あさってを白いお皿に取り分けて
幼い頃から、花火が好きだった。手持ち花火も打ち上げ花火も好きだ。
火薬のにおいはお世辞にもいい匂いとは言えないが、花火大会の日だけは鬱陶しい夏の暑さも、その湿度やじんわりと滲む汗、土手に集まる人々の騒々しさを咎める必要もないほどに趣があり、不思議と煩わしさは感じられない。
祖母の庭で初めて手持ち花火をしたとき、散々はしゃいで暗闇でバケツをひっくり返した挙句に豪快に転び、なおかつ虫よけスプレーも付けなかったおかげで体中蚊に刺されたことは今でも覚えている。
中学生のときは部活の試合帰り、あんなにくたくただったのに誰かがこのまま花火を見に行こうと提案したことに反対する部員は誰もいなくて、実はその日は支部対抗という規模の大きな試合の帰りだったのだがあっさり予選敗退し、中三だった私はそれなりに泣いた気がする。泣きながら花火を見て、悔しかったけど最高の思い出になったと笑い合った記憶があるのだ。
高校のときは、友達のフォローもあり好きな人と花火を見た気がする。所謂ダブルデートだった。花火大会の帰りに告白してもらったが、結局三か月ぐらいで別れた気がする。高校生の恋愛なんて、所詮そんなものだ。雰囲気にのまれてくっついて離れてが出来ることは、二十代も過ぎればある意味羨ましい。
大学のときは、記憶にない。恐らくバイトだったのだか、友人たちとの旅行と被ったか。
それから、あんなに好きだった花火大会の日を初めて疎ましいと感じたのは社会人になってからだった気がする。夕方から花火大会が始まる時間までと、およそ花火大会が終わってから二時間ぐらい、電車内は浴衣を着た人たちで賑わった。何本も電車を見送った気がするし、無理やり乗車してくる人が増えるしで散々だった。
それでも、今年の夏はあの土手で行われる花火大会に行きたかった。社会人にもなればそんな女々しいことは思わないだろうと思っていたのに、存外自分はまだ十分に乙女で、少女で、幼いらしい。自分が小学生の頃に想像していた大人になった私は、二十代ぐらいで一人前に自立し、誰かと結婚しているものだと思っていた。残念ながら、一ミリも掠らずに此処まで来てしまった。大人なんてみんな、そんなもんだ。
「! おはようございます」
「ああ、お隣さん。おはようございます」
「今日も朝から暑いですね、これから満員電車に乗るかと思うと気が引けます」
「まあ、無理しねぇ程度に頑張ってくださいよ」
可燃ゴミを持って家を出れば、お隣の高杉さんに鉢合わせた。私が今年、花火大会に一緒に行きたいと密かに想いを募らせている人物である。
半年ほど前に私がこのマンションに越してきた日の出来事だ。荷物の搬入を終え業者の書類にサインをし、早速荷下ろしをしていた時にチャイムが鳴った。引っ越し業者が何か忘れたのだろうかと玄関を開ければ、高杉さんがいた。よく確認もせず扉を開けた私も悪いのだが、急に「隣に住んでる者だ」と名乗る、抑揚もなければ声も低い上にあまり良いとは言えない目つきの男がじっと見下ろしてきたので思わず身構えれば、彼は足元に置いてあった段ボールを持ち直した。
「あんた、荷物の数はちゃんと確認したほうがいいぜ」
「……あ、あれ? これ、私の……え、どこに!」
「トラックの死角に放置されてたみてぇだな。まあ大方あんたので間違いねぇと思って」
「ありがとうございます! 助かりました、この箱の中大事なものばかりで……」
職場から帰宅した高杉さんは自分の隣の家を出入りする業者と私を数メートル前から目視していて、いざマンションのエントランスに着いたら一個だけ放置されている段ボールを見つけ、貼られている引っ越しの荷物シールをみて私の荷物だと確信し持ってきてくれたらしい。見た目こそ正直なところ暗そうに見えるが、存外優しい人なのかもしれない。
新天地に越してきて、職場でしか誰かと会話をすることはないかもしれないとかなり消極的な引っ越しだったはずが、半年経った今ではこの久しい感情を呼び起こすことになるだなんて。
あれから、高杉さんには色々と助けてもらうことが多かった。リビングの電球が切れ、椅子に乗って交換しようとしてひっくり返った時も音に気づいて駆けつけた後に交換してくれたし、天敵である黒光りするアレが出た時も何故かベランダに私が逃げてしまい、窮地に追い込まれていたら喫煙のためにベランダに出ていた高杉さんに遭遇し、家に入ってもらって退治してもらったり──鍵を開けっ放しにしていたことについては物騒だとそれなりに叱られた──そんなこんな、いつも呆れられては最後に笑って自分の部屋に戻っていく後姿を見送るたびに想いが確信へと近づいていた。
