アスファルト、遠く、向こうに見える陽炎の揺らめきは、まるであなたの眼差しの様だった。めらめら光り、じりじり熱い。でも、あなたは逃げ水。目を合わせれば、ぱっと目を逸らす。
金魚の尾の如く、サラサラとうねり、髪は靡いて揺れる。 冷たい抵抗を感じながら、ゆっくり前へ進んでいく。ぱっと目を開けた。ごぽごぽ。ちゃぷん。床一面に広がるコースティック。不規則に動く光は、白く細い一本の溝が通る華奢な背中を照らし出した。壁を蹴る。くるんと一回転。浮いている心地よい感触を、息苦しさが襲う。
水面に顔を出した。こもって聞こえていた音が、ダイレクトに耳に届いてくる。 鮮やかなコバルトブルーの真っ青な空。膨らむ雲がサイドシェルターの向こうに見えた。強い日差しで照りつける太陽。すぐ近くで鳴く蝉。耳元でちゃぷちゃぷと水が揺れる 音。どこを見ても夏である。
プールサイドに手をついて、体を上げた。髪の水を絞る。そして、ふっと背後から視線を感じた。
苗字の中には、その時の光景が酷く鮮明に焼きついていた。
*
「おい、聞いてるのか」
「ごめんなさい。何て?」
緑間は、湧き立つ入道雲を見つめて、ぼうっとしていた苗字に声をかけた。「全く、だからお前は駄目なのだよ」。黒い眼鏡のブリッジを上げる。半袖のワイシャツから見える腕には、がっちりとした筋肉がついている。少し 下を向き、伏せられた目からすっと伸びる長い睫毛。
シャープペンシルを2回ノック。教師不在の教室。でかでかと「解き終わったら準備室へ持参」と書かれた黒板。教卓の上には少しのプリントの山が出来ている。 夏休みに入った、とある週の土曜日。緑間は、何故か午前 中から行われている補修授業にいた。
「貴方、なんでこんなところにいるの。絶対、補修対象者じゃないでしょう。帰りなさいよ」
「苗字には関係ないのだよ」
「で、なんて?」
「だから、来週の土曜は暇かと聞いた」
「暇だったらどうなの。応援なんて行かないわよ」
「何故、」
「何故応援に行かないといけないのか、そちらの方を詳し く聞きたいわ。説明して頂戴」
口を挟ませないように強くまくし立てると、緑間は深くため息を吐いて、前のめりの体勢を戻した。緑間は椅子の向きを変えて、こちらを向いて座っている。椅子の背板に体を預けると、後ろの机へ肘を付き、難しい顔をする。眉間 に深く刻まれたシワ。彼は、黙ったままじっと苗字の顔を見つめていた。 苗字は構うことなく、机上のプリントへと向き直った。空欄のカッコの中身を埋めていくだけの単純な問題。 得意の現代文。問題は直ぐに解き終わった。
「普段から真面目にやるのだよ」
「放っといてよ。貴方には関係ない」
「お前はすぐそういうことを言、」
「関係ないじゃない」
「関係あるのだよ」
緑間は肘を付いた手に頭を乗せて、相変わらず、真っ直ぐにこちらを見つめた。
あの日もそうだった。相当目が悪いという噂を聞いたのだ が、本当なのだろうかと疑うほどに、彼はこちらを見ていた。苗字がぱっと振り返ると、彼はそばに置いていた眼鏡をかけて、直ぐにその場を去ってしまった。 苗字はシャープペンシルと消しゴムを筆箱に戻す と、鞄にしまった。プリントを手にする。だが反対を緑間が掴んでしまい、下手に動かせない。安いわら半紙だ。手の汗を吸って、あっという間に破れてしまう。
「俺の話聞くのだよ」
近い。
緑間はプリントを奪うと、自分の座っている後ろの机に置いた。そして、苗字の机に手を付いて、ぐっと身を 乗り出した。苗字が椅子を限界まで後ろに引いても、まだ余る緑間の身体。ぐっと顔を近づけられ、苗字は顔を反らした。テーピングが巻かれた指が、 そっと彼女の頬を撫でる。
「蟹座O型」
「……は?」
「蟹座B型と一番相性がいいのは、蟹座O型なのだよ」
「なのだよって、何。いいからどいて」
「いい加減、気付いてるんじゃないのか?」
「だから、」
「俺が、お前を好きなこと。気付いてるんじゃないのか?」
息が止まった。視線があう。長い下睫毛だ。
いつからだろうか、気付いていたのは。いつまでだろうか、逃げられると思っていたのは。こう面と向かって言われてしまっては、何もはぐらかせない。好きか嫌いか、好きである。でもそうじゃない。どこかの歌が、頭を駆け 巡った。「2人で迷いたいの」。緑間となら迷えるか。この灼熱地獄を、出口のない真夏の恋を。
唇が暖かい。そっと乗ってきた緑間のキスは、あっという 間の出来事で、苗字は瞬きをする暇もなく、ただ、 ずっと上を向いているだけだった。
*
鮮やかなコバルトブルーの真っ青な空。膨らむ雲が遠くの高いビルの向こうに見えた。強い日差しで照りつける太陽。すぐ近くで鳴く蝉。フル稼働する室外機の音。どこを見ても夏である。
点滅する信号。駆け出す元気もない。立ち止まろうと足を止めると、ぐっと強く手を引かれた。指先にざらざらとし た違和感を感じるのは、緑間がテーピングのせいだ。
「さっさと走るのだよ、名前」
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真夜子さま、素敵な夢をありがとうございました!
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