ため息ごと彩度を上げて




「お前は面倒臭くなくていいな」
 情事を終えた帝統が窓際で煙草をふかしながら呟いた。名前が出たとはいえ帝統の独り言なのか、それとも名前から何かしらのアクションを帝統が欲していたのかは定かではないが、名前としてはいよいよ言われてしまった最悪の一言に過ぎなかった。そりゃそうだ、彼氏でもない素寒貧ギャンブラーに食住を提供し、お望みならば身体まで許してしまっているのだから。
 素寒貧な割には背丈に十分すぎる体重であると聞いたが、いざ目の当たりにしたら若い肌と腹部や胸部のほどほどの、引き締まりからなる起伏に思わず名前が赤面したぐらいには、有栖川帝統は金には恵まれないがそれ以外の富は有り余っているように思えた。だからこそ、名前は自分よりいくらか年下の帝統の世話を焼くことを苦とまで感じていなかった。帝統には金すらないが、若く、整った顔立ちに引き締まった体躯、ラップスキルがあったし、それに加えFling Posseのメンバーの一人である。名前にとって何よりも都合が良かった。
 お互いそんなことは口にせずとも、それだけで成り立っている関係なのは暗黙の了解だったはずだ。しかしだからと言って、何も情事後にそんな一言で片付けてしまわなくてもいいではないか、名前は不覚にもそんな考えが、嫌な感情がふつふつと腹の底から湧き上がる感覚を覚えてしまった。こうなった人間は本人の気が済むまで収まることを知らない。不機嫌の自己回収は出来ても、瞬発的な起爆は幾つになっても直せる気がしない。
「じゃなきゃ、毎日私なんかのところに来ないでしょうね」
「私なんかって、……怒ったか?」
「全然。そうそう、私さ、結婚するんだよね」
 こんな形で、帝統にお披露目したかったわけでは決してない。帝統が繋いでくれた縁で、名前の務める小さなジュエリーブランドは飴村乱数とコラボにまでこぎつけたのだ。尊敬する先輩が独立し、一か八か勤めていた会社を辞めて数年、漸く大きな企画を成功するに達したのだ。予約開始直後に予定数を迎えソールド、ホームページがサーバーダウンまでしてしまった裏で社員は泣きながら喜んだし、一緒に見守ってくれた乱数も驚きの表情を隠せなかった。
 真夏の夜中に拾った帝統が結んだ縁は、大きかった。おかげであの後も乱数とは会社共々良い関係を築けている。乱数もジュエリーのデザインはいつか挑戦したかったとも言ってくれていた。何より帝統に、お前も人生をかけたギャンブルしてるんだなと笑われた時こそ一緒にするなと思った名前ではあったが、感謝の気持ちでいっぱいだった。
 だからこそ、乱数と名前は販売まで帝統には内緒にして驚かせようと話していたのだ。乱数との約束まで破ってしまって、嘘の口実にこの指輪を使ってしまって、名前は直後に酷く後悔した。この罪悪感を覚える一歩前に、何故もう少し思慮出来なかったのかと頭が痛くなる。チラリ、見上げれば帝統の表情は特に崩れることなく、祝いと名前に対する意外性を述べるのみだったのだ。
「……へえ、ってことは、俺間男じゃねぇか? お前も火遊びするんだな」
「わ、私だってあんたよりいくらか年上だし、酸いも甘いも噛み分けてきた、つもりだし」
「ま、とりあえず今日は寝ようぜ。名前も明日朝早いんだろ?」
 期待していたわけではない。ただ、名前が思うよりも帝統の反応が虚しいくらいに淡白に思えて、口から溢れてくるのは虚勢ばかりだ。幻太郎のように、まあ全部嘘ですけどとその一言が言えたらどんなに楽だったか。とはいえ名前も心のどこかで、いい年した女がまるでヒモのような男をいつまでも家に置いておくわけにはいかないのではと思っていたのもまた事実である。このタイミングは、互いのための好機だ。そう考えないと、この身体のどこからきているのかも分からない不安も虚しさも、払拭出来なかった。
