陽が睡るただひとつの場所



 エジプトの旅を終え、久々に高校に行った日の帰りのことだった。
 朝は取り巻きの女に完全に包囲されあっちこちで何処に行っていたんだ、何をしてたんだ、会いたかったの声が飛び交い、戒めの言葉を吐き散らすなんていう恒例行事に今更と思いながらも辟易しつつ、脳裏にチラつく元気になったホリィの顔を承太郎は思い出した。我ながら非常にらしくないことを考えたものではあるが、この平和な日常がたった一人の男に今頃支配されていたかもしれなかったのだ。承太郎は旅を終えてなおも、自分の家系や一族の因縁について調べるたびに、まだ全てが終わったわけではないのだと考えさせられていた。
 今日はそんなことをぼんやりと考えていたら授業が終わっていたという状況だったので、中抜けをすることなく最後まで教室に残っていた。下駄箱から正門に向かう数十メートルの間にも声をかけられたが、女たちの声は承太郎の耳には届かない。しかし校舎を出て間もなく、取り巻きの女たちの声の中から、久しい声が承太郎の耳に飛び込んできたのを、彼は聞き逃さなかった。
「あれ、承太郎?」
「……名前か、久しぶりだな」
 立ち止まり、声のした方に顔を向ける。自分の視界の下の方に、それでも他の女と比べていくらか背の高い女の顔が見えた。やっほぉ、と至近距離にも関わらず胸の前で手をひらひら振っている、名前がいた。
「そうだねぇ、まあ家は近いけど、最近見かけなかったし」
「ジジイの手伝いで、ちょっとな」
「へぇ、ジョセフおじいちゃん、元気?」
「元気すぎて鬱陶しいぐらいだぜ。もう帰国したが」
 そっかぁ、会いたかったなぁ。と名前は自身も幼い頃にジョセフと遊んだことを思い返していた。
 名前と承太郎は俗に言う幼馴染の間柄だった。年齢は名前の方が二つ上で、何時までもベッタリ仲良くしていたわけではなく、もちろんお互いを何となく避けて素っ気なくしていた時期はある。最後に言葉を交わしたのは、もちろんエジプトに行く前だが、もっと前だったか、下手したら一年ぐらいは会ってなかった気がすると承太郎はぼんやり考えていた。
 後ろでぎゃあぎゃあと騒ぎ出す取り巻きに、本日二度目の灸を据えるとやっと各々の帰路に散らばっていき、その場に残ったのは割と背の高い男と女だけだった。モテる男はツライねぇなんて声が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。
「背、伸びたか?」
「まさかぁ、今更伸びないよ。ハイヒール履いてるからね」
 承太郎が足下に視線を送ると、随分高いヒールを履いていることに気づいた。ずぅっと、ギリギリの状態でつま先立ちをしているような、前と後ろに随分差のあるヒールを履いているようだ。
「足、疲れるんじゃあないのか」
「そりゃー疲れるよ、もう脱いじゃいたいもん!」
「挫いたら、捻挫で済みそうにねぇな」
「女の武器だからね、ちょっと自分に自身が持てるのよ」
 名前の顔は、承太郎には見えなかった。しかし、長い付き合いで、彼女がいま少しだけ落ち込んでいるという察しはついていた。
 コツコツと耳障りのいい音が隣から聞こえる。会わなかったここ一年で、随分、女らしくなったなと承太郎は思った。見たことのないハイヒール、タイトスカート、ロングコートに手袋。そうして控えめな香水が、承太郎の鼻を掠めた。毛先だけくるりと巻かれた髪も、こんな彼女のことだから流行を自分なりに取り入れてるのであろう化粧も、全部全部、承太郎は初めて見たのだった。
 一月下旬のある日の夕暮れ、久々に幼馴染と帰路を急ぐ。先ほどの会話からお互い何を発するでもなく、ただ寄り添って歩く。それなりの高身長の二人が歩いていて目立たないわけもなく、名前は数歩してから公園に寄りたいと声をあげた。



