むかしむかしより人に非ず



 自分の中に、恐ろしい人格が潜んでいることに気づいたのは、つい最近のことです。そうして、その愚かな怪物が如実に私の身体を、脳を蝕み始めた頃、私は愛する男の背を蹴り付けたくなる衝動を、抑えきれなく成りました。
 夙に、残念ながら、そういう性分を抱え産まれてしまったのやもしれません。まことに、我ながら憐れで、見窄らしくて仕方ありません。達観しているつもりなど、微塵もございません。
 それでも、私は私なりに、上手く他者と渡り歩き、あろうことかかような私でも愛情を持ち合わせて人様の隣に居ることを許され、気持ちを共有し、身体を許し、笑みを交わし合うことの努めを果たし、見様見真似の高揚を味わうことぐらいのことは出来ているつもりでした。
 今思えば、嫉妬に程近い感情だったのだと感ぜられます。まるで忌まわしき地獄が口を開けて、今か今かと、その門の前を右往左往している私の往来を焦ったくも待ち侘びていたことでしょう。何より、私はその地獄への門への同行者として、彼の手を引いて連れて行く気満々なのでしたから、十分に笑える見当違いのお話にございます。
 どうか勘違いだけはしていただきたく無いのですが、男は、夏油傑は、当時一般的に見ても唯の男子高校生で、年相応の悩みを抱えながらも旧友らと戯れ合うことのできる、極く一般的な男子に違わなかったのです。私に、悲しき先見の明があったのだというだけの話です。
「傑は、呪術師じゃない自分を考えたことはある?」
「無くはないけど、どうだろう。想像できないな」
「そう。呪霊を取り込む瞬間は良いものには見えないけれど」
「最悪の気分だよ、違いないね」
 苦笑を隠さない横顔を見ると、堪らない気持ちになりました。愛していた証拠だと思います。
 それで、私はというと、人を助ける呪術師である一方で、人の痛みや哀しみ諸々の感情を理解できないことに、それなりに悩んでいました。酷いときは、私の中の恐ろしき怪物が、駅のホームで誰かの背を押してしまいたくなる衝動や、笑う赤子を泣かせてやりたいという気狂いのような激情を、何度も何度も揺さぶっていたのです。
 これには少々気が滅入りました。それをしてしまったらどうなるのだろうという自分の心境の裏付けを取りたかっただけで、爾今に待つ恐ろしい結末には少しも興味はありませんでした。ですから、もちろん人を殺めたかった訳では無いのです、神に誓って。それ故に、身内の愚かな怪物の調教には骨が折れました。
 
 二
 
 私がその不気味な身内と妥協のし合いを繰り返し始めた頃、夏油はあまり笑わなく成りました。まさか、もしや、私の身内の存在に気付いてしまったのかと、当時、彼の慈悲だけが支柱となっていた私の心は、今にも自壊しそうなほどに苦しいと私に泣きついてきました。鬱陶しくも、あまりにも可哀想で、見捨てられなかった私は、彼に身内の存在を曝け出してやろうと日々考えあぐねていたものです。
 思惑は外れました。すっかり安堵してしまった私には、夏油の憂事を傾聴出来るほど、狭隘故に余裕はなく、夏油も私にそれを伝えることを許さなかったのでしょう。
 全く、齢十七そこらの愛だとかは熱に魘された肖像に過ぎないものです。私たちは、あの頃少しも互いのことを理解などしていませんでした。きっと、今日また夏油と面晤したところで、あの過去は互いの足を引っ張り合い、本質を見極めることは不可能に違わないでしょう。
「顔色が悪いけど、具合でも?」
「昨日夜更かしをしたからね」
「そう……傑、あの、私本当は」
「ごめん、ちょっと一人にしてくれないか」
 それから、私は、何度も夏油の顔に張り付いている虚栄を剥がしてやろうと奮闘しましたが、いつもうまくあしらわれていました。
 残暑の厳しいある年、ある日を境に、単独任務に向かった夏油は、私の知る夏油傑のまま帰宅する事はありませんでした。肩書きは呪術師から罪人へ、二人で一人の片割れを残し、私を残し、一人地獄の門へ足を踏み入れていたようです。
 同じ頃、いよいよ醜女は欲に取り憑かれ、まみれ、下種な、まるで呪霊のような代物に転落したのです。自分で、自分の背中を蹴り飛ばし、滑落していく過程はなんと無様なことでしょう。あんな結末を迎えるぐらいなら、私の怪物も飼い慣らすことぐらい容易かったのではないでしょうか。
 あんな、真面目が祟り、煩悶に耐えかねるほどの、愛情と憎悪が決裂し自壊してしまうほどの苦しみの消化と結末は、私に全て押し付けて、逃げてしまえばよかったのに。私ならば、私のこの身内の怪物であれば、容易く許容できたことでしょう。こんなことになるなら、私の内なる怪物を紹介してしまえばよかったのです。少なからず、安心させてやることは出来たのかもしれません。私は、夏油のことを愛していましたから。
 まあ、今更取り返しのつかぬ故事を蒸し返し、懐かしみ傷心に浸る気持ちは今では一切ありません。私の僅かな善良を残していた心も、既に食われてしまったようなので。
 