 朝が早いのは事実だ。帝統も明日は新台導入で抽選がなんだと言っていたが、名前よりも後に帝統はこの家を後にするだろう。帰ってくるかもわからないがとりあえず鍵はポストにでも入れておこう。いつも通り帝統は左腕を名前に差し出し、慣習化されたようにその腕枕に首を預ければ帝統は抱き枕のように足を絡めて、一瞬で寝落ちする。その安心しきった横顔を見て、今日も自分は負けてしまったと名前は思うのだ。


 いよいよ明日、乱数とコラボしたリングのリリースが始まる。予約から今日までの一ヶ月、最終チェックを同僚や乱数と根つめてきた日々も一旦落ち着くことだろう。会社で朝日を浴びた日も数日あったが、それも今日で終わりだ。ネット予約分の在庫を最終チェックし、明日以降の配送についての集荷など配送業者とのやり取りも終えた。ごくごく小さい会社のため、こんなに自分たちでやることが多いのかと戦慄した一ヶ月前。しかしここまでのやりがいを覚えたのは初めてだと、名前は心の奥底から喜びを噛み締めていた。
「……よっし、これでおっわり〜! 本当にお疲れ様、名前!」
「いやいや、本当に乱数には頭が上がらないよ……社長も毎日嬉し泣きしてたぐらいだし」
「はは、大袈裟だな〜、僕もみんなと仕事できて楽しかったし、自分の限界にも挑戦できたしこちらこそありがとね」
 仕事中の乱数は、あのFling Posseの乱数とは全く別の顔を持っていた。いつだってファッションの最先端を生きる乱数がとにかく動きやすい服装を重視し、髪もボッサボサになりながら二徹した日にはプロだと思わざるを得なかった名前である。色々な人の手を借りて間も無くリリースされるコラボリングは、名前の中でも永遠の宝物になるだろうと、目の前にある最終チェックを終えたサンプルがいやに輝いて見えたのに、手放しで喜べる感情を持ち合わせるには足りないものがあることを思い出してしまったのだ。
 ふと思い出したのは、帝統のことである。約一ヶ月前に乱数との約束を破り見せつけてしまったサンプルリング、さして動じもしなかった帝統の反応、明け方名前よりも早く起きて枯れそうな声でごめんなと呟いた帝統が名前の頭を優しく撫で家を出ていったこと。寝ぼけていたけれど、名前は決して夢ではないという自覚があった。
「名前、この後チゲ鍋食べに行こうよ! 僕もうお腹ペコペコ」
「そうだね、行こっか。でも乱数、お姉さん見つけるとすぐそっち行っちゃうから一人になるの嫌だな」
「あはは! みんな帰っちゃったし、関係ないけどお腹空かせてる帝統でも誘う? あ、……」
 乱数が帝統の名前を口に出した瞬間、今までの笑顔を忘れて何かを思い出したようだ。その瞬間、名前も乱数への謝罪を思い出した。何度も反芻した言葉がうまく出てこない。乱数はきっと怒りはしないだろうけど、彼のワクワク感を奪ってしまったことには変わりない。何故帝統のために自分がこんな思いをしなければとも思う名前だが、いい大人が犯人探しをするのは気がひける。
 素直に一言、謝ればいいだけだ。その背景に何があったのか、乱数なら話してもいいしそんなに気にしていないようならばその事実だけを伝えるのみだ。
 名前はこの数ヶ月で、破天荒とも思える乱数に対し絶大なる信頼を覚えていた。必要なヒントをくれ、たまにはうちの末っ子がいつも世話になってるけど愚痴はないのと吐かせてくれる優しさも伺うことができた。吐きそうな業務を二人で終えた時には、名前は僕の三人目のポッセだよと破顔してくれて、思わず泣いてしまったこともあった。