「承太郎の隣はさぁ、なんだかいいね」
「やれやれ……何かあったんだろ?」
「ん?んー、承太郎は背がとっても高いから、隣でうんと高いヒールを遠慮することなく履けるなぁと思ってね」
 ブランコに座り、脚をパタパタさせているところを見ると中身はやはり昔と変わっていないなと承太郎は思った。ヒールが地面に擦れて何本もの線が足元に出来ている。そんなことをしたら、面積の小さいかかとのゴムが擦れてしまうんじゃないかと承太郎は思ったが、幼馴染の持ち物にいちいち口を突っ込み世話を焼くほど、自分が優しくないことを知っていたので、何も言わずに煙草を口にした。
「煙草、何吸ってるの?」
「言ったところで、分からねぇだろ」
 すんすんと鼻をひくつかせた名前は、ふふんと鼻高々にある銘柄の名前を言ってみせた。結果は、正解だった。煙草でも吸いだしたのかと承太郎が聞くと、もう副流煙でお腹いっぱいと名前はブランコをこぐのをぴたりと止めた。
「彼氏の吸ってるのと、一緒」
「……そうかよ」
「さっき、別れてきたからもう元カレだけど」
 特に悲しむでもなく、あっけらかんと言い出したものだから名前から別れを告げたのかと思いきや、男の方からだったらしい。気まぐれも相変わらずで、今度はベンチまで移動して、ついにはストラップを外してハイヒールを放り投げた。スカートを履いてることも気にせず体育座りをして、指先をグー、パーと繰り返し動かす名前を見かねたのか、承太郎は彼女の膝元に自身の長ランを投げつけた。
「別にねー、好きではなかったかもなんだ」
「随分余裕があるもんな」
「うん。でもね、別れ際に言われた言葉がちょっと、キツかったなぁ、って」
 立て続けに二本目の煙草に手をつけた。女とまともな会話を一対一でする事があまり無かったので、手持ち無沙汰になったのだ。火をつけようとして、隣から着火済みのジッポが伸びてきた。
「何言われたんだ」
「『ただでさえ背高いのに、毎度毎度そんなヒール履きやがって!俺のことバカにしてたんだろ』ってさ、ウケる」
 もちろん他にもいろいろ理由はあったよ、好きなものも分かってくれない男だったって話なんだけどさ、と名前は乾いた声を漏らす。そうして何も言えない承太郎の口から煙草を奪い、自らの口に含み一丁前にふかして見せた。やっぱ吸ってるんじゃねぇかと承太郎は思ったが、やっぱり口に出すことはしなかった。それより先に、名前の口が動いたからである。
「タバコも、こういう格好も、合わせてただけなんだよね。雰囲気変わったって思ってたでしょ」
「まあな、中身は相変わらずだが」
「なぁに、なんか言いたげな返し!…でもね、ハイヒールだけは昔から憧れだったんだ」
 さっきまでヒール部分でズリズリと線を作り、挙句脱ぎ捨てたくせになぁと、承太郎はおきまりのやれやれを心の中で呟くだけだった。
 西日から、夕日へ。肌寒さが増してきて、もうすっかりあたりが暗くなって、いつの間にか街灯のランプがチカチカと点滅しだし、近隣住宅からもカーテンの隙間から光がそろそろと伸びていた。筋肉量が多いので、長ランを貸したといえど人に比べて寒さには強い承太郎ではあったが、自分よりも隣の彼女の脚がふるふると震えだしたので、そろそろ帰るかと提案すれば、名前は赤い鼻を啜りながらそうだねと返した。


 名前の家から承太郎の家までは徒歩で二、三分なので、送り届けるというにも違和感を覚える距離なのだが、とはいえ何が起こるかわからない悲しいご時世なので、何も言わずに承太郎は名前の家に向かって足を進めていた。先ほど名前に、承太郎は歩幅とかペースを合わせてくれて優しいねと言われたが、特に積極的にそうしていたわけではなかった。確かに一人でいるときはもう少し歩幅もあるだろうし、脚を運ぶのも早い。名前の隣を歩くときに、自然と彼女の歩幅やペースに合わせていたのは、昔からもう身体に染みついているものだった。
 随分女らしくなった理由が元カレに合わせていたという話を聞いたときに、例えば自分が名前に、もう少しだけ丈の長いスカートにしてほしいだとか、こういう色合いの服を着てほしいなんて頼んだところで受け入れてくれたりするのだろうかと一瞬考えてみた。しかし結局どんな格好をしていても、騒ぐでもなく、静かすぎて話ができないでもなく、無言でも全く苦ではない名前の隣は自分にとって居心地のいい場所だということを、改めて実感した。そうして、この時すでに、これからは定期的にその場所を自分にも貸して欲しいと思うようになっていたことを、承太郎はまだ知らない。
「近いのに、わざわざありがとね」
「近くなきゃわざわざ送ってねぇ」
「中学生みたいな憎まれ口を叩くんじゃありません」
「やれやれ……また、」
 また、お気に入りのハイヒールでも履いて俺を誘ったらいい。そう言おうとして、飲み込んだ。
「また?」
「いや、なんでもない」
「? 今度からは、承太郎の隣で思う存分ハイヒール履けるなぁ」
「……そうだな、時給制で頼むぜ」
「可愛くない弟ね!」
 なんとも言えないそのしかめっ面を久々に見て、思わず承太郎が笑うと、名前もつられて笑いだした。連絡先変わってないでしょ?と言われてああと一言返すと、また連絡するね、今日はありがとう言いながら、名前は玄関の中に消えていった。
 ドアが閉まるのを見守って、すっかり暮れてしまった数分の道を歩けばすぐに自宅に着いた。その道中、きっとあの名前のことだから、連絡してくることはないだろうなと考え少し悶々とする承太郎ではあったが、それも帰宅したと同時に今日の夕食の献立を玄関でツラツラと述べ出した母親に、本日三度目の咆哮をし終わった時点で、そんなことはすっかり忘れていた。


(16/10/13)



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