とはいえ、八月十日の花火大会に誘うのは存外難しかった。
一週間前からどうにか高杉さんを誘うチャンスはないものかと思い悩んでいたのに、この一週間は帰りが遅いらしくゴミ出しのタイミングでも会えない状態だった。そもそも、彼に彼女がいるかもわからない段階である。そういう下世話な話というのは思い返せばしてこなかった。いや待て。そもそも私が何かしらドタバタとしている時に世話をしてもらっていただけで、それ以外の会話ってかなりご近所さん同士特有の当たり障りない天気の話だったりばかりだった気がする。
意識してもらう以前の問題だ。すっかり恋愛たるものの過程を忘れていた。顔を合わせ、会話をし、互いを知り、恋をし、想いを伝え愛情へと変化していくそれらの段階をすっかりすっ飛ばしていた。まだ中学生の方が恋愛についての構造を理解している気がする。
考えれば考えるほど、私はただのお隣さんでしかない。それ以下でもそれ以上でもない、友人同士の会話に出てくることもなければ出かけている最中に思い出してもらえるような存在でもない。家は知っているが連絡先だって知らない。中学生にできないのは、やけ酒をすることぐらいだ。だってあまりにも、客観的にみて冷静でいられない状態だ。それで花火大会なんてビッグイベントに誘おうとしてるんだからどうかしている。
「酒! 飲まずにはいられないッ!」
「荒れてんねぇ。てか、そんな段階踏む恋愛なんてうちらの歳になったら逆に稀でしょ、なるよーになるんじゃん?」
「だってえ、結果的にだめでもお隣さんという事実は変わらないじゃん? その後気まずすぎるし」
「うじうじしてる最中に他の女にサーっと持ってかれるかもじゃん。あ、彼女いたらそもそも話にならないけど」
幼馴染から着信があったのでそのまま始まったオンライン飲み会は私の恋愛事情についてで盛り上がった。普段あまり飲酒をする方ではない私が画面の向こうで半べそをかきながら酒を煽る姿は幼馴染からしたら貴重で面白いらしく、その後も私を不安にさせるような言葉を投げつけながら私のベショベショになった顔をつまみにしているらしい。とんだ性悪である。
「お酒切れたぁ、買ってくる」
「水飲んだら? 今から買い足しって、危ないよ」
「コンビニすぐそこだからぁ! すぐ帰ってくるから繋いでてぇ」
「気をつけてよね本当」
リビングのPCから幼馴染の心配する声が聞こえるが、気持ちよく酔っ払っていた私は聞く耳なんて持たず、財布を持ち薄着で鼻歌交じりに玄関を出た。エレベーターでエントランスに降りて意気揚々と外に出れば、クーラーで冷えた体に熱帯夜の篭った暑さは僅かに気持ちいい。浮かれ気分でマンションの敷地を出ようとして、誰かにぶつかった。回ってるんだかわからない呂律で謝罪をして顔をあげれば、今一番こんな姿を見られたくない人が目の前にいた。
「ああ、あんた……酔ってるな」
「げえ、高杉さん!」
「げえってなんだよ……っておい、そんなふらふらでどこ行く」
「お酒買い足しにコンビニへレッツゴーでぇす」
もはやヤケクソである。だって、好きな人に会えて嬉しいことには変わりないし、酒も入ってるしで気分は最高だ。
「はあ……おい、あぶねぇから俺も付き合う」
「ええ、心配性ですねぇ」
「俺も今日は飲みてぇ気分だからな。さっさと行って帰るぞ」
それから仕事帰りの疲れた高杉さんを先頭にコンビニへ行ってチューハイと酒のつまみと、新作らしいコンビニスイーツを持ってレジに並べば高杉さんが私の分まで払ってくれた。
黒い皮の長財布は使い込まれているようでほどよく艶が出ている。好きな人の小物を見るだけで、いつどんなことを考えながら購入したのかなと考えると、勝手ながらその光景を想像するだけでなくあまつさえ可愛いなんていう感情さえ湧いてきて、頬が緩んでしまう。冷静に考えれば、心底気持ち悪いだけである。
「ったく、あんたは女って自覚少しは持った方がいい」
「ええ? ……あっ!」
「なんだよ、買い忘れか?」
「いや、……高杉さんに今日会えて、良かったなぁって……」