 意を決して口を開く。タイミングが悪く、乱数と被ってしまった。
「帝統、全然連絡取れないんだよね、二週間くらい前から」
「ごめん乱数、私帝統に色々あって指輪見せちゃったの」
 数回の瞬きをしつつ、お互いの目を見合う。思わず二人してキョトンとしてしまった数秒後、先に口を開いたのは乱数だった。
「名前のことだろうから、帝統と何かあって見せちゃったんでしょ?」
「うん、喧嘩?しちゃって」
「僕はうちの帝統が名前を傷つけることしたんじゃないかって、そっちの方が心配」
 名前を気にかける乱数の瞳はあまりにもまっすぐで、不安を孕んでいて、よほど乱数を好きになってしまった方が良かったと思ってしまった瞬間に、名前はようやく気づいてしまったのだ。
 都合がいいなんて、自分の気持ちに蓋をする口実と強がりでしかなかった。目の前にこんなにも優しい男がいるにも関わらず、仕事の合間に思い出すのは帝統のことばかりだ。思い出してしまうと、苦しくなる。悔悟に苛まれて吐きそうになるのだ。
 帝統は名前の前では、一ミリも遠慮なんてものをしなかった。必要な時に頼り、不要な時は一人で気ままに過ごし、名前を振り回している自覚もないまま存在感だけを名前にあっという間に根深く植え付けてしまった。名前は普通の恋愛をそれなりにしてきた。相手に嫌われないように多少の遠慮をしたり、世話を焼いてやったり、時にはプライドが邪魔して素直になれずに苦い経験を覚えながら相手とやがて平等な関係を築く。ごく一般的な段階を踏めば、どのカップルだって最終的には家族のような安心感を共有できるようになる。
 そう信じてきたにも関わらず、帝統は例外であり異例であった。名前の信じてきた経験というものが通用しなかったのだ。だからこそ、帝統の自身に対する態度に、名前は全く期待が持てずにいた。そもそも、付き合っていない所謂利害の一致で半年を過ごしてきて、妙な歩み寄りを覚えてしまったのは名前の方である。遠慮をし、世話を焼いた見返りは乱数との仕事や時には幻太郎宅での談笑。それで十分すぎたはずなのに、あくまでも名前は腹の底で帝統からの見返りを求めていたのだ。そのことに気づくには、あまりにも遅すぎた。なんて可愛げのない女だろうか、羞恥と悔悟ばかりが名前の足元からぞわりと這い上がり、胃が熱くなる。熱すぎて、目眩がして、吐きそうになった。
「名前、大丈夫?」
「なんか色々考えちゃって、気持ち悪い。ごめんね、ありがとう」
 トイレに行くと伝え、スマホを握り部屋を後にする。乱数の心配そうな顔を振り切り、思わず個室でしゃがみこんだ。
 せりあげてくるものは、正直何もない。胃の中は空っぽだ。吐き出したくてたまらないのは、五臓六腑のどこにも詰まってないし、それは決して脳の中にあるものでもない。このぐちゃぐちゃになってしまったものを詰め込み蓋をしてしまったそれは、この身体の中にはなかった。よくも半年間、一ミリもその片鱗を見せずに帝統と過ごせたものだ。自分を褒めてやりたいとすら思う名前が便器に向かって吐いた言葉は、苦しいの一言のみだった。一瞬で楽しかった日々が目まぐるしいぐらいに脳裏に浮かぶ。同時に、自分が自分じゃなくなる感覚を日々覚えていた。どうしようもないなと自嘲し、扉を背にズルズルと腰を下ろし手で顔を覆う。涙こそ出てこなかった。名前自身に対する呆れがあまりにも大きく、手に負えなかったのだ。
 とはいえいつまでも便器を抱えてしょげている場合ではない。乱数が心配しているからまずは事務所に戻らなくては。
ここがトイレであることも構いなく、深呼吸をして乱数の元に戻れば、思わぬ光景が広がっていた。
