突然、私の隣を歩いていたコリンクが走り出して、森の奥へと消えてしまった。
森の奥には凶暴なポケモンもいるかもしれないから不用意に近づいたらいけないといつもあれほど言っているのに!「もうっ!」と小さく声を零して、私もそのあとを追った。
生い茂る草をがさがさと掻き分けて、小さな青い背中を見失わないように、必死で足を動かす。
生まれたときからずっと一緒にいるけれど、やっぱり走るのは向こうの方が早い。
私はすでにぜえぜえと息を切らし始めていて、そろそろ本当に姿が見えなくなりそうで不安になってきたころ、視界がいきなりぱっと開けた。
森の中にぽっかりと空いた空間。地面の上に倒れた人の横にコリンクはいた。
くんくんと、心配そうに鼻を鳴らして私をみるコリンクの方へと恐る恐る近づいていく。
倒れている人はぴくりともしない。まさか死んでいるわけでもないだろうけれど、少しだけ怖い。
一定の距離を保って、「コリンク、おいで」名前を呼ぶけれどコリンクは動かない。
仕方なく、私はさらにその人へと近づいた。若草色の髪の毛が風に揺れる。
見るとコリンクは、その人の右足をしきりに気にしているようだった。さらによく見てみると、その部分だけ地面が変色しているようだった。

「コリンク、どうしたの?そのひと、けがしているの?」

肯定するように、コリンクが一度鳴く。
私はじわじわと近づいて、その足元へしゃがみこんだ。ぱっくりと、見るだけで痛々しいほどに足が切れていて、そこから血が地面へとしみこんでいる。私は慌てて、その人を揺さぶった。

「ちょっと!だいじょうぶ!?」

う、と小さく呻き声。とりあえず無事なようで、ほっと胸をなで下ろす。「ここは…?」と言って起き上がろうとしたその人を、私は止めた。

「うごいちゃだめ。あしをけがしてるから」
「…そのようだね」

痛みで気づいたのだろう、その人は顔を一瞬歪めてから、私に向かってもう一度「ここは?」と尋ねた。

「ここはシンオウのもりのなか。あなた、こんなところでけがをして、どうしたの」
「…どうやら、ポケモンで空を飛んでいる途中で落ちてしまったようだ」
「…どんくさいのね」

呆れた。もっとなにか、重大な事件に巻き込まれたかと思ったのに。とはいえ大きな怪我をしていることには違いがないけど。

「あなた、なまえはなんていうの?」
「ボクはN」
「えぬ?へんななまえ!」
「そうかい?」
「ええ、へんななまえよ。わたししってるわ、それ、うみのむこうのくにのもじだもの。ギメイなんでしょう?」
「キミは難しい言葉を知っているんだね」
「ほんをよむのがすきだから」
「そうか…でもこれは偽名じゃないんだ」
「ふうん?だったらあなた、うみのむこうのひとなの?」
「そうだね」
「なにをしにきたの?」
「さあ、なんだろうね」
「…へんなひと」

思ったままを口にすると、そのNは少しだけ悲しそうな顔で笑った。普通なら馬鹿にされたと思うはずなのに、笑うなんて本当に変な人。
けれど人と話すのは久しぶりで、純粋に楽しいなとも思う。
どうせこのままこの森に置いていくわけにもいかないから、私はNの怪我した右足を指さして言った。

「とにかく、そのきず、てあてしないと。わたしのいえがちかくにあるの」
「行ってもいいのかい?」
「どうしてそんなことをきくの?」
「突然ボクみたいな変な人を連れ込んだら家族の人が心配するだろう?」
「だいじょうぶよ、わたしひとりですんでるから」

なんでもないことのようにそういうと、Nは少しだけ目を丸くした。

「キミが、一人で?」
「ええ。おとうさんもおかあさんも、どこかとおいところでいそがしくしているらしいから。…たてそう?」
「ああ、大丈夫みたいだ。痛みはあるけどね」
「それぐらいはがまんして。わたしもコリンクも、あなたをささえてあるけそうにないから」

立ち上がってみると、Nは私よりもずっとずっと身長が高く、さすがにこのNを支えて家まで歩ききる自信はない。
Nもそれをわかっているようで、一度だけ頷くと、ゆっくり、でも確実に自力で歩を進めていった。
行きに比べればとても遅いスピードで、ようやく私の家へとたどり着いたころには、まだ低かった日は中天へと達そうとしていた。
普段あまり使わない救急道具を取り出して、見よう見まねで消毒をして包帯を巻く。まじまじと見てみた傷は私が思っていたよりも深く、よくここまで歩けたと感心してしまった。

「はい、おわったわ」
「ありがとう」

お礼を言ったNが椅子から立ち上がって玄関へ向けて歩き出したものだから、私は慌ててそれを止めた。

「あ、え、どこにいくの?」
「手当をしてくれたことに礼は言う。けれどボクはもう行かなければ」
「そのあしで?いったいどこに?」
「さあ、それはボクにもわからない」

半分足を引きずっているのに、旅でもしようというのか。野生ポケモンに襲われたらいったいどうするつもりなんだろう。

「あのね、てあてのおれいはいらないけれど、ひとつおねがいがあるの」
「お願い?」
「そう。あなた、そのあしでたびをするなんてムボウだってじぶんでもわかってるでしょう」
「…まあ、ね」