高杉さんの目がまあるくなった。僅かに開いた口はそのまま言葉を発することはなかったけど、次の私の言葉で彼の眉間にはシワがより、母親のごとく叱られるのだ。
「か、鍵……部屋に、忘れてきたみたいで……えへへ」
「……はー、えへへじゃねぇよったく」
高杉さんの家の鍵でエントランスの扉を開け、二人でエレベーターに乗り込む。高杉さんから一人で飲んでたのかと聞かれたのでオンライン飲み会をしていると答えたら楽しそうだなと僅かに微笑まれた。
ああ、今じゃないか。今、花火大会のお誘いをするべきだろう。
エレベーターの中は熱気に満ちていた。高杉さんはカットソーを掴んで胸元にパタパタと風を送り込んでいる。震える唇でなんとか声をかければ、高杉さんのスマートフォンが鳴った。悪いな、と一声かけて会話を始めてしまったので、こんな好機を逃すということは誘わない方が吉というお告げなのかとさえ思ってしまう。
『あっ低杉〜お前今何してんの』
『なんだクソもじゃ、喧嘩なら買うぜ』
『ちょっと巫山戯ただけじゃん! 強火にもほどがあるだろ! 煽り耐性ねぇのかよ』
『お前の存在が俺を煽ってやがる、失せな』
『限界中二病やめな〜! 暇ならズラと声のでかい人でオンライン飲みしてるから参加しろよ』
『……もうすぐ家着くから、後でな』
口調から察するに、相手は男友達だろう。少し安心し、次の機会を伺うしかないかと落胆しながら互いの家の前に到着した。電話中の高杉さんに会釈して鍵を開けっ放しだった扉を引こうとしたら、高杉さんに頭を撫でられた。
『ああ、ちょっと待て……、飲みすぎるなよ。……ああ? 隣の家の人と話して、……しらねぇよ、テメェ後で覚えてろよ……』
電話の途中で飲みすぎるなよと笑われ、そのまま流し目で自室に消えていった高杉さんを駆け込んだ玄関で思い返す。
やばい、確実に心臓に悪い、止まったのかと思った。所謂くそでか感情とやらが爆発して叫びそうになってしまった。だって、やばい。夏、好きな人とコンビニに行って、酒を買って、同じマンションに帰って、初めて頭を撫でられ、微笑まれた。夏の恋愛って確かこんな感じじゃないか、少し感覚を取り戻したはいいがもはや恋愛セカンドバージンレベルの私からしたらあまりの情報量に頭が沸騰しそうだ。
「……え! ちょ、それ高杉さんとやらはあんたと飲もうと思ったんじゃないの!?」
「待って、なんでそうなる」
「いやいやマンション下で居合わせたってのもすごいけど、一緒に飲む予定のない普段迷惑をかけられまくっている女に酒なんて奢らないし、エレベーターで一人飲みか聞かれたんでしょ? はー! なんで一人って言わなかったのよ」
「だって、高杉さんもあの後友達から電話きてオンライン飲みするって話してたし……」
「そーいう問題じゃない」
買い出しに出てからのことを怒涛の勢いで幼馴染に話せば、人をダメにするクッションで踏ん反り返っていた幼馴染はどんどん前のめりになり、私の肩を揺さぶれない代わりに自分のPCへいよいよ腕を伸ばしてしまった。彼女も相当酔っているようだが、一方で私は先ほどの一件で急激に酔いが覚めてしまい、折角買ってもらったチューハイだってあまり進まないまま温くなってしまった。
それから何かをブツブツ言いながら寝落ちしてしまった幼馴染に、聞こえていないだろが画面越しにおやすみと伝えPCの電源を落とし、メッセージアプリで彼女に寝落ちしたみたいだよと伝える。
時計を見れば、深夜二時を過ぎていた。クーラーをタイマー設定し、残っていたチューハイ片手になんとなくベランダに出れば生温い夜風が身体を撫でる。
いよいよ会話する相手がいなくなったことで、先ほどの出来事がじんわりと思い出された。
ただのお隣さんに変わりはないだろうけれど、今までのことを考えれば進歩だったかもしれない。とはいえ、好きな人の前で酔っ払い、薄着で、挙句鍵まで忘れるのだから頭からつま先まで醜態を見せつけてしまったことは事実だ。その点を高杉さんがどう思っているかはわからないが、いつも呆れ顔の後の笑顔に付け加え、今日は頭まで撫でられた。ほんの一瞬だったが、思い返すだけで紅潮してしまいそうだ。だって、自分の手でも撫でられたところをなぞるくらいだ。
左となりの高杉さんの部屋は、まだ明るいようだ。話声も聞こえてくるのでおそらくまだオンライン飲み会を楽しんでいるのだろう。明後日の花火大会に誘う機会はまだあるだろうか。そんなことを考えながら、カーテンも閉めずにベッドに転がり込んだ。