「え、夢野先生……じゃなくて、乱数、先生といえど部外者は入れちゃダメでしょうが」
「麿は部外者でおじゃるか〜、悲しいことを言うんじゃのお名前は、シクシク」
「あはは! 幻太郎がご飯どうだっていうから来てもらっちゃった! 名前、具合は大丈夫?」
「大丈夫とは言い切れないけど、まあなんとか。ごめんね」
「名前、明日休みなら潰れてもいいように俺の家でチゲ鍋するかい?」
 トイレから戻った名前にとっては目まぐるしい展開だった。引きずるわけにはいかなかった渦巻いた感情を払拭してくれた二人は、紛れもなく渋谷の代表に相応しいとすら思える。何より幻太郎が俺と言ったことに、名前は驚いた。今まで何度か幻太郎と話してきた名前だが、俺と言う一人称だけは聞いたことがなかったのだ。帝統や乱数が、幻太郎は真面目な時だけ俺とか言うんだよなと呟いたことを思い出す。名前がトイレから戻る数分で乱数と幻太郎が何を話したかを聞くつもりはないが、幻太郎までも自分を気にかけてくれていることに名前はただただ嬉しかったと同時に、こんな仲間たちが側にいる帝統を羨ましくも思う。
「じゃあスーパー寄って幻太郎ん家行こー!」
「今日は人数が多いですからね、荷物持ちよろしくお願いしますよ。バカ猫の分もありますから」
「帝統、夢野先生のところにいるんですか?」
「ここ数週間は見かけていませんが、まあ多分、今日は来ると思いますよ」
 妾は帝統はんと前世で結ばれていたので分かるのでございますよ。そう幻太郎が呟けども、突っ込んでくれる張本人は此処にはいない。
 事務所の鍵を閉め、明日朝一に出社するであろう社長のために外の植木鉢の下に鍵を隠す。全くもって物騒だと名前は思わずにはいられなかったが、ふと自宅の郵便ポストに鍵を入れてから出社している日々を思い出し、人のことは言えないと自嘲してしまった。癖はなかなか治らないもので、この一ヶ月欠かさずポストに鍵を入れて出社するものの、帝統は一度もそれを使わなかったことを思い出す。ちょうど一ヶ月だ。明日からこの癖をどうすればいいのだろうか。名前が乱数と幻太郎の後ろをぼんやり歩いていると、ピンク色の髪の毛が視界にぴょんと跳ね上がる。
「ねえ、雪降ってきたよ! ますます鍋が恋しくなるね!」
「急に気温が低くなりましたからねぇ、今シーズン初でしたっけ?」
「私、渋谷で雪見るの初めてかもしれない」
 事実、名前が渋谷に越してきたのは今年の春だ。毎朝の通勤ラッシュに耐えられなくなり、住居を渋谷に移してからあっという間に半年以上が経った。
 夏に帝統を拾い、すぐに乱数や幻太郎と打ち解けてから初めて見る雪。名前が昔家族と旅行先で見た雪景色には劣るが、イルミネーションに混ざる雪は渋谷の人々を喜ばせた。ところどころから高揚した人々の声が聞こえる。
 帝統は、どこで何をしているのだろうか。こうしてすぐに気まぐれギャンブラーのことを考えしまうことを、名前はようやく甘受することが出来るようになった。名前は、有栖川帝統のことが好きである。こんな一言を認めるために随分と時間がかかってしまったうえ、如何に自分の気持ちを大事にしてやれなかったのか。だが、幾らか肩の荷が降りたような感覚もそこにはあった。
「此処に帝統も、居てほしかったな」
「……全く、名前は小生に似てしまったんですかねぇ。強がりの嘘つき、キャラ被るのでやめてください」
「だってさ名前、ま、僕はどんな名前も好きだけどね!」
「はは、ほんと。帝統の前でも保てるかな。……雪結構降ってきたし早く鍋しよ!」



「まだまだお酒がたーりなーい! コンビニ行ってくる!」
