メドゥシアナ




 嗚呼、なんて馬鹿で、可哀想で、不憫な兄だろうか。
 僕が敬愛してやまない一兄に、非の打ち所はない。誰にでも分け隔てなく接し、平等な愛を分け与えることが出来る聖人君子だ。まあ、碧棺左馬刻に関してはその範囲外らしいが、それは僕も知ったことではない。一兄が厭悪する人間に僕が心を許すわけもないし、興味もないのだ。それでも一兄がいつか仲直りをするのなら、僕はそれを受け入れるのみだ。僕の神様は、一兄だけなのだから。
 それに比べて定期テストですらまともな点数を取れず、たまに授業もサボる模範とはかけ離れた立ち居振る舞いを行うくせに、女性と面と向かって話すことにさえ緊張し、呼び出しをされても如何にも緊張した面で、毎度お決まりのセリフで女性たちから向けられた思慕を片っ端から断る愚兄の二郎。そんなことでよく高校生活を送れているなと呆れより先に感心すら覚えるのだ。
 そんな二番目の兄を、低脳だと罵る日々も何年目を迎えただろうか。
 だが、こんな兄にも最近気になる女性が出来たようだ。低能なので、それはあからさまだった。嬉しいことがあった時にはただいまからおやすみまでウザったい笑顔でだる絡みをし、かと思えば帰ってくるや直ぐに部屋に引きこもり、辛うじて夕飯のときに姿を現したかと思えば目尻を湿らせ、目を赤くして食卓を囲む。一兄がそんな様子の低脳を構うので、隣で僕も泣いてやろうかと思ったぐらいだ。
 そんな二郎は、ようやく彼女をカノジョと呼べるようになったらしい。
 僕が初めてカノジョに会ったのは、ゴールデンウィークだった。一兄と僕で仕事をする日だったから長話はしなかったが、小綺麗な女性だと思ったのは確かだ。高校生らしくはしゃいだりはせずに、ただたまに二郎と目が合えば嬉しそうに微笑み、三郎くんよろしくねと手を差し出された。ああ、こんな低能でも受け入れてくれて礼儀も持ち合わせた女性がいるのか、まあ二郎は顔は悪くないもんな。そんなことを思いながら、愚兄をお願いしますと頭を下げたことを覚えている。
 二回目にカノジョ会ったのは、夏だった。補講に出なければならない二郎に付き合い、そのままこの家で引き続き勉強を見てくれていたらしい。僕が図書館から帰宅すると、カノジョ一人が二郎の部屋にいた。久しぶりですねと声をかけると、そうね、暑いねと返される。細い首筋、ポニーテールでさらけ出されたうなじ、キャミソールが若干透けていて目のやり場に困ったので麦茶を出してやるとカノジョはありがとうと微笑んだ。二郎はカノジョを置いてアイスを買いに行ったらしい。
 三回目にカノジョに会ったのは、一か月前だったか。僕が中学校から出ると、門の前に立っていた。驚いて声をかけると、悲しそうな、悔しそうな顔をしてポロポロと涙を零した。二郎くん、他に好きな人がいるかもしれない。そう蚊の鳴くような声で呟いたカノジョに、別に一切の情を持ち合わせてはいなかったが場所が場所なのでとりあえず近場のカフェに入った。そんなわけない、あの低脳は毎日貴方の話をしてる。何か勘違いされてるのでは。淡々と、論理的にカノジョを落ち着かせた。あとは事実関係を一つ一つ確実に、同じ家で暮らしているのだからそんなことは朝飯前だった。二時間かけて説得すれば、ようやく笑ってくれた。少しだけ、可愛らしいなと思った。



「三郎くん、幻滅した?」
「なん、で」
 何故僕は今、カノジョに組み敷かれているのだろうか。ああ、説得があれでも伝わらず焦慮を感じ、怒りの矛先が僕に向いてしまったのだろうか。女性のことはよく分からない、それも年上の女性なんて相手にしたことがない。経験だけは歳を重ねないと得られないのだ、そういう事が僕はもどかしい。だから、一兄には一生追いつけない。神様には、手を伸ばしても届かない。
「三郎くん、勘違いしてるでしょ」
「何、考えてるん、ですか」
「何って、三郎くんのこと」
 可愛いなあ、欲しいなあってずっと思ってたよ。ズルズルと目の前のカノジョの口元から吐き出されるその言葉たちは生命を与えられ、蛇のように僕の腕に、首に巻きついてくるような感覚すら憶えた。身動きが取れない、指すら動かない。マイクすら、起動できないでいた。
「二郎くん、優しかったんだけどね」
「何が目的なんだよ、こんなことして、中学生相手に」
「こんな時だけ中学生って言葉出すのは、狡いなあ」
 ジリジリと距離を詰められる。僕の腹の上で、カノジョは尚、僕の手足と首に言葉で拘束をかけ続ける。
 ああ、可哀想な二郎。お前は、お前のカノジョは人間なんかじゃない。メドゥーサそのものだ。ヒプノシスマイクよりタチが悪い。カノジョは、マイクを通さずとも声音を調整し、一気に相手の情緒を握り、精神を脅かす恐ろしい言葉を顔色ひとつ変えずに吐き出して、蛇のように身体中に巻き付く。そんな女、よくお前が相手出来たな、二郎。きっと一兄の手にも負えないかもしれない。
「ヒッ……ッ、や、め」
「ああ三郎くん、過呼吸になってる姿も、たまらない」
 まあでも死なれちゃ困るから。その辺に置いてあったビニール袋を鼻と口に宛てがわれる。そのまま膝枕を促され、トントンと規則正しいリズムをカウントされて、やっと落ち着いた。
「三郎くん」
「なん、ですか」
「好きだよ」
 嗚呼、なんて馬鹿で、可哀想で、不憫な兄だろうか。
 兄は、このメドゥーサに騙されていたのだ。初めから狙いは僕で、僕に近づくために利用され、用済みになったらその過程をクシャクシャに丸めて、無かった事かのようにゴミ箱に捨てる。そんな女のために、あの低脳の優しさがぞんざいに扱われるのは弟ながら赦せなかった。
 二郎はどんな顔をし、哀しむだろうか。自分を馬鹿だったと追い詰めるだろうか。でもどうか、二郎、そんなことはしないで欲しい。
「あ……僕は……僕、は」
 なんて惨たらしくて、残忍で、倫理観すらない女なのだろうか。
「大丈夫だよ、三郎くん」
 その声に、瞳に、ひどい安堵感を覚えたのは、何故だろうか。

 嗚呼、なんて馬鹿で、可哀想で、不憫な僕だろうか。


(200119)



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