結局飲んだ翌日は昼過ぎに起きた。微妙に酒が抜けていないので即席味噌汁を体内に流し込み、特にあてもなかったが化粧をして昼のバラエティ番組を見ながら今日はどう過ごそうかと悩んでいると、職場の後輩から電話がかかってきた。嫌な予感がして電話に出れば、休日出勤確定である。
「あ、高杉さん」
「どうも、……社長出勤だな」
「後輩がやらかしたので尻拭いをしに」
そう返事をすれば、高杉さんは隠せていないククっとした笑い声の後にそれでも押し殺すように笑った。こんなに破顔しているところを見たことがない。同い年ぐらいのはずなのに、笑った顔はまるで高校生のようだ。無邪気に笑う顔を見たら、胸がぎゅっと苦しくなってしまった。これから仕事だってのに、なんてもんを見せつけてくれるのだと少しばかり焦慮を覚える。
「へえ、あんたでも部下の尻拭い、するんだな、ふは」
「えーめっちゃバカにするじゃないですか。普段ちゃらんぽらんだけど、仕事はちゃんとやってますから!」
「そうかよ、じゃあ俺は貴重な一面見せてもらってるってこったァ。ありがたいねぇ」
喉の奥に引っかかるようなクツクツとした珍しい笑い方だが、思えばこの人は声もいいので色々な声音を聞けるのは正直嬉しい。声が低いので落ち着くし、もっともっと話をしていたくなる。
「そうですよ、お隣の高杉さんだからこそ見れる私の一面です」
「大方あんたの尻拭いの結果だけどな。あ、夜雨降るから気をつけろよ」
「え! 営業先直行だし長傘もなぁ……降られたら買います」
ちょっと待ってなと室内に消えた高杉さんの後ろ姿を目で追う。
マンションを囲む木々から一斉にアブラゼミの合唱が始まる昼下がり、二日酔いをしているわけではないが、駅まで汗をかけば完全にアルコールは抜けそうなぐらい、それぐらい今年の夏も蒸し暑い。
いよいよ明日は花火大会だけど、正直私の頭には諦観の二文字が並んでいた。いざ声をかけようとするといつもタイミングが悪いのだ。基本的にポジティブな私でも、いくつもの不可抗力を叩き付けられるとそれなりに心は折れる。
「無くすなよ」
「えっ、貸してくれるんですか」
「普通に男もんだけどねぇよりマシだろ」
胸元に差し出された折りたたみ傘を受け取る。ダメだ、期待してしまう。だって、友達同士でさえ折りたたみ傘を忘れたと言ったところで外で買いなとか風邪ひかないようにねとか、そんな一言で片付けられてしまうことでさえ、この人は律儀に受け止めいつも私を助けてくれる。
越してきてからいつも助けられてばかりだ。助けられて、叱られて、笑顔を見せられて。それなのに私は恋愛云々抜きにしても、何一つ彼にあげられていない。恋愛とは駆け引きであるだなんて誰かが言ったっけ。全くもってその通りである。
「じゃあ、気をつけてな」
「はい、……行ってきます、高杉さん」
肩の荷が下りる、というか、おちてしまった。そもそも、この人を花火大会に誘うというスタートラインにすら立っていなかったのだ。気持ちばかりが先行して喜怒哀楽に振り回されていいのは大学生ぐらいまでだろうか。
いい大人がああでもないこうでもないと予測のみで立ち居振舞うのはなんと愚かしい。とはいえ、私が高杉さんを好きという事実は変わらないしそこは否定しなくてもいい話だ。だから、明日からちゃんと恋をしていこう。そうやっと思えたのは、アルコールが抜けたからだろうか。
花火大会の二時間前になった。テレビでも生中継をされるので現地に行かなくても事は足りるが、できる事ならやっぱり生で見たかったのは事実である。一人で行けばいいだけの話だが、思い返せば一人で花火を見た事は今まで一度もなかった。
誰かが隣にいて、駅の改札を出て暑いと悪態を吐きながらその道中に並ぶ屋台でかき氷を買って体を冷やして、舌の色を見せあいながら土手を下るあの時間は、今思えば至極贅沢なものなのかもしれない。家族とだろうが、友人とだろうが、恋人とだろうがその贅沢さは変わらず掛け替えのないものだ。見る場所を決めるときも、トイレが並んでると愚痴を零すことも、直前に雲行きが怪しくなり不安になることも、そして無事に花火を見終えて土手から駅へ向かう道中に元気な小学生とぶつかりそうになったり、花火は終わったのにまだ熱狂冷めやまぬ周りの人たちの笑顔も全部全部ひっくるめて花火が好きな理由だ。
