大切なあの子の待つ家へ帰る足取りはどこまでも軽い。

「ただいま!」

ばたーんって勢いよく扉を開けると、お留守番していたデンチュラがぼくを出