オリエンス
病室の窓際で外を眺めている彼女を、陽の光が縁取るように見えた。それなのにどうも顔が浮かばないように見えるのは、鼻筋から頬にかけてあてられているガーゼのせいか。
俺の来訪に気づいた彼女がパッとこちらを見て、こんにちはと挨拶をする。未だ俺の挨拶はぎこちないような気がするが、彼女はお構いなしにニコニコとしているので俺の考えすぎかとも思える。
もう三十路も前で何年も営業をやっているくせに、仕事関係ではない初対面の人間との距離の詰め方が分からないでいるのはどうかと自分でも思うのだが、同居人が真逆を行くタイプなので均衡を取るためにこうなってしまったのか。原因はわからないが、チームを組んでからは各ディビジョンの人間とも話す機会が増えので、まあ、マシになった方だろうか。
「お疲れ様です」
「あ、ありがとう……具合は、どうなんだ?」
「ガーゼ取れたら、退院しようと思うんだ」
彼女と出会ったのは、俺の確認不足に過ぎなかった。
三週間ほど前から仕事で都内のこの病院に立ち入るようになった際に、院長と話しながら広い院内を簡単に説明してもらった後で機器を搬入する部屋の確認をするついで、頼まれごとをされた。久々に契約成立させてもらったことで思わず舞い上がっていたら、本来なら断っていいような雑務を最後に押し付けられてしまったのがことの発端である。
院長のお気に入りの看護婦がなかなか休憩に入れず、一緒に昼食を取れないことに業を煮やしていた院長が看護婦の仕事を、帰り道だろうから三〇四号室にシーツを置いてきて欲しいという内容で俺に振ったのだ。もちろん看護婦も困惑していたが、これ以上情けない顔をした院長を見たいとも思わず、明日からの入院患者のベッドの上に置くだけならとのことで引き受けたのだ。個室らしいから、ベッドを間違えることもないだろう。
ああ、どこの会社にも病院にもああいう奴はいるんだな。いや、もしかしてあの看護婦の手伝いをしないほうがよかったんじゃないか、どう考えたってあのハゲ院長と食事なんてしたくないだろう。だとしたら俺が手伝うことによって、彼女は逃げられなくなってしまったんじゃないだろうか。またやってしまった、いつも俺の行動は裏目にでる、どうせ俺は何をやってもだめな男なんだ、俺のせいだ、俺のせい
「あ、え……」
「……どなたですか?」
反射的に身体を折り曲げてすみませんと勢いだけの謝罪を繰り返す。やっちまった、患者いるじゃねぇかあのハゲと思わずにはいられなかったが、いつまでも頭を下げて立ち尽くしているわけにもいかないのでそろそろと顔を上げると、苦笑いをした女性がこちらを見つめていた。
「す、すいません。あの、ここ三〇四号室じゃ」
「そうですけど、……あ、A棟と間違えてませんか?」
「!……そうだ、俺はA棟から入ったんだった。……本当に申し訳ございません、失礼しました」
「待って!」
正面入り口のA棟の後ろの建物が、おそらく俺が今いるB棟だ。院長たちと別れた後、いまいちこの病院の造りを把握していなかった俺は正面入り口とは真逆の方向へ歩き始めてしまったらしい。そのタイミングで考え事を始めてしまったので、二棟あることを完全に失念していたのだ。
様々な要因で入院をしている患者達からしたら、こんな冴えない陰気な顔をしたリーマンがいきなり病室に入ってくるなんて、ただの恐怖でしかないだろう。これは一二三が病室に入ったときに、嫌という程痛感したものだ。弱っているところに見知らぬ人間が逃げ場のない病室に立ち入って来たら、どれほどの負担になりうるか。それに、あの院長にバレたら契約破綻にもなりかねない。
とにかく、さっさとこの部屋を後にしないとと逃げるように右足を後ろに引いた時に、彼女に引き止められた。
彼女は一言、話し相手になってほしいと俺に申し出て来た。
彼女がいるB棟は精神病患者が多数いて個室も多く話し相手がいないこと。早いうちに両親の反対を押し切り、オオサカで仕事をしている男と結婚をしたが、蓋を開ければDV野郎だったこと。オオサカの高校教員で、生徒とも同期ともうまくやっていて、同期によって元旦那の依存に気づいたこと。別れるために、あえて顔を殴らせたこと。