「やっぱり、行こうかな」
家でおとなしく見るだなんて、せっかく休みなのに性に合わない。
思い立ったが吉日だ。カバンにスマホと財布とハンカチを突っ込んで玄関を後にし、今日は確実に戸締りを。そうこうしていると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「どうも。出かけるのか」
「高杉さ、……浴衣……」
「ああ、ちょっとな。今日花火大会だろ」
普段は全く回転しない頭が、どんどん悪い方向に動いていく。
鍵を握る手にじっとりと汗が吹き出し、滑って落としそうになってしまった。だって、浴衣を着ている理由は花火大会だからと言ったのだ。それは、一緒に行く相手がいるということじゃないか。ああ、やっぱり幼馴染の言う通りせめて当たって砕ければよかった。いや、もともとお付き合いしている人がいたのだとしたらそれ以前の話なのだけど。
「あ、えっと……似合ってます、すごく」
「そりゃどうも。あんたは花火大会行かないのか」
涼しげな顔で高杉さんは私にそう問いかける。ああ、悲しくて苦しくて悔しい。大人になっても恋愛で下手をこけばそれなりに胸が苦しくなるものらしい。子どもだから大人だから、どの世代でもこの厄介な感情にはそんなものは関係ない。私は今、泣きながら逃げ出したいほどに勝手に傷ついているのだ。とびきり慰めて、感傷に浸ってやりたい気分だ。
「行きますよ、お一人様ですけどね! 私、花火大好きなんです」
せめてもの強がりで、精一杯の笑顔で返事をした。
「へぇ、そりゃ奇遇だな。あんたが良ければだけど、お一人様同士で一緒に観に行かねぇか?」
「……え、え? 高杉さん、え、彼女さんとかいるんじゃ」
「残念ながら、職場も恵まれなくてね。既婚者のおばさんばかりだし、職場っつても自営業の呉服屋だ」
目が、チカチカしている。この一、二分で何が起きたのだろうか。
ああ、恋愛とはそんなものだったか。全部勝手なのだ。相手が何を考え、どんな交友関係を持っているか、自衛のために傷つかないように最悪のシナリオをベースにしてハードルを兎に角下げるに徹する。
安堵とまさかのお誘いで、ぐちゃぐちゃの感情は涙腺を刺激した。思わず、大好きな人の前でボロボロと涙が溢れてきた。もう、期待してもいいだろうか。いつも迷惑をかけて、好かれるような一面なんて見せてもないだろうけど。まだ好きになってすらもらえていないお隣さんと言う立ち位置かもしれないけれど、少しぐらいは浮かれてもいいだろうか。
「うぅぅ……行く、一緒に行きます。高杉さんと花火大会、行きたいってずっと言いたかったぁ」
「泣くほどかよ……あー、っと」
頭をかいた高杉さんはぶっきらぼうに私の手を取った。泣いたままの私は握られた手を見る前に、一瞬赤くなっている彼の耳を見てますます涙が溢れる。どうしようもなく、嬉しくて仕方がないのだ。
「もともと休みだったのに、ひでぇだろ。飛び込みの着付け予約がキャパオーバーして朝から呼び出しだ。こちとらテメェの誕生日の花火大会にあんたを誘おうと思ってたのにだ」
「! た、高杉さん……き、期待して、いいですかぁ」
「俺こそ、期待していいってことだよなァその反応。もう店も落ち着いてるし、あんたも浴衣着たらどうだ」
幼馴染へ、私、やったよ。言う通り、段階なんてすっ飛ばしてるし今も頭は追いついていないけど、大好きな人と花火大会に行けるみたい。
「時間ねぇから急ぐぞ」
「高杉さん、うぅう」
「いつまで泣いてんだ」
「大好きです、あとお誕生日おめでとうございますぅ」
盛大な溜息はもう何度聞いてきただろうか。それでも、今の高杉さんの溜息と笑顔ほど、私の目にキラキラと映ったことは今までで初めてだ。
生まれて初めてこんなにも願った日はない、幾つになっても、私はきっと花火が好きでいるのだろう。そうして来年も再来年もあわよくばそのずっと先も、この人と、この人とじゃないと花火大会を心底楽しめない。それは怖いことでもあるが、楽しみの方が断然上回っている。先を考える必要なんてないのだ。
「後で、改めて言わせてくれ。……返事、期待していいんだろ」
「はい!」
高杉さんに手を引かれ、彼の背中を見上げる日が随分早くきてしまった。
私の夏はまだ始まったばかりだ。
200813