「乱数、雪積もってますから気をつけてくださいね」
「はいはーい!」
 間も無く日を跨ぐ。雪は降り止むことなく、渋谷では珍しく足元に積もり始めて居た。踏みしめればキシキシとした感触を与え、足跡を見事なまでにはっきりと見せつけてくる。
 幻太郎宅で酒とともに鍋を囲み、まずは乱数と名前の祝賀会。その後はいつも通り、納期や締め切りのある仕事についての愚痴だったり今後のビジョンだったり、聞いていいものなのかと思った名前だったがFling Posseの仕事だったり各ディビジョンとの交流についての話で盛り上がり、気づけば今日という日も終わりを迎える。乱数がどこかのホストの真似をすれば、酒の入った幻太郎は随分とわざとらしく其奴は妾を苛めるのじゃと泣き真似をして見せた。
 元気よく乱数が出て行き、腹も十分に膨れた幻太郎と名前は鍋の片付けを始める。幻太郎が食器を洗い、名前はキッチンまで食器を運び、テーブルを拭き乱れた座布団を整える。廊下を挟み、遠くで幻太郎がカチャカチャと食器を洗う音だったり座布団だったりを見て、思わず小さい頃に祖父母宅でした手伝いを懐古させられた。あまりに忙しい毎日で、両親にも仕事のことについて連絡をしていなかったことを思い詫びた名前は、明日にでも連絡を入れてみようと何とは無しに数時間ぶりにスマホを取り出す。ここ数日は通知すら煩わしく、主要な人間以外からの通知は全て切っていたためにいつの間にかメッセージアプリの未読通知数が膨れ上がっていた。時期的に忘年会についてだろうとアプリを開けば、案の定である。これも明日返事をするかと流し読みをして、思わず手を止めた。
 帝統から、四時間前からメッセージが入っていた。目視した瞬間に、体は思わず静止したが体内の臓器が急激に沸騰したような感覚を覚え、顔に熱が集中する。心臓が急激に煩く鼓動し、自然より必然的に深呼吸をしてしまった。頭がフル回転して、たった一言送られてきたメッセージのために全神経を集中してしまった結果、名前は幻太郎に呼ばれていることに全く気づけずにいた。今日に限っては業後、頭の隅に追いやることが出来ていたのに四文字にこんなに踊らされてしまうなんてみっともなく、苦しく、嬉しく、こんなにも可哀想だと思うことはない。
「会いたい、ですって。まあ、帝統はんったら」
「ゆ、夢野せんせ、すみません片付けしてたのに」
 片付けはさっさと終わったから大丈夫だと微笑んだ幻太郎は、思わず名前の頭をくしゃりと撫で上げる。瞠目した名前をみて一笑した幻太郎は言葉を続ける。
「泣きそうな顔をしていたもので思わず。……帝統は、ここ半年特に日々を謳歌していたように見えます」
「……帝統は、よくわかんないです。帝統って面倒ごとは嫌いだし、何考えてるのか、いまいち」
「でも、好きなのでしょう?」
 その通りだ。今までぐるぐると思い悩み数時間前にやっとの思いで出した答えを幻太郎が簡単に口にしたので、名前は微苦笑を隠せない。
 名前にとって帝統というのは自由の象徴である。帝統が自由を統べるならば、自分の全てを帝統は司っているのかもしれないとも、振り回される日々の中で名前は思量することが度々あった。思慕の対象である人間を手放しで好きだと公言し、たまに思い悩み、もしかしたら振られる未来があっても尚、恋愛ということに対して前向きになれるような歳ではなくなってしまったことが名前をここまで懊悩とさせた原因だろうか。それとも相手が先も見えないギャンブラーだからか、もしくはつい最近成人したばかりの年齢だからか。指折り数えてもキリはないが、名前はやっとの思いで答えを出した。これ以上、自分を可哀想な目に合わせてやりたくなかったのだ。