どんな壮絶な人生を送っているんだよとも思ったし、初対面の男にそこまで話さなくてもいいのはとも思ったが、とりあえずはたまに相槌を打っていたら、一区切りついたところでいきなりこんな話をしてすみませんと今度は謝罪である。自分のことを知らない人間だからこそ、話せることがあるのだろう。俺も一二三や先生に言えないことを、理鶯さんに話したこともあるし、こんな俺がその立場になれるなら病室を間違えたことも何か意味があったのではないだろうかと、都合よくも考えるのだ。
これが三週間前の出来事だ。
「あの院長、その時も鼻の下伸ばしてて」
「ああ、容易に想像が出来るな……あ、そうだ」
一二三に彼女のことを話したら、じゃあこれ持って行ってあげなと林檎を持たされた。持って行く頃には黄ばむじゃないかと言えば、黄ばまないように処理してるから大丈夫と、タッパーをブランド物のハンカチで包むもんだから、こいつはこういうところが憎めないよなと思わずにはいられなかった。
林檎が苦手な人は俺の周りには居なかっただけの観測に過ぎない。彼女が林檎を食べられなかったなら次は好きなものを聞いて持ってこようと思ったが、それも杞憂だったようだ。
さっさとハンカチをほどき、タッパーを開けるとわあと声が上がった。林檎ぐらいでそんなに感動するかと思いタッパーを覗き込むと、葉っぱ、薔薇、マグロの握り、白鳥……バラエティに富んだ飾り切りが彼女の瞳を輝かせた。
「すごい!これ、観音坂さんが?!」
「いや、これは同居人が……にしてもすごいなあいつ、器用にもほどがあるだろ。はあ、ますます俺の取り柄の無さが際立つ……はぁ」
「観音坂さんはこんな私とお話してくれるじゃないですか、すごく嬉しいですよ。でも、同棲してるんじゃ彼女さんにご迷惑ですかね」
「え、そ、そうか……はは、それならいいんだが……あと、同居な。幼馴染の男だ、おっさんの二人暮らしだ」
そう溜息をつけば、彼女はおっさんと呼ぶにはまだ早いと笑った。すごい、これどう切ったらこうなるのかな。これ食べようかな、早い者勝ちでいいですか観音坂さん。彼女が笑顔を俺に向ける。
病院を出入りするようになってから、帰りは彼女の病室で二十分ほど話してから出るようになり、今日で三度目だ。彼女は距離を詰めてくるのがうまい。高校でも生徒達とこうやって距離をとって懐かれていたんだろうなと思うし、何より人と話すことが好きなのだろう。
一二三の煩さには慣れているくせに、シンジュクの喧騒も社内で聞こえる色んな人間の声音が混じった音も煩わしくて仕方ない。たまに患者が騒いでいる声が聞こえてくるが、基本的には静かなB棟で彼女が発す音階はひどく心地よかった。会社に戻らなければいけないので、長居できないのは実に残念だが、このぐらいの時間が心の休養をしている彼女にとっても丁度いいのは分かっていた。
こんな利害一致の関係も、間も無く彼女の退院で終わる。営業職の魅力には、こんな形の一期一会もあるらしい。
「アダムとイヴは、蛇にそそのかされて林檎を食べたらしいです」
「旧約聖書だっけか、それ以外は分からないけど」
「結果として、楽園から追放されたって。変な話じゃないですか、H歴の私達からしたら」
それって、神様が知恵の樹の実を食べた二人が自分と同等になることを恐れたってことでしょう。まあ、生命の木の実を食べさせないように追放したのは正解だったかな、不死ってのは私もちょっとなあ。
あまりにも暇で、聖書を読んだのだと彼女は呟いた。こういった話は先生となら盛り上がれるのではないだろうか、俺が返事に困っている間も彼女は林檎を咀嚼し続けていた。そういえば黄ばんでないですね、と彼女は訝しげにその禁断の果実とやらを見つめていた。
「恥ずかしながら、俺理系で、歴史はさっぱり」
「私も数学担当だから、さっぱりですけどね、でも」
私もこの二人に近しいのかなと思ったんですよね。私にとっての禁断の果実は、果実じゃないけど同期の言葉ですし、私が依存をしていたことに気づき同等になることを恐れた神は元旦那ってな具合で。でも、そそのかした蛇はもしかしたら私自身かもしれないですね。そそのかした代償で鼻折れたんで代償おっきいけど。
