「ノボリの指が欲しい」

世間一般に繁忙期と呼ばれる時期に突入してしまったせいで中々会う時間もとれず、寂しい思いをさせてしまったという自覚があったからか、久方ぶりに会った恋人に阿るように何か欲しい物はないかと問った、その答えがそれだった。
名前の声に冗談の色はなく、目線は今もじっとりとノボリの指に注がれている。まるで正気とは思えないその提案に、ノボリは顔色を変えることなくただ首を傾げただけだった。

「なぜ、そのようなことを仰るのですか?」
「だって、心配なんだもの」
「心配?」

ふてくされたように口を尖らせ、名前はノボリを手招いた。誘われるままに近づいてくるノボリに満足そうに名前は微笑む。
不意に伸ばされた名前の腕が、くい、とノボリの手袋を引っ張って剥ぎとった。
露わにされた左手の、その薬指に嵌められた鈍く光るシルバーリングをそっと外し、はあ、と小さくため息を零す。

「これでは足りませんでしたか?」
「こんな、こうやってすぐ外せるもので安心なんて出来るわけがなかったのよ」

ノボリだってそうでしょう?と視線だけで問いかけられ、確かにその通りだとノボリは納得した。
容易く本来収まるべき場所を離れ、ころりと手のひらに転がり落ちる、こんな小さな銀の輪では鎖の代わりにすらなりはしない。こんなものでも左手薬指に嵌めていれば、既にパートナーがいるのだと暗に周囲に知らせることはできるのだろうが、ノボリはその上から手袋をしているのだからその働きすら期待することもできない。抑々、名前がこの指輪に求めているのはそんな小さな自己顕示欲を満たす役割ではないのだから。

「ねえ、いいでしょう?代わりに、ノボリには私の指をあげるから。交換しましょう?」

問いかけの形を保ってはいるものの、ノボリがこの提案を拒否する可能性など最初から考えてもいないのだろう。期待できらきらと輝く瞳に見詰められ、ノボリは一時だけ考えた。
ノボリの我儘に応えて大人しくノボリに『監禁』されてくれている名前の我儘ならばなんだって叶えたい。
尚且つ、常に監視カメラと盗聴器で自分が居ない間名前が何をしているのか手に取るように把握できる自分とは違って、名前はノボリが外にいる間、何をしているのか誰と接触しているのかなど知る由もないのだから。ノボリからしてみれば名前以外など興味の欠片もないのだが、それでも名前は安心ができないらしい。こうして閉じ込めてしまうほどに名前のことを愛しているというのに、まだまだ満足できない名前が愛おしい。その不安を晴らすことが出来るのは、世界で自分ただ一人だけなのだという事実もまた、ノボリの心を擽った。
愛を契るその指を自分のものにしてしまえばもう自分以外を愛することはできなくなる、だなんて、そんな浅はかな考えを思い付いてあまつさえ嬉々として実行しようとする。常人ならば理解すらできそうにもないそれこそが、名前の愛の形なのだ。ならばそれに応えるために、ノボリが返す答えなど、最初から決まっている。

「ええ、かまいませんよ」
「本当?やったぁ!!」

子供のように無邪気に喜ぶ名前を見ていると、ノボリの顔も自然と綻んでくる。
幸いにも利き手は右手。左手の、それも薬指が一本動かなくなろうとも、仕事にも日常生活にもそう支障は出ないだろう。

「指って鋏で切れるかしら?」

独り言のように呟きながらいそいそと刃物を探し始める名前の姿を、ノボリは微笑ましさすら覚えながら眺めていた。
ノボリは知っている。例え指を切り落とそうと、暫くすればまた名前はノボリが自分から離れるのではないかという不安に苛まれるに違いないということを。ノボリが名前をこの部屋に閉じ込めている以上、名前の不安が解消される日など訪れないことを。それでも名前をここから出すつもりがないのは、それが自分なりの愛の形だからか。それとも、ノボリが居ない間、盗聴器に向かってノボリへの愛を延々と呟き続ける彼女の狂気に浸るその時間が想像以上に心地よかったからか。どちらにしろ普通でないことは確かだが、その『普通』ではない自分の愛を全て受け入れてくれた名前を今更手放す気など毛頭ありえるはずがない。名前を繋ぎとめるためならば、徐々にエスカレートしていくであろうその要求すら、どこまででも受け入れよう。

「さあ、ノボリ。手を出して?」

鋏を片手に無邪気に促す愛おしい恋人へ、ノボリはそっと左手を差し出した。



(押しては引いて満ちては干る)