朝なんてこなくていい



 明け方の薄暗さとうら寂しさは、太陽が登り始めてもなお縋るようにこの一室に付き纏う。陽の光が到達し部屋を明るくするには、まだ時間がかかるらしい。
 換気扇の電気をつければ、本来あたたかみややわらかさを覚えるはずの白熱灯は余計に影を色濃く落とした気がする。ますます蕭蕭たる一角へ成り下がった。
 清潔感のある香りは湿度を含んでいた。
 浴室から出てきた悟がその香りをリビングに連れてきた。すれ違い、これから睡眠をとる私は歯を磨くために脱衣所の扉を引く。石鹸の香りを纏った蒸気に迎えられ、無条件で肯定できる香りの中で伸びと共に深呼吸をした。自分が風呂を出た後もこの脱衣所はきっと同じような状態になるだろうに、私は今のいままで気がつかなかった。湿った空気は得意ではないが、この空間だけはなんとも心地よい。
 仄暗く、まだ登りきらぬ太陽の成り損ないの光は建物の遮蔽物を経て、脱衣所に差し込んでくる頃には明度を幾らか下げていた。これから惰眠を貪る予定の私には、丁度良い薄暗さだ。
「僕の下着どこだっけ」
「ベッドの右下の引き出し」
 内倒し窓の取手に、手を伸ばす。
 昨夜泊まりに来ていた悟がいつものように下着の収納場所を聞いてくるので、いつものように返事をする。
 自分の都合のいいタイミングでやってきて、明け方にはシャワーを浴びてこの家を出て行ってしまう男と私の間には幾つもの隔たりがある。勿論この関係は、正式で誠実なものである筈だ。その認識は互いにちゃんと持っている。
 それでもなお、冷え切ったこの部屋が私たちの在り方を明示しているような気がしてならなかった。
 窓の取手を引き、湿度を逃した。風呂を出た後は扉を開けてくれと何度も言っているのに、悟はいつだってご丁寧に扉を閉めてリビングにやってくる。ため息をつきながら扉を開いて振り返れば、鏡は完全に結露していた。使用済みのタオルで雑に拭い、歯を磨き始める。心地よい眠気が寄り添ってきて、排水口を見つめながらその作業をしているときだった。
「僕の歯ブラシも頂戴。あ、歯磨き粉も付けてよね」
「! ちょ、……歯磨いてる最中に驚かさないで。危ないでしょ」
 危うく溜まり切っていた唾液を飲み込むところだった。睨むように振り返れば、悪気もないような顔に見下ろされ、加えてさっさと歯ブラシを寄越せと強請られる。
「そんな甘えん坊で、生徒は困ってるんじゃない」
「みんな僕の扱いが日に日に上手くなってるよ、優秀な生徒ばかりで助かるね」
「保護者が沢山いていいわね」
 自分でも驚くほどに悪態が溢れ出てきて、自分のことながらうんざりした。口を濯ぎ、悟の脇腹を押し退け、寝室へ向かう。
 この家は、どこもかしかも冷え切っている。
 遮光カーテンはわずかに開き、足下には光の線が出来ていた。おかげで冷えたつま先の一部がほのかにあたたまった気がするが、空中の埃がキラキラ浮遊している様子を見てカーテンに手を伸ばした。寝室はまた、生気を失う。
「部屋着置いてたっけ?」
「あるけど……家出るんじゃないの?」
 歯を磨き終えた悟が寝室に戻ってきた。いつもこの家を出る時と同じ時間に私とすれ違うように起床し、明け方には家を出て行く彼がその時間を過ぎてもまだ滞在しているうえで、部屋着があるかなんて聞いてくるのでいよいよ状況が分からなくなった。
「夕方まではやる事ないから、もう一眠りしちゃおうかなと思って。名前は仕事だし昼には起きるだろ?」
「いや、休みだけど今日は」
「えー、早く言ってよ。一緒にお出かけ出来たじゃーん」
 部屋着を探す悟が事前告知なしにカーテンを開けた。あまりの眩しさに目を瞑るも、瞼の裏でチカチカとした光は刺すように情報を与え続ける。漸く薄らと目を開けば、引き出しを漁るためにしゃがんでいた悟の髪が陽の光を存分に浴び輝いていた。
 頭まで布団を被り、暗闇を取り戻す。目を閉じれば陰湿な事ばかりが頭に浮かぶ、厭悪される存在でありたかった、特に悟には。
 何をどこを気に入ってもらえたのかが分からない。
 この男に学校の先生が務まっているのかも甚だ疑問だし、歴史ある家柄の出身ということぐらいしか私は知らない。不安にさせたくないというのはエゴだと思わざるを得ないだろう。
 私たちはお互いのことを、何も知らない。
 ベッドに潜り込んできた悟は私を抱き枕にしていた。互いに爪先で足の甲を弄ぶ感覚がすべすべと気持ちいい。
「次は休み合わせて出かけようよ、何処がいい?」
「悟の行きたいところでいいよ。……強いて言うなら景色のいいところ」
「いいねぇ、探しとくからお楽しみに」
 悟は身じろぎ、後ろから私の首元に額を押し付けた。髪が触れて擽ったく、焦ったい。
 瞼を下ろしても、一向に訪れない眠気に焦慮を覚える。背中から伝わる生ぬるい体温に反比例し、足先は冷えを覚えるあまり汗をかいているような気がしてじっとりと気持ちが悪い。最悪の気分だ。
「ねむれない?」
「うん。悟はさ、私のことなんで好きなの?」
「知りたいそれ?」
 最悪なのは私の方だ。悟からの愛が不安になったなんていう馬鹿げた反吐の出るような脳の構造をしているわけではない。
 私はただ知りたかった。悟が本当は、何を生業にし、何と闘っていて、どんな過去を抱えていて、それがどうしてこんなにも短絡的な表現で口から漏れ出たのか。
 瞬きの間に、布団を被ったまま悟は私を組み敷いていた。闇の間をぬって光など入ってこない。その筈なのに、悟の青い瞳自体が発光しているのではないかと思うほどの光力を感じる。冷たい、青い春が眼前に広がるような気を覚える。
「俺の六眼、どう思う?」
「目? 綺麗だよ、怖いくらい」
「そうでしょー! ……そのまま無垢でいてね」
 勢いよく私の鎖骨に頭を叩きつけて寝息を立て始めた男を起こす気にはならなかった。
 無垢でいてね。無知の知でいることのむず痒さを、この男は当たり前のように、私の思惑を先回りし捩じ伏せ、強奪し、強要する。
 もういいや。無知の無知でいる方が気楽なら、その方が私の性に合う気がしてきた。
 足元から這い上がる冷気、魘されるような生温さを抱えた二人の上半身、尚も朝日は遮光の隙間を掻い潜り一筋の光だけでも差し込もうと奮闘している。
 その様は誰かに似て酷く無様に思える。私はすかさずベッドから抜け出して、諦めの悪い光を絶った。
 
(21.02.15)



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