ある日の午後、しとしとと雨が降っていた。
午前中の晴天が嘘のように、突然空が泣き出したように降り出したそれは、普段の雨となんら変わりないはずの雨音を立てているにもかかわらず。胸中に不安をよぎらせる不思議な重さを伴って、心の中に、微かな何かを残していった。
乱されたリズムに、虹はかかるだろうかと願わずにはいられない、そんな予感。

「リゼラ」
「ん?」
「まーた、人の話聞いてなかったでしょ!」

気落ちさせてくる雨に気を取られていた所為か、一緒に下校していた友人が、ちょっと怒ったように唇を尖らせて呟く。ごめん、と苦笑交じりにリゼラが謝れば、彼女は溜息まじりに差していた傘を少しずらして背伸びをし、リゼラの頭を軽く小突く。

「わ、ちょっと!」

小突いた手でそのままぐりぐりと頭を撫で回してくる彼女の手をはらって、乱れた髪を軽く整えようとリゼラは頭に手を伸ばす。湿気を帯びて首元にまとわりつく髪と、ぐしゃぐしゃにされてしまった頭頂部の髪を手櫛で軽く梳いて背中側へと流し、仕上げと言わんばかりに前髪をかき上げて溜息を一つ。事あるごとに人の頭を撫でまわす彼女に文句のひとつも言ってやろうかと思ったリゼラが彼女の方を見やれば、髪を梳かしている間黙ってこちらを見ていた彼女がぽつりと声を漏らした。

「うん、やっぱリゼラかっこいい」
「……はぁ?」

前髪をかき上げたままだった状態の手を降ろして、リゼラは訳が判らないという表情で隣を歩く彼女を見た。しとしとと雨が降り続く中、彼女はくるりと傘を回しながらリゼラの真正面へとまわり、可愛らしく小首を傾げてにっこりと笑った。

「リゼラはかっこいいよ?身長も高いし、お爺さん譲りの蒼い瞳に男性アイドルも吃驚な綺麗な顔!それに、女の子にすっごく優しいし、ね」

そう、本当に幸せそうに顔をほころばせて語る彼女に、リゼラは二の句が告げなかった。当然のことながら、ものすごく美化された彼女の言葉に絶句してしまった為である。しかしそんなリゼラの様子に気付かずそれこそ歌う様に話し続ける彼女に、我に返ったリゼラは熱を持って赤くなっているであろう顔を片手で隠しながら恐る恐る声をかける。

「……あ、あのさ」
「え?あ、なーにリゼラ?」
「もーその辺でいい、よ? ……うん」

流石に恥ずかしい、と頬を掻きながらリゼラが呟けば、彼女はあわあわと顔を朱色に染めて恥ずかしそうに明後日の方向に視線を泳がせた。気を悪くさせたかな、と思って一人百面相を繰り返している友人の肩をつついて、リゼラはぽつりと言葉を漏らす。

「……その、そんな気にしてないから」
「ほんと?」
「うん」
「よかったぁ、リゼラ大好き!」
「……ったく」

うつむき加減になっていた顔をぱっ、と上げて不安そうな視線を寄せる彼女を見て、リゼラは気まずそうだった表情を和らげて唇に緩い弧を描かせる。言葉が発せられるのが早いのか行動に移すのが早いのか、どちらかわからないくらい同時にリゼラに抱きついた彼女の頭を撫でながらリゼラはしょうがないなぁ、と笑みを浮かべながら愚痴を零す。そんなリゼラを見て彼女は顔を再びその頬を赤らめて、抱き着いていた身体を勢いよく離す。

そのとき、だった。
歩き慣れた通学路。
この交差点の交通量が多いのも当たり前で。
雨の日に事故がよく起こっていることも、当たり前のように知っていて。
でも、自分にはないだろうという、変な確信のもとに。
当たり前すぎて『当たり前』という言葉にかき消されていた注意。

横断歩道に飛び出してしまった彼女。
向かってくるトラック。
青を灯す横断歩道の信号。
落ちないスピード。
動きが止まる彼女。
止まらないトラック。
あと数メートル。
……―――脚が、動いていた。
全てがスローモーションのように見えて、覚えているのは、手のひらに残る突き飛ばした彼女の温もりと、全身を貫いた重たい衝撃。最後に耳に着いたのは、手放した傘が地に落ちた音。そして頬を打つ冷たい雨だけで、不思議と痛みはなかった。視界の隅に彼女が何か叫ぶかのように口を動かしている姿が映ったけれど、それが何を意味しているのか考えようにも纏まらずに霧散していく思考を誘う睡魔に負けてリゼラはそっと、瞳を閉じる。
しとしとと降り続ける雨は強さを変えず路面を打ち、未だ止む気配はなかった。

それからどれくらい経過したのかは、わからない。睡魔に導かれ水底に沈んでいくように、ふっつりと途絶えていたリゼラの意識が、釣り上げられた魚の如く急激に浮上する。朧に回り始めた思考が感じとったのは、じりじりと肌を焼く暑い陽射し。次いでうっすらと開かれた瞳が、視界に捉えたのは真っ青な空。

