ダイヤモンドは泥砂で睡る
使用人としての価値だけはなんとか見出せたものの、知恵も知識もない女を拾った館の主は、実に聡明で博識な男である。その頭脳をひけらかすことはなく、今後自ら創造した新たなる世界の頂点に立つために、年齢だけで言えば百歳を超えた今なお書物を嗜んでいるのだと、女は考えていた。
「お呼びでしょうか、DIO様」
「ああ……テレンスに頼まれていた仕事は済んだのか?」
はい。夕食の手伝いをするまで、休憩をいただきました。女がそう答えると、DIOは目元をピクリと動かしながら、彼の言葉に合わせ忙しなくに頭を下げたり上げたりを繰り返す女に近づく。
「そうか、では今休憩中なのではないか?」
「ええ、いや……DIO様直々のお声かけですので」
「まるでこのDIOを厄介者扱いするような口振りじゃあないか」
「とんでも、ございません!あの、うぅ…」
ほんの意地悪な言い方をすると、一生懸命に弁解しようとあたふたする若い女の様子を見るのが、DIOにとってここのところのちょっとした楽しみでもあった。
名前を拾ったのは、DIOにとってほんの気まぐれにすぎなかった。半年前の深夜、エジプトの夜を散歩がてら、スタンド使いを直々に探そうと出歩いていたときのことである。大通りのわき道、そこからさらに入り組んだ全く人気のないところで、ボロボロの下着一枚に全身アザだらけの、まだ顔にあどけなさが残る名前を見つけた。普段、食糧がてら性を貪るための女たちとは比べものにならないくらいに貧相で、汚らしいこの女を見ていると無性に腹が立つのは、自身の幼少期と重なるものがあったからかもしれないと、DIOは後になって気づいた。
「おい、女。わたしは今無性に腹が立っているのだ。そんなところで汚らしく転がっていて、蹴り飛ばされたいのか」
「……そう、したいなら……思い切りやって、ください」
今にも意識が飛びそうな女のか細い声が足元から這い上がってくる。それでも立ち上がろうとなんとか座り直したところで、女と男の目がようやくーそれでも一瞬だったがー合った。
「蹴り飛ばさないのですか?」
「折角座り直した女を、何故蹴り飛ばす必要がある」
「はぁ……ああ、大通りに出るのならこの道を」
「貴様、わたしを見てなんとも思わないのか」
そもそも、道に迷ってなどいない。そう付け加えると女は虚ろな目を上にあげた。それだけでは大男の顔を捉えるには不十分だったため、顔ごと上にあげたところで、巨大な手に顎を掴まれた。爪が頬に食い込んでいる。
「綺麗な人だと思います、が。……なにか?」
その一言が、女を連れて帰るきっかけとなった。DIOはここのところテレンスが趣味の時間が取れないと口にしていたのを耳にしており、原因が執事としての激務にあったことも知った。食事、洗濯、掃除と広い館をほぼ一人でやり繰りをしていると聞き、近いうち使用人を雇うと約束していたのを思い出したのだ。
そうして、この女は非常に都合がよかった。おそらくこの女は娼婦であり、まともに金ももらえずに、帰るべき場所もなくこんなところに転がっていたのだろう。何よりDIOを一瞥して尚、彼の美しさに照れたり恥じたり、身なりを気にせず媚びるようなことをしなかったのだ。DIOにとっては稀なことであり、館で働かせても自分に媚び諂うことはしないだろうと踏んだのである。
「わたしの館で働く気はあるか」
「……こんな私でよければ、拾ってください」
「ほんの冗談だ」
「……ところで、何か御用ですか?」
「いや、特に」
妙なこともあるものだと、名前は思った。この男に拾われてから早半年、あくまで使用人と主という距離感を保ちながらやってきた。名前の仕事というのは、DIOの身辺の世話は勿論、あくまで快適な生活を送ってもらう手助けというだけで、直接言葉を交わすというのは今までになかった。ところがここ数日、DIOは自分の部屋に直々に呼びつけては、取り留めもない会話をするようだった。だがそれは名前にとっては全く苦でなく、やはり美しく、自分を拾ってくれた恩のある主というのには変わりないので、むしろ自分のような人間に仕事以外で声をかけてもらっているという事実が今なお信じられないといった様子であった。DIOは、脳のない名前に対して極力簡単な単語で言葉を紡ぐ。哲学の話や、法律の話、ときには時事に関する話をした。今日はどんな話を、するつもりなのだろうか。
「特に…ですか」
「ああ」
「……え、っと」
「……」
困った主である。自分から呼びつけておいて、話す内容を忘れてしまったのであろうか。普段感心しながら熱心に話を聞くだけの名前にとって、何も話さずDIOと二人きりになるというのは心苦しいものがあった。何か話すべきなのだろうかと考えあぐねていると、声が降ってくる。
「なに、くだらぬ話だ。わたしは無駄が嫌いだ」
「存じております」
「時間は勿論、無駄な行動、行為も嫌いだ」