 三
 
 一つ言えることは、私はやはり嫉妬をしてたという事です。あの出来事は、私を懊悩の核心へと導き、決定打を与えるに十分過ぎました。
 今でも、夏油の背中を蹴り飛ばしたのが私ではなかったことに、強い憤りを覚えます。あれは、自分へのご褒美だった筈なのです。好きなものは最後まで取っておく主義が、仇となりました。
 私が夏油の傍にいたのは、異性としての魅力があるのは勿論、この怪物が身内に居たことが所以の大部分だったのでしょう。
 夏油は、優しい人でした。呪術師としての矜持は、言葉にできないほどに素晴らしいもので、だからこそ脆かったのです。彼の相棒であり私たちの旧友の、身震いするほどに恐ろしい強さと、信仰心の足らぬ非呪術師の狭間で、どれほどの辛酸を舐め、揺らぎ、頽れたことでしょう。その元凶である優しさや、人並外れた思慮と配慮を、私は持ち合わせていませんでしたから。
 ですから、だから、私を巣食う怪物は、夏油を喉から手が出るほど欲していました。聞き分けのない、聞かん坊でして、こんなことを言っては申し訳が立たないというか、不謹慎だと思うのですが、私の知らぬ夏油傑になってしまったときに、憐れな安堵を覚えたのです。これで、無理強いをすることなく、二人で地獄へ行けると思い込んだのです。
 それなのに、夏油は私を押し除け、さっさとその入り口に足を踏み入れました。私の手を振り解き、一人無言で、その苦しみを共有すらしてくれないまま、背中を見せられてしまいました。もうそんな状況で、どうして彼の背中を突き飛ばすことができたでしょう。置いてけぼりがこれ程辛く、悲しく、惨いものだと、私は初めて知りました。
 ですから、私はその後、呪術師をやめました。いつか夏油が、私の愛した夏油傑のまま、屈託のない笑顔で迎えに来てくれることを、身内とともに今でも夢見ているのです。そのとき私がまだ呪術師だったら、あの頃と同じ土俵だったら進歩なく、前に進めないでしょうから。違う可能性が見たかったのです。その日が来たら、私の身内を殺してやってください。それが、私の最後の望みです。
 なんていうのは、綺麗事でしょうか。だって私は既に、醜女になってしまっているのですから。この身内を受け入れ、暴走している様子を手を束ね見守るだけの、形だけは人間の、下種張り性根の腐った存在に。
 本望なれば、呪霊のような私を、おいしく頂いてほしかった。さすれば、私は貴方を護りながら、二人で地獄の園へ亡命できたものを。

(210326)




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