「名前、帝統って貴方が思っている以上に素直ですから。考えすぎです、あんなに喜怒哀楽がわかりやすい男そう居ないですよ」
「多分、あんなギャンブラーに振り回されたことが赦せなかっただけかもしれないです。……私は帝統が好きです」
「やっと笑った。ほら、鍋の残りを持ってお帰りくださいまし。帝統、この前小生が帰るまで三時間玄関に座ってましたから、多分名前の帰り待ってますよ、雪の中」
 台所に戻りながら幻太郎が呟いた内容に、思わず身震いしてしまう。外の凍てつく寒さを身体が覚えているのだ。
「……嘘ですよね?」
「帝統ならそのぐらいすると思うよ、帝統は名前のこと大好きだもん!」
 気づけば帰宅していた乱数が名前を鼓舞する。
 思わず緩んでしまった頬をピシャリと叩いて、まるで戦に行くかの如く気合を入れ直した名前は幻太郎からお土産を受け取る。後片付けもちゃんとできなくてごめんねと置き去りにした言葉に幻太郎は、次来るときの惚気話でチャラにすると手を振り、一方で乱数は名前に明日一応職場行くからと声をかける。外はこんなにも寒いのに、あの空間も、言葉も、振り向きざまに見た二人の表情も、何もかもが暖かくて名前は心から励まされていると感じざるを得なかった。
 名前にとって、帝統からどんな返事をもらえるかなんてことは最早どうでもよかった。この気持ちから解放されて楽になってしまいたい、確かにその気持ちも少なからず持ち合わせているが、今はただ帝統と目を合わせて全部吐露してしまいたかった。それで断られても、それはそれで構わない。今は自分だけではなく、乱数と幻太郎が後押ししてくれたこの気持ちを一番大事にしてあげたい。可哀想な自分でいることを、名前はもうやめたかった。
「……さて乱数、追い酒しましょうか。ていうか、名前のこと送るって言うかと思いましたが」
「ああ、その仕事は帝統に任せないとじゃん! 途中で会えるんじゃない?」
「それは予測なのか、仕込みなのか……」



 幻太郎の家を飛び出したはいいものの、思えば帝統が名前の家にいる確証なんてものはなかった。四時間もの時間が空いてしまっているのだ。すぐに帰ると返事はしたものの、その間に賭場に移動しているかもしれないし、なんならこの天気では他の人を頼っているかもしれない。そう考えた途端、脳裏にどこかの女性の家でくつろいでいる帝統の姿が悲しいかな、容易に想像できてしまった。自分で自分の首を絞める癖はいい加減にやめないと、気づいた頃には今よりも拗らせた女になってしまう。
 この雪ではタクシーが捕まるはずもなく、普段なら幻太郎の家から十五分も歩けば帰宅できるのにまだ半分の距離しか歩けていない。ブーツに雪が染み込み、ただでさえ冷え性な足先の感覚は既に奪われていた。
「どうしよ、寒い。帝統出るかな」
 コンビニの明かりを頼りに、悴んだ手でなんとかスマホを取り出して、ためらいなく帝統に電話をかけようとした瞬間に、着信の画面に切り替わった。表示は、有栖川帝統である。自分がかけるときとは比べものにならないぐらい、心臓が跳ね上がった。急いでボタンをスライドし、耳元にスマホを当てる。
『もしもし』
『お前今どこいんだ? お前ん家の前で待ってたけど帰ってこねーし、乱数に連絡とったらとっくに幻太郎の家出た、っつーし……』
 次の瞬間、名前の視界は一瞬にして真っ黒になった。思わず鍋から手を離してしまいそうになったけれど、まさか明かりがわりにコンビニの前に立っていたら、電話の相手がコンビニから出て来るとは、そんな偶然あるだろうか。