「……? 雨、降って……?」

徐に零れたその言葉を聞く者は無く風に流され掠れ、彼女の発した音は消えた。朦朧とする頭と誘うように重たい瞼に抗えず、リゼラは再び瞳を閉じる。力なく地に横たわるその頬を、吹き抜けた一陣の風が凪いだ。熱を孕んだ風を浴びて譫言のように暑い、と口から無意識に零れた声音も再び風に運ばれて消え、リゼラの意識は彼女の手を離れてまた沈む。そして、ぱちりぱちりと木々が小さく爆ぜる音で、彼女の意識が再び形を成す。状況を判断するまでに至らない思考が、なんとか認識したのは身体を包む仄かな暖かさと人肌のぬくもり、そして髪を梳く手のひら。うつらうつら、揺れる意識がまた引き上げられ、優しい温度にまろぶ蒼の瞳が、手のひらの主と交わった。

「……大丈夫か?」
「………たぶ…ん…」

髪を撫でていた手のひらがするり、するりと顔を、頬を撫でた。低い声音にどことなく無骨な、言うなれば男の手のひらのようであったが、優しさだけを含んだその温もりが心地よくまたも思考は霧散し、三度瞼が重くなる。ここでまた眠ってはいけないと終ぞそ知らぬ誰かが警鐘を鳴らすが、思考はその能力を無くしたかのようにまるで機能しない。少しでもなんでもいいから情報が欲しいと渇望する声に押されて重い身体を叱咤して身をよじり、上体を起こそうと力を込めたところで優しくその手に制される。視線を合わせれば心配そうな声と不安に揺れる瞳に淡い笑みが零れていた。

「もう少し、休め。な?」
「…………ん」

瞼を閉じさせるように、その手のひらがそっとリゼラの目元を覆う。微笑んでいるのだろうか、ただただ優しい気配に押されて今度こそリゼラは夢の淵へと、舞い落ちる。
その際にひどく遠くおやすみ、と聞こえたような気がした。
そうして、はっきりと飛び起きるように眼が覚めたのは太陽がきっちり真上に昇った頃。雨が降り出す前のように高くたかく澄み渡る空も、肌をさす暑い陽射しも、熱を孕んだ風も一度目覚めた時と変わりはないのに、そこにはリゼラしかいなかった。

「ここ、何処なんだろ……」

そんな素朴とも当然ともいえる疑問が頭に浮かび、無意識に言葉となって無情にも現実を突きつける。記憶が正しければ下校途中に車に撥ねられたはずなのに、とアスファルトなどとは無縁そうな赤茶色の大地を眺めてリゼラは溜息を吐いた。先程からずっと吹き付けている熱を孕む風にはほのかに緑の香りがまじっており、明らかに別のどこかであるとしか言いようがなかった。

「…………それにしても、まだ新しいのになぁこれ」

微かに記憶に残る温もりの招待であろう焚き火の跡にそっと足を乗せると、ぱきり。と音を立てて燃え尽きて炭となった木が砕けた。その砕けた木の破片をつまみ上げた指先に伝わるのは微かな熱。冷え切っていない木片から火が消えたのはきっと自分が眼を覚ます3〜4時間程前だろうと推考しつつ、リゼラはつまんでいた炭の破片を押し潰す。普段となんら変わらない感覚から、自身の五感が正常に働いていることを認識して頭が痛くなる。

「………明晰夢だと仮定しても、これからどうするかな…」

黒く煤けた指を一瞥し、呆れたような溜息を吐きながらリゼラは空を見上げた。視線の先に広がるのは、ぬけるように高くてどこか恨めしい、けれど優しい青い、空。何の解決策がそこに書いてあるわけでもなく、見上げるのをやめたリゼラは、ちらりと視線を動かす。右前方に見えるのは光化学スモッグに覆われているであろうくすんだ空と、中心にそびえ立つビルとそれを取り囲む大きな機械のような建物。それとは対照的に左前方に広がるのは青い蒼い空と、緑の芝生。遠目に見える町の作りは西洋建築に近く見え数十キロ程度しか離れていないことが不自然とも思える文明の差がそこにはあった。二つの町を眼下に入れることができる小高い丘の上、まるでどちらに行くのか選べと言わんばかりの中間点だなと胸中で漏らして、気怠そうにリゼラは口を開く。

「どっちに行っても結局同じ距離だと思うしなぁーどっちに行こうかな………」

呑気な声で呟きつつ頬を掻いていたリゼラは、唐突に眉根をよせた。傍らを通り抜ける風の中に、微かな足音が聞こえ、加えて先程までなかった好奇心に似た、ねめつけるような視線が肌を刺す。

「あー……面倒くさい……」

魂までも出てしまうんじゃないかと思える長い吐息を吐きだして、そんな視線を感じたって仕方がないのだ、と。こんな荒野に一人、ただ立っていることが不自然なのだからとリゼラは己を無理矢理納得させるように手荒く頭を掻いた。






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