後日談
「夢野先生、夜の光ってわかります?」
大型連休も明け、夢野先生の用事も諸々片付いたところで打ち合わせでもと声をかけられた。
手土産を持って夢野先生の自宅に赴く。玄関で思わず固まってしまったのは、帝統の靴が脱ぎ散らかしてあったのが目に飛び込んできたからだ。徐にそれを直してしまうのは帝統のためではない、あくまで夢野先生の玄関を猫の粗相から救うためである。
「夜の光ですか、それは小説家に対する挑戦状とお見受けしても?」
「めっちゃ強火じゃないですか」
「いえいえ。なかなか素敵な感性だと思いますよ、どなたかと素敵な夜でも過ごしました?」
ああこれ、セクハラのつもりはないですよ。夢野先生が詫びる顔なんて一切せずに弁明をするもんだから、本心なのだろう。相手を男性と認識させるような言葉もないし、もちろん同衾を示唆するようなものも一切ない。
疾しいのは、自分の方である。素敵な夜と言われた瞬間に、ふすまの向こうで寝転んでる男の後ろ姿を盗み見してしまうぐらいに、あの夜のことは印象的だったのだ。だからこそ私は今、夢野先生に自分の足りない感性の補填を求めているのだから。
「帝統はん、お茶入れてくれはります?」
「おー、……幻太郎、ポットのお湯少ねぇから沸かしとくぞ」
来てたのかなんて白々しい言葉をかけて、キッチンに向かっていく帝統の背中を目で追いかける。
あの夜から悔しいことに、帝統を意識しているのは間違いなかった。あの後届いたカーテンを取り付けてから今日まで帝統が家に来ることはなかったし、私はやっぱり暗い部屋で日々眠りについていた。それでも何故か、深夜に目が覚めカーテンを開けて眠りにつく日もあるのだが、なんら意味のないことを繰り返してしまう行動原理も解らないでいた。
「貴方は夜を好意的に感じているんですねぇ」
「え、そうですか?」
「夜を好意的に感じるのは、感情を強く揺さぶられた時ぐらいじゃないですか? 事実として、シブヤの夜なんて煩くて忙しないでしょう。物騒な世の中ですから女性の夜道は危ないですし」
ポットの中の残滓ともいえるお湯を流す帝統の背中を見ながら、夢野先生は差し入れた個包装のおかきの封を開け、心地よい咀嚼音を響かせる。気に入ったようで、袋を裏返しメーカー名をつぶやいた後に、黙り込んでしまった。まさか活字中毒とは思えないが、そのまま端正な顔を保ち咀嚼を続けながら成分表を読み始めてしまったようだ。何かしらでも文字を読んでいると落ち着くのだろか。
先ほどの夢野先生の言葉を反芻する。確かに日中に比べたら夜は抽象的にしても危うい事象が多いのは確かだ。高校生までは帰る時間を親に報告しないと叱られた記憶が蘇る。
しかし、夢野先生は感情を揺さぶられたときはそうではないと提言した。まるでおかしな試験の条件のようだとも思ったが、存外そうなのかもしれない。
「夜は闇とか死を暗示させる書き方をする小説家もいらっしゃいますもんね」
「まあ、それが小説家の悪いところですよ。例えばストーリー中で不穏な表現をするときに必ず夜の描写を入れたりすると、その小説家の中で単語の意味は一生覆ることはないですから」
「といいますと?」
「小生が夜の描写を書くときは決まって不穏、とします。そんな小生に、あなたは対比である夜の光とは何かと尋ねました。小生にとって夜イコール不穏です、ですから貴方の素敵な感性を否定してしまう場合もあるでしょう。最もそういった小説家は、言葉を次々と殺していきますけどね」
話が逸れたと詫びる夢野先生に、私は再度小説家として惚れ直すばかりだった。
もちろん先程のような言葉の扱いを自分はしていないときっぱり言い切れる夢野先生は、小説でそれを証明しているのだからもっと誇示すべきだ。カメレオン小説家は、様々なストーリーを描けるから凄いのではない。限りある言語を駆使し、むしろ言語に新たな意味を添えるつもりで書き分けていく。その努力と感性は、常人のはるかうえをいくものだろう。
だからこそ、夢野先生に私のうわ言に意味を添えてほしかったのだ。こればかりは、無性に大事にしておきたい感性に違いなかった。
あの夜、帝統と同衾したときから今の今まで忘れないでいた表現というべきか。
夜光虫のように僅かにちらついた、頼りなくも懸命な灯火のような光は確かに私の目に焼き付いたのだ。それらの光は、暗く日の当たらない黒ではなく濃く力強い紺碧を連れて、レースカーテンをはためかせて風に乗って私と帝統を包み込んだ。あの景色を忘れられずに、私は一人の夜中にあの瞬間を求め窓を開けていたのだろう。
「で、夜の光とやらは貴方にとってはどんなものなんですか」