だが一つ、わたしにも無意識のうちに行ってしまう無駄がある。名前、お前は特にだな。DIOの形のいい唇から紡がれた言葉が蝸牛を責め立てる。主でさえ行ってしまう無駄なら、きっと自分は常にそうなのであろうと思い知らされるような、もしかしたら暗に存在が無駄になったので捨てる或いは殺すと揶揄しているのかとも名前は考えさせられた。その後、恐怖で言葉が出なくなり、俯いたまま動けなくなってしまったのだ。
そうしているとDIOはあの日のように名前の顎を大きな手で持ち上げた。少しばかり青ざめた様子の名前の顔色に気づき、ニヤリと口角を上げた。
「何を考えている?」
「あのっ、DIO様!まだまだ至らぬ点はありますが、どうかッ……!」
ぐぃ、と名前の唇に親指を押し付け、言葉を制したDIOは、自分の思わぬ行動によって固まってしまった彼女を見てもう少しからかってみようと思った。手持ち無沙汰な片手もさらに追加し、両の親指を名前の口角に引っ掛け少し引っ張ってみせた。
「でぃ、でぃおひゃ…あ…?」
「とんだマヌケ面だな、名前よ」
「!……からかわないでください、もぉ…ッ」
「むぅ、この程度の悪戯で泣くやつがあるか」
「私は、怖かったんですよ!DIO様が難しいお話をなさるから、私、捨てられるか殺されでもするのかと」
DIOの胸にすら届かない小さい名前は、ボロボロと大粒の涙を零しつつ懸命に小さな手でそれを拭いながら、肩を震わせていた。流石にここまで泣かれるとは思っていなかったDIOは少々やりすぎたかとも考えたが、半年経ってやっと名前が自分に懐き、弱い部分を見せてくれたということに対し優越感のようなものを感じていた。
意地の悪い両の手で、今度は名前の顔をすっぽりと包み込む。
小さく、貧相で、小汚い小娘一人を拾い、せっせと働く彼女を目の端に入れる生活というのは、悪いものではない。
「案ずるな、わたしはこの先、たとえお前が口答えをしようが小鳥のさえずり程度としか思わん。殺さぬということだ」
「はい…DIO様。あの、DIO様でもしてしまう無駄というのは?」
「まだ分からぬか? お前は散々この数分、私の一言であることないことを考え、恐怖や疑心というものを味わったのだろう」
杞憂というのは実に無駄な行為で、暇を持て余したやつがやるようなことだとわたしは思うのだ。事実わたしは杞憂なんてものをしたことはない、世界の頂点に立つ者はほんのちっぽけな恐怖をも持たぬからだ。と、いつか貴様は何のために生きる?と聞かれたときと同じ言葉が名前の頭に降ってきた。
名前の、まだ乾ききらない涙で濡れたまつ毛にDIOの人差し指が触れる。くすぐったいのか、目を細め口元にキュッと力を入れる表情を、柄にもなく愛らしいと思う。
「そんなわたしがだ。半年経つというのにどこぞの使用人はわたしには全く懐かず、テレンスとよろしくしているらしいじゃあないか」
「よろしくってわけじゃ…テレンスさんは直属の上司、というか」
「一人で買い物に出たっきり、数時間帰ってこないこともある。名前、わたしに心配をかけさせるなよ」
「!わっ、わたし、お屋敷から出て行こうとかそんなことは!」
「それも勿論だが、昼間に出先で何かあったとき、わたしは助けに行けぬのだ。マヌケ面で両手いっぱいの荷物を抱えて帰ってくるお前の姿を見るたびに、わたしはまた無駄を一つ増やす」
趣味でもない女に対してこんな気持ちになったのは初めてだぞ、と照れもせずに言い切られてしまってはもう逃げ場がない。ここ数分に起きたことを反芻し、ここ一ヶ月で痺れを切らしたように性急に縮められた距離感を考えれば普通の女なら少しくらい勘づくものだが、まともな恋愛をしてこなかった名前には全くわかりやしなかったのである。
「あの、私自分の無知がここまでたたるとは思わなくて……その、鈍感すぎるというか……恥ずかしいくらいです」
「なに、しびれを切らしたのはわたしだ。そろそろテレンスに呼ばれるんじゃあないか?」
「もうそんな時間なんですね……なんだか今日のお話は、あっという間に感じました」
果たして今日は話をしたと言えるのだろうかとも思う名前だったが、今日ほど心臓がひっきりなしに動いた日はなかった。DIOに触れられたあちこちが熱を帯びたようで、言われた言葉一つ一つが何度何度も頭を駆け巡り、頭だけでは飽き足らず心まで支配されていくような感覚を覚える。もちろんその支配というのは、心地の良いものである。
「お前の涙はなかなか乾かないのだな」
触れるか触れないか、未だ名前の目尻に中途半端に居座る涙にDIOは唇を寄せる。瞠目し再び固まってしまったので、耳元に唇を寄せるとひゃ、と小さな声を漏らしひどく赤面しながら耳を抑える名前は、DIOにとってはあまりにも新鮮で非常にいじらしい。
「夕食の手伝いをしてきます……!」
頭を下げたあと、閉まる扉の向こうに小走りする名前を見て、DIOは今後も要所要所で杞憂することになる自分を想像し、それも悪くないと思うのであった。
(16/09/27)