 一瞬だけ名前の視界に映ったのは、ひどく焦燥した帝統の顔だった。ものすごい勢いで抱きつかれ、手元の鍋が帝統の腹部を直撃した。あまりの急展開と、腹部を抑えながら悶えている帝統の頭頂部を見て名前もいよいよ笑いを堪えきれなかった。
「ツッコミどころが追いつかないんだけど」
「……俺はそれより、話してぇこと山ほどあるわけだけど。……家、上がってもいいか?」
「私も、話したいこといっぱいあるよ」
 しゃがんでいた帝統が立ち上がり、鍋と交換でホカホカのココア缶を渡された名前は手のひらで転がして指先の感覚を取り戻す。こんな雪の日に鍋なんか持たせて歩かせるって、あいつら何考えてるんだと帝統はブツブツと愚痴をこぼすが、今の名前にとってはその愚痴の内容さえ本当は嬉しくてたまらなかった。
 久々に並んで歩くと、帝統はこんなに背が高かっただろうかと名前は思わずにはいられなかった。暫く離れていたからこそ、歩幅を合わせてくれていることも、思い返せばいつも重い荷物を持ってくれたことにも、他愛のない話をするときでもきちんとこちらを見てくれていることにも、気づいてしまった。
「手袋は?」
「夢野先生のとこ、忘れてきちゃったみたい」
 早く回収しないと、あいつこれから修羅場だから見つからなくなるぞ。そう笑いながら名前の手をコートのポケットに誘い込むような帝統を今まで知らなかった。見慣れたコートのポケットで名前と帝統の指先は数秒の戸惑いの果てに、自分勝手な男によってしっかりと握られ、それから家までの数百メートル、名前たちは無言で足を進め続けた。



 名前の自宅に着く頃には、深夜一時を迎えていた。順番にシャワーで足を温め部屋着に着替え、帝統のために鍋を温めなおす。何から話せばいいのだろうか。帰宅途中から考えていたにも関わらず、結局話の優先順位をつけることすらできなかったのは寒さで頭が麻痺をしていたからか、はたまた初めて帝統に外で手を握られ動揺してしまったからなのか。沸騰直前の鍋をぼんやりと見つめていると、帝統が部屋に戻ってきた。
 先に口を開いたのは帝統だった。腹減った。緊張感のないその言葉に、名前の口角は緩んでしまった。
「夢野先生が、帝統のことだから平気で外で待ってるだろうって」
「おー、待ってたぜ。さみーし、スマホの充電やばかったし、一旦コンビニ行こうと思ったら乱数から連絡きてよ」
「なんで、鍵使わないの?」
 小鉢に鍋の具をよそいながら、名前は素直な疑問をぶつける。しばらく返事はなかったが、温かいお茶を入れようとその場を離れようと立ち上がれば手首を掴まれた。左手に箸、右手に名前。欲張りな男だと少々呆れたがあまりにもしっかりと握られていたので大人しく坐り直す。
「お前が、結婚するだの言うからだろ」
「嘘だけど」
「お前までそれ言うか……冷静に考えりゃ、嘘だってわかってたんだよ。ずっと忙しくしてたし家帰っても仕事してて、半年間ほとんど一緒に寝ててそんなわけあるかって。指輪も、乱数とのコラボ作品なんだろ?」
 帝統はいよいよ箸を置いて、掴んでいた名前の右手を離し手を繋ぎなおす。すっかり温まって、今度は汗ばんでしまうぐらいだ。思わず名前は帝統の頭に手を伸ばした。少しばかり濡れていて、本当にあの寒い中、雪も気にせずに待っていたのかと思うと申し訳なさで胸を締め付けられたが、それ以上に喜んでしまったのは罪深いだろうか。
 名前はそのまま帝統を胸元に抱き寄せた。頭より先に身体が動いてしまったのは口実にして、今は自分だけの帝統であってほしい。自由を統べる帝統は誰のものにもなり得ないし、なって欲しくない。けれど帝統自身の中で、自分を特別な存在にさせてはくれないだろうか。優先順位の一番にギャンブルとFling Posse、他に自分が知らない大事なものがあるならばそれに三番目を譲ってやってもいい。この際最下位でもいいのだ。ならば一番最後に頼ってほしい、有事の際にどうか自分を思い出してほしい。そうして、いつか有栖川帝統としての人生を終えるとき、一度でいいから私の名前を呼んではくれないだろうか。これを言葉にしたら、帝統は嫌がるだろうか。
