、大喧嘩になったら子供がいるとまで言われてプツン、ということらしい。
 通常ならこの女を警察に突き出さなければならないのだが、まさか自分たちが警察になんか行けるわけもなく、とりあえずこの女をアジトに持って帰った。その間もリゾットの手を握りながらうふふあははと終始嬉しそうに、ときにくるくる回りながら歩き出すものだから流石のメローネも良好!なんて言うわけもなく、ギアッチョまでも小一時間黙りだす始末だった。気が違ってる人間は見てきたが、殺し方があまりにも異常だったと後にリゾットがアジトで述べた。
 部屋に入り込んだとき、ぺちんぺちんと音が聞こえたものだから様子を伺うと、何やら十五センチ程度の肉塊を壁に何度も叩きつけては拾い、叩きつけては拾いを繰り返していたらしい。リゾットが言うには、一切物音は立てなかったはずなのに、女は急にリゾットの方を向き手の中に視線を戻し『赤ちゃん』と述べた後、男の頭蓋から脳をずるずると引き出してからソレを突っ込んだらしい。
 すっかり静まり返ったアジトの一室の片隅で、すやすやと眠る名前を尻目に、今日のところはとりあえずここまでにしよう、こいつの始末は明日だ。とリゾットが述べて各々の部屋に解散した。
 次の日の朝、一番乗りでリビングといえる部屋にやってきたプロシュートは、昨夜とは全く違う人格の名前に遭遇した。ここは何処ですか、貴方誰ですか、を泣きながら繰り返す女を、プロシュートはどうにも放ってはおけなかった。この女が昨日今の人格を捨て、どれだけ気味の悪い人殺しをし、すっかり忘れてしまっているだなんて。なんて哀れで、存在だけでも刺激的な女だろうと、プロシュートは自分自身気味の悪い感情だと分かっていながら、それとなくリゾットに差し向けるだけであった。『昨日のことはすっかり覚えていないらしい。だが俺たちを知ってしまった以上、なんらかの処分はくださなきゃいけないが、代わりにターゲットを殺ってくれたんだ。俺が面倒を見ようじゃあないか』こんなことを直談判した記憶がある。



 それから呼び出された今日まで、あの日のことを彼女が思い出すということはなかった。然し乍ら、やはり根に持っているものは通常の人間とは違うらしく、ある時期付き合っていた男が名前に対しあまりにも酷い仕打ちをするものだから、どうにも頭に血が上り、指示も受けていないただの一般人を私欲で手にかけることになった。こんなことを伝えたら、名前はどんな顔をして自分を罵倒するのだろうと想像してみたが、ありがとうと言われるだけであった。次からはちゃんとお金払うからとまで付け加えられては、この女と付き合うことになった男は数年以内、下手すれば数ヶ月以内に死ぬことになるのだ。あのときメソメソと泣きながら此処は何処なんて言っていた無垢なバンビーナは何処に行ってしまったのだか。そんなことをふと、今回も賞味期限切れの男を始末してほしいと依頼を受けて思い出した。
「しかし、恐ろしい女だな、お前は」
「次こそは結婚を視野に入れて付き合うんだから」
「で、俺が紹介してやった男とは、なんでまた」
「エッチがあまりにも独りよがりで、見てこれ」
 そう言いながらチョーカーを外す名前の首元には明らかに絞首を日常的に受けていた痕があった。自分の胸元にザワザワと拭えぬ感情が蠢き出したことに気づき、知り合いの顔を思い出す。そんなことをするような男とは、到底思えなかったのだが、やはり名前と付き合うとこうなってしまうらしい。




「ありがとう、プロシュート」
「おう」
 先程葬儀を終えた名前に呼び出されたプロシュートは、この後仕事があるのでスーツを着込んでいた。イタリアには喪服という習慣がないので、いつも通りの服装で名前はプロシュートを出迎えた。折角のスーツだし、知り合いだったんだから、お墓でも行ってあげたら?なんて言い出す名前は、やっぱり頭がおかしいのだと再認識した。まるで自分に殺してほしいと依頼したことすらすっかり忘れてしまったような口ぶりで、あの日のようにやっと解放されたぁと、うふふあははとクルクル街中で回りだした。
「お前に男を紹介するのはナシだな」
「うん、もういいやぁ」
「死ぬまで諦めろ」
「ううん、プロシュートが、いるじゃない」
 そうでしょう?プロシュート、私のこと好きでしょう?
 口に咥えた煙草を思わず落としそうになるほど、衝撃的な言葉を投げつけるだけ投げつけてゆるゆると口角を上げる名前のなかに、いったい何人の人格が住み、殺し合いをしているのだろうか。
 火をつけたばかりの咥え煙草も気にせずそのままプロシュートの唇に、自身の唇を押し付ける名前。瞠目も僅か、ジュ、と肉の焦げる匂いがして慌てて突き放すと、頬の端に所謂根性焼きというものが出来ていた。女の顔になんてものを付けてしまったのだと、プロシュートといえどイタリア男には変わらず、名前に対する自責の念が生まれた直後にようやく、この女の危惧すべき、あまりにも恐ろしい気質に気づいた。
 彼女は今までこうして、男たちを殺してきたのだ。アイデンティティを奪い取り、自身に対する自責をあらゆる方法で募らさせ、男の性格に合わせて様々なタイプの女を演じてきたのだ。要約すると、全て計画通り。これでは、あの夜のことも、実際のところ覚えているのだが、惚けたフリをしているのだか。
「……てめぇのその痕は、自業自得だな」
「……私はプロシュート、好き」
「俺に自殺しろとでも?」
「そんなこと、させるわけないでしょう」
 何を言っているのよ、と顔つきを変える名前。全くまた、違う人格が飛び出してきたもんだとプロシュートは頭を抱えつつも、胸元で燻る名前に対しての加虐心がジワジワと露呈してしまうかもしれないという事実に、とうとう気づいてしまったのだ。
「そろそろでしょ?お仕事、行ってらっしゃい」
「ああ」
 クソにはハエが集る。まさか自分が一生懸命手を擦り合わせるだけのそれになるわけにはいかなかった。
 吸いかけの煙草をぐぅ、と名前の腕時計に押し当てた。やぁねと小さく叱咤した彼女に会うのは、今日で最後にしよう。プロシュートには彼女以上に大切な弟分とチームがいるのだ。
「次に会うのはあの世だな、お互い」
「………うふふ。そうかもね」
 お互い背を向けて歩き出す。コツコツと聞きなれたヒールの音が離れていくのを聞きながら、プロシュートはもう一本タバコに手をかけた。


(16/11/04)



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