自覚はあったようで、Nは苦々しい表情でうなづいた。これならもしかしたら、私のお願いを聞いてくれるかもしれない。

「わたしね、ずっとここでくらしてきて、いつもたいくつしていたの」

誰もいない森の中。月に一度、お父さんの知り合いという人が食べ物とこまごまとしたものを運んでくれるけれど、それ以外は誰にも会うこともなく、毎日本を読んで暮らしていた。
この、小さな一軒家とその周りの森だけが、私の知っている世界の全て。
そんな中で訪れた非日常を、簡単に手放したくなんてなかった。

「だから、そのけががなおるまで、あなたがわたしのはなしあいてになってくれると、うれしいわ」

半分は方便、半分は本心。Nにとっても、悪い話じゃないだろう。
そんな計算をして言葉を吐いた私に向かって、Nはさっきよりももっと悲しそうな顔をして、「…ボクでいいなら」と答えた。なんでそんな悲しい顔をするのか、理由を聞くことはとうとうできなかった。

Nのことはわからないことだらけだ。
どこから来たのかもなぜあんなところで倒れていたのかも、何も話そうとしないし、私も無理に聞こうとも思わない。好奇心がないわけではなかったけれど、無理に聞こうとして、Nが出て行ってしまうことの方が恐ろしかった。
ただ、私には自分以外の人がいる生活というのは新鮮で、どこか楽しいものだった。
Nは吃驚するぐらい家事も何もできなかったけれど、それでも世話になっているからとできる限り手伝おうとしてくれた。
自分のことは何も話さないけれど、私がせがむと私の知らない、Nの生まれた場所にいるポケモンの話をたくさんしてくれた。
私が驚いたのはNがポケモンと話せるということで、ためしにコリンクしか知らないようなことをNに尋ねてみると、Nはなにやらコリンクに話しかけるとすぐに正解を答えるものだから、私もコリンクとお話しできたらいいのにと少しだけNを羨ましいとも思った。
そうやって、Nの怪我が治るまでという条件はあるけれど、今までコリンクと二人で退屈に暮らしていた私にとってまるで夢のような、穏やかな日々が続いたある日のこと。
今日もNは散歩に行ってくるよと言い残して出かけてしまった。
Nは毎日、起きてから朝ごはんを食べる前にちょっとの間散歩に出かける。私からすれば見慣れた森だけれど、海の向こうから来たNにとっては珍しいものなんだろう。よくはわからないけれど。
Nを待つあいだ、特にすることもなかったのでぱちりとテレビを点ける。
私には関係のない、あまり興味のないニュースを流し見ていたのだけれど、レポーターのお姉さんが「それでは次のニュースです」といってぱっと画面に映った写真に、私の目はテレビ画面に釘付けになった。

『―イッシュ地方で起きたプラズマ団によるポケモンリーグ襲撃事件の続報です。プラズマ団の王様と称し、指導者として活動していたNという少年ですが、ここシンオウ地方で白いドラゴンポケモンと共にそれらしき姿が目撃されたということです。彼は国際警察に指名手配されており―』

プラズマ団?リーグ襲撃?王様?よくわからない単語が飛び交う。
ただ私に分かることは、この写真のNと今私の家にいるNは多分きっと同一人物で、そして彼が、追われているということだ。
予想すらしていない展開に私がただただ茫然としていると、がちゃり、玄関のドアが開いてNが姿を現した。
Nは部屋に入るなり、点けっぱなしだったテレビを見て、それだけで全てを理解したような顔をして、私に向かっていった。

「とうとう、バレてしまったようだね」

何のこと、なんて問うまでもなく今のニュースのことに違いない。何と言ったらいいのか私が迷っているうちに、Nはつかつかと部屋の隅に置かれていたNの私物を持ち上げた。

「すまない。怪我も随分良くなったし、ボクはこれで失礼するよ」
「どうして?」
「キミも見ただろう?ボクはいま、警察に追われていてね。ここにずっといたらキミにも迷惑がかかる」

それに、キミも一緒に居たくはないだろう。そう言って、荷物ともいえないほどの量の荷物を持って出ていこうとするNを「まって」と私は呼び止めた。
不思議そうな顔をしてNがこちらを振り向く。ああ、この人は、なんで呼び止められたのか全然わかっていない。

「あなた、ポケモンのきもちはわかっても、ひとのきもちはぜんぜんわからないのね」
「…どういう意味かな?」
「あなたがどこでなにをしてたかなんてわたしにはかんけいないわ。わたしにとってのNはポケモンとおはなしができて、なのにかじはぜんぜんできない、ただのへんなひとだもの」

きっぱりと言い切ってやった。驚いたNの表情を見て、くすくす、笑いが漏れる。

「さいしょにいったじゃない。けががきちんとなおるまでは、わたしのはなしあいてになってくれるって」

「やくそくをやぶるなんて、さいていよ?」澄ました顔で告げると、Nははぁ、とちいさくため息を吐いて「キミにはかなわないな」とつぶやいた。

「…キミに、言いたいことと聞きたいことがある」
「なあに?」
「ボクの名前は、ナチュラル・ハルモニア・グロピウスというんだ。キミの名前を教えてくれないか」
「わたしのなまえは名前よ」

素敵な名前ね、私は笑った。素敵な名前だね、Nも笑った。



(賢しい少女と賢しすぎた青年のお話)