 この穏やかとは言えない、深すぎる思慕を、自分のこの行動で一ミリでも汲み取ってはもらえないだろうか。あまりにも傲慢だとわかってはいた名前だが、とめどなく溢れてしまう感情に名前をつけるならば、分かりやすい一言にして伝えなくてはならない。そのために、乱数と幻太郎に背中を押してもらったのだ。
「名前」
「あ、ごっごめん……」
「俺、名前が好きだわ」
 嘘をついていたこと、鍵を使わなかったこと、色々と事実確認を一つ一つして最後に自分の気持ちを押し付けるつもりだったのに随分と最短距離で先を越されてしまった。名前が、喉から手が出るほど望んでいた言葉だ。飾り気もなければ臆することもなく、自信満々の顔で名前の頬に手を添える帝統はこれを無意識でやっているのだろうか。
 名前が数度瞬きをし、その言葉を反芻し始めたころに一気に胸の奥からとめどなく感情が溢れ決壊して、ぼろぼろと涙が溢れてきた。何度帝統がそれを掬っても、とどまることを知らなかった。
「ひっ、ぅ……ごめ、なさ……嘘、ついたっのに、冷たく、した、のに……」
「俺も無神経なこと言ったし、おあいこだろ? ……名前、俺でいいのか?」
「っ、帝統じゃなきゃ、……やだよ」
 名前が顔をあげれば、瞠目した帝統の表情が徐々にふやけ、赤みを増していく。帝統のその様子を見て、自分が科白した言葉を思い返し気恥ずかしくなってはしまったが、この素直さが自分には必要だったのかもしれない。
 帝統は、幻太郎の言う通り喜怒哀楽が顕著なのだと、再認識した。今までなぜ気づかなかったのか。思慮すれば、あまり帝統の顔をちゃんと見ていなかったのかもしれない。何故か、おそらく彼と出会った頃から自分の知らない心の奥底で慕い始めていて、気づかない振りをしていたのかもしれない。
 今だからこそ、一つ一つ紐解いていくことができるのだ。余裕というものはやはり常に持ち合わせているべきだ。金にも、時間にも、心にも。
「め、飯!鍋!食おうぜ!!」
「お、お茶入れるから!食べてて!」
 立ち上がり、カーテンを閉めていないことに気づいて窓に近寄ると雪は止んでいたようだ。
「帝統、雪、止んだよ」
 名前が振り向き声をかければ、豚肉を頬張りながら腰を上げた帝統も窓辺で空を見上げた。相変わらず空気はひどく冷えて鼻の奥を痛めるが、清々しさを感じる。
「明日イベントだからな、雪降ってねーだけマシだな」
 この男が基本的にギャンブルのことしか考えていないと名前も認識しきっていたが、あれ一等星だなと目を輝かせる幼気な横顔を見て、口にせずにはいられなかった。
「帝統、好きだよ」
「?! お、おぉ……」
 お前今、新しい遊び見つけたって顔しただろ。悔しそうな顔をした帝統が、名前の頬にぶっきらぼうにキスをし、あっという間に再び鍋に吸い寄せられていく。
 明日は私も早く家を出よう。店頭販売分のコラボリングもあるから、その準備もしつつ、乱数に今日のことを話したら喜んでくれるだろうか。
 カーテンを閉め、自分の名前を嬉しそうに呼ぶ男に茶を入れることを思い出し、名前はキッチンに戻った。


(200113) 身内企画提出
(200304) 加筆修正




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