言葉にしたらちょっと整理できるもんなんですねと、自身の発言に瞠目した彼女はこんなにも強いのに、なぜ元旦那に依存をしたのだろうか。やっぱり俺は気の利いた言葉は何もかけられなかった。聖書の話なんて、人とするだろうか。理系の高校教員ともなれば、どうやって口にしたら相手に伝わるか、教壇に立つ前に練習するものなのだろうか。
気付きへの喜びも、勉学の励行もこんなに楽しそうでフレンドリーな彼女が、なぜ、依存をしてしまったのか。そこに踏み込むにはきっとまだ早いのに、間も無く俺たちはこの逢瀬を一期一会だったと片付けてしまうのだろう。
俺は無宗教だし、神もハゲ課長もブラックな会社も何一つ信用していない。信じられるのはチームぐらいのはずだったが、穏やかになれるこの空間の要因である彼女の口からこぼれる言葉たちは耳障りがよく、そんなわけで俺は勝手に彼女を信用し始めていた。
俺は、彼女に何ができるのだろうか。
「よく、頑張ったんだな……あ、いや、俺ごときが上から物を言うなって感じだよな、すまない」
「……観音坂さん、もう一度、言ってくれませんか」
震える声に気づき顔をあげれば、口元をキュッと結んだ彼女が、俺に懇願の眼差しを向けていた。だがそれもハッとした表情とともに直ぐにやめたようだ。
べつに彼女から感謝されるつもりもない。欲している言葉があって、それが俺からであってもいいのなら、いや、俺に言わせて欲しかったのかもしれない。思わず口走った先刻を取り消すように、それで少しでも彼女に寄り添えたなら、僥倖の一言に尽きる。
「頑張ったな、……辛かった、よな。その、俺に話してくれて、ありがとう」
「え、……へへ、ッあの、親の反対とか、押し切ったのもあった、から。なかなか、甘えられる人、いなくて」
その後、彼女は何度も涙をこぼした。その後で、ガーゼ濡れちゃったけどもういいかと、俺の前で初めてそれをとった。まだ腫れも残っていて頬の痣も治りかけだし、確かに鼻筋が少し歪んでいるようにも見えたが、慰謝料で治すし元々鼻低かったからラッキーかもとポジティブを突き通す。
「はは、一二三みたいだ」
「ひふみ?」
「ああ、また今度話すよ。早く退院できるといいな」
「うん。観音坂さん、またね」
そう言って病室を出てから、俺が彼女と会うことはなかった。
帰宅してから病室に一二三のハンカチを忘れたことに気づき、次に病院に行ったときにはB棟の三〇四号室は空き部屋になっていた。換気の為に数センチ開いていた窓から風が吹き、カーテンを揺らす。耳障りの良い音階こそ聞こえなかったが、気持ちのいい風だったような気がする。
一応病室を見渡したが、ハンカチは見つからなかった。一二三には申し訳ないが、もし彼女が持って帰っていたなら、あの偶然から始まった数日を、彼女も忘れないでいてくれるだろうか。なんて、相変わらず俺は気色の悪いことしか考えられないのかと悲しいぐらいだ。
繁忙期も抜け、定時で帰られる日が数日続いた。金曜日の今日を乗り切れば、土日が待っている。さっさと上がって家で酒を飲んで、明日は昼過ぎまで寝て、そう考えながら営業先から帰社し、タイミングよく降りてきたエレベーターに乗り込んだときだった。
「観音坂さん、落としましたよ」
「あ、すみま……! え、なんで」
一年前に無くした一二三のハンカチを差し出した彼女は、紛れもなく、あの彼女だった。
「契約社員で、今人事部に。本当に驚きました」
「それは、俺のセリフ、と言うか。でも、ハンカチ」
「いつか会えると思って、常に携帯していました。あと、お守りてきな?」
話し上手の彼女が、あの病院での日々よりもずっと嬉しそうに、照れたように笑ってみせる。
頬に痣もなく、有言実行で鼻筋も手術をしたのだろう。数学教員をこっちで続けるかと思ったとか、偶然にもほどがあるとか、とにかく話したいことが溢れ出てきて、八階に上がるまでにそんなことを聞けるわけもなく、俺は口走るのだ。
「仕事終わったら、飲まないか」
「はい、ぜひ!」
業後に一階で待ち合わせで。
そう笑顔で先に五階で降りた彼女を見送り、八階の自部署で俺も降りる。緩んでいたらしい俺の顔を見てハゲ課長が嫌味を投げかけてきたような気がするが、俺の耳には入らなかった。
ワードパレットより
指定単語:鼻筋、林檎、こぼれる
(200127)