「真っ暗ではなくて、深い青に混じる淡くてチラチラした……蛍? に近いけど」
「それを感じた時の風景が浮かんでいるのに、うまく言葉に出来ないって顔してますね」
まさにその通りだと頷けば、夢野先生はよろしいを二回繰り返して笑ってみせた。
夢野先生の次の言葉を待つわずかな時間に、ドスドスというガサツな足音が近づく。見上げれば、帝統が湯呑みを三つと急須をおぼんに乗せてやってきて、私と夢野先生が作業をする机にガチャガチャと音を立てながらそれを置き胡座をかいた。
「帝統そんなことできるの!? ちゃんとおぼんまで使って!」
「出来るわ! お前俺をなんだと思ってんだよ……ぅわっちぃ」
「あ、また火傷!」
「こんぐらい大丈夫だっつの、大袈裟だな」
また火傷をされたらたまったもんではない。熱湯を入れたばかりの湯呑みを鷲掴みして先生の前に置くもんだから思わずギョッとしてしまった。夢野先生からしたらいつものことなのだろうか。はいどうもと湯呑みを受け取り、まだ熱いであろうお茶を僅かに音を立てて飲み、喉を潤したようだ。
「帝統、貴方賭場に行くと言ってませんでしたか」
「あー、この打ち合わせって何時に終わるの?」
「私が一時間後に会社に戻るから、お茶飲んだらお開きだけど」
じゃあ同じタイミングで送りがてら出るわと帝統が独りごち、換気扇の下に煙草を吸いに移動した。
私はあくまで夢野先生の担当の他ならない。自分の担当とチームメンバーが、自分が知る以上に近しい関係になっていると夢野先生が知ったら、仕事でお近づきになれたにも関わらず現を抜かすなと思われるだろうか。
今度は夢野先生を盗み見る。失敗だ、目が合ってしまった。
「随分と帝統と仲良くなっていたんですね」
「あ、ええと……はは、懐いてくれてます」
次になんて言葉が降ってくるのだろうか。お茶の温度なんて考えられずに、湯呑みを握りしめて喉の奥に流し込んで熱さに悶えていると、思わぬ答えが返ってきた。
「夜の光ねえ……馬鹿猫の瞳を輝かせる光は、存外」
そう言って書き物をひと段落させた夢野先生は顔を上げ、私を見て微笑む。数度の瞬きのあとに、私は全てを悟るのだ。私と帝統の間に何か合ったことを夢野先生が知るに容易いやり取りをしてしまったのだと。
「いいですね、夜の光。でも、小生にはそれが貴方をどうさせているのかはわかりません」
「そ、そうですよね……」
「自分で未だに咀嚼や消化を出来ていないその言葉、大事にしてあげてください。いつかきっと、表現できる日が来ると思うので。そうしたら小生にも教えてくださいね」
「はい……あ、先生、私そろそろ会社戻ります」
夢野先生が帝統を呼んだ。競馬新聞を読んでいた帝統はすぐに腰を上げ、財布をズボンのポケットに押し込んだ。私も机上に広げた書物や筆箱をカバンに詰め込む。
その時、夢野先生の原稿用紙の右上に書かれた夜の光という文字からブレインストーミングのように線が伸び、私が発した深い青、淡い、蛍のような単語が並んでいた。その隣で唯一丸をつけられた文字を見て、私は思わず夢野先生に名探偵かと突っ込みたくなる衝動を覚えるとともに、あの人にはいつかこの感情を帝統とともに教えてあげたいと思い止まないのだ。
「全く貴方、勝負師なんですから何度も指先を火傷しないでくださいよ」
「保冷剤握ってるから大丈夫だって」
きっと帝統と自分が近しい感情を互いに抱いていて、互いにそれがなんなのか分からない一夜だったに違いない。
でも、私があの日みた景色を忘れないでいたからきっと気付けたことだろう。仕事中に、小説家の力を借りてその感情に気付くなんてと情けなくなるこの気持ちもきっと自分のものに違いない。何度でも繰り返すようだが、私は、私たちは夢野先生に頭が上がらないのだ。
鉄は熱いうちに打ったほうがいい。夢野先生の家を帝統と二人で出て数歩目であのさと声を上げたのは同時だった。お先にどうぞと帝統に譲る。
「仕事終わったら、お前の家行っていいか」
「うん、……あの、私も仕事帰りに会えるって聞きたかったから、一緒」
もうそれ意味ないんじゃないと、汗をかきぐにゃぐにゃになっている保冷剤を指せば、帝統は私にそれを押し付けるのだ。捨てなよと言いながら受け取れば、お前の家の冷凍庫に入れておいてと言いながら彼は忙しないシブヤに飛び込んでいく。
「なにこれ、おっかしい」
夢野先生の家で書いたのだろうか、保冷剤には油性マジックで『俺の!』と殴り書きしてあった。
帰社途中にスマホが振動した。数分前に帝統から残業になるなら教えてのメッセージと、夢野先生から今届いたメッセージが一件。どうやら次は、恋愛小説に挑戦してみるらしい。
(200519)