「始めるぞ、準備はいいか?」

柳君が静かにそう言って、私はごくりと唾を飲んだ。
胸に手を当て、呼吸を整える。周りで見ているテニス部の面々もどこか緊張した面持ちをしている。

「…うん、いいよ。大丈夫」

一度目を閉じ、覚悟を決めるとゆっくり頷く。それを見た柳君も小さく頷き返してくれた。

「では行くぞ。今から俺が言うことをしっかりと復唱するんだ」
「うん」

シンと静まり返った部室。その静寂を破るように柳君は口を開く。

「真田」
「しゃなだ」
「真田」
「さだだ」
「サラダ」
「っ、サラダ」
「沢田」
「さわだ」
「真田」
「さなら」

私が言った瞬間、「あぁ…」という感じの声がギャラリーから漏れた。

「………」
「………ごめん」

黙ってしまった柳君に謝ると、気にするなとばかりに首を振られる。

「でも、ほんとに苦手なんすね、名前先輩」
「だって弦一郎の苗字呼びにくいよ」
「そうかぁ?フツーに言えるだろぃ」
「言えないから困ってるんじゃん」

今まで黙っていた赤也が話かけてきたのをきっかけに、他の面子も会話の輪に加わり始めた。

「まぁ、確かに発音しにくい音が並んではいますからね」

ブン太のセリフに膨れてしまった私をなだめるように、柳生君が言う。

「今すぐ必要になるもんでも無いわけじゃし、気楽にいきんしゃい」
「それはそうだけど…」
「若干口の開きが小さいのも噛んでしまう原因だろう。まずは一音ずつはっきり発音する所から練習するべきだな。
それを続けていけば、滑らかに発音できるようになる」
「分かった、頑張って練習してみるよ。今日は、協力してくれてほんとありがと」

皆から励まされ、沈んでいた気分が浮上する。くだらない悩み事も一生懸命に聞いてくれる彼らに感謝したい気持ちでいっぱいだ。
今日はお礼に何か奢ろうかとでも考えながら、荷物を纏めていると、突然部室のドアが開いた。

「お前たち、何をしている!部活は終わっているのだからさっさと帰らんか!」

怒声とともに入ってきたのは、今まで本人の知らないところで苗字を連呼されていた弦一郎。
あまりのタイミングの良さに思わず笑いを漏らすと、それを見咎められ、怒りの矛先が私に向かう。

「名前、お前もだぞ!分かっているのか」
「あー、うん悪かったごめん」
「なんだその謝り方は!気持ちが入っとらんではないか!」
「いやいや、十分反省してるって。でも怒るのは私だけにしといてね。今日は私が相談したかったから残ってもらってたんだし」
「だが、ここでなくてもいいだろう」
「…私はどこでしてもかまわないけど、教室とかだったら恥ずかしいのは弦一郎だったんだからね」
「……俺が?どういうことだ?」

疑問符を浮かべた弦一郎に説明するように、柳君が相談の内容を口にする。

「弦一郎、苗字はお前の苗字を上手くいえないことを気にして俺に相談してきたんだ」
「苗字を…?どういうことだ」
「だからー、さーなーだって私には言いにくいんだよ。早く言おうとするとさだだとかになっちゃうから発音練習をしてたの」
「む……そうか?」
「そりゃ弦一郎は言いなれてるだろうけども。なんかこう、上手くいえないんだって」

なんとなく納得していない表情の弦一郎だけど、どうやら怒りはおさまったようで一安心した。
私たちが言い合っている間に皆帰り支度を済ませたようで、誰からともなく部室を出て行くのに私たちも続く。

「しかし、お前は俺を名前で呼ぶだろう。苗字が言えなくてもあまり関係ないではないか」

初めて相談したときに柳君に言われたことと同じ事を、弦一郎から質問された。
私はそれに、柳君に答えたこととまったく同じ答えを返す。

「だってほら、もしかしたら将来私の苗字になるかもしれないわけだし?」
「なっ…!?」

そのセリフに、弦一郎の顔が瞬時に赤くなった。

「たかがこれしきのことで照れないでよ」
「照れてなどっ…!いやそれより、そんな事を言い出すとは、たるんどるっ!」
「別にたるんでないよっていうか、あからさまに動揺してる弦一郎の方がたるんでると思う。ねぇ、柳君?」
「そうだな。弦一郎、そこまで態度に出しているんだ。否定するほうが滑稽だぞ」

柳君にすらばっさり切り捨てられて、弦一郎はぐっと言葉に詰まる。
その姿に今度は私だけでなく、遠巻きに眺めていた(多分巻き込まれるのが嫌だったんじゃないかと思う)レギュラー陣も笑い出した。
さすがにからかわれたことに気づいたのか、黙ったままの弦一郎の肩がぷるぷると震えだす。
明るい笑い声を吹き飛ばすかのような怒声が響き渡るまで、あと少しかかるだろう。それでもって、今回のお説教は無駄に長い。
長年の勘からそんな結果をはじき出した私は、まったく同じことを考えていたであろう柳君と一緒に弦一郎に気づかれないように静かにその場を後にする。
何か奢れるのは上手に脱出してきた面子だけかなぁ、なんて暢気なことを、背後から聞こえてきた怒声をBGMに私は考えていた。



(joke or serious?)(どちらにしろ、からかいすぎには要注意!)



「で、結局ブン太と赤也とジャッカルが犠牲になるんだよね、なんとなく分かってたけど」
「あいつらの要領の悪さは折り紙つきじゃからの」
「ジャッカル君は要領が悪いというより運が悪いと言ったほうがいいのではないでしょうか」
「なんかジャッカル可哀想になってきた。あとでジュースでも奢っとこう」
「そう思うんなら助けてやれば良かったんじゃなか?」
「だってほら、怒った弦一郎めんどくさいんだもん。怒らせたの私みたいだけど」
「いや、あれはどちらかといえば照れ隠しだろうな」
「どっちにしろ怒鳴ってる相手にわざわざ近づきたくないかなーって」
「まぁ同感じゃけど」
「でしょー」

通学路の途中にあるファミレスで、脱出組とそんな会話をしながらお茶を楽しむ。
今まさに学校で起こっているであろうお説教に思いを馳せながら、私はケーキを一口食べた。

「それで、結局本当の理由はなんだったんですか?」
「何が?」
「だから、真田君の苗字を練習する理由です。さっきのは真田君をからかうために言ったんですよね?」
「いや、本気だけど」

私のセリフに仁王君と柳生君の二人がぎょっとした表情を私に向けた。既に本気だと知っている柳君は涼しい顔だ。

「あれ、本気じゃったんか?」
「うん。あれ、二人とも冗談だと思ってたの?」
「ええ、まぁ…、というか、みんなそう思っていたと思いますよ」
「いくら私だってあんなこと冗談じゃ言わないって!まぁからかってたっていうのは間違ってないけど」
「一応そこは認めるんか…」
「実際その通りだしね」
「しかし、本気だとしてもあの態度では真田君はまじめに受け取ってくれないのでは?」
「いやだってほら、冗談っぽく言わないと恥ずかしいから!」

えへへと笑って言えば、返ってきたのはどこか生温かい視線だった。

「…なにその目」
「いや、真田も大変じゃな…と思って」
「ある意味お似合いということで良いんではないでしょうか」
「ダブルスコンビ二人で納得されてもなんか置いてけぼり食らった感じしか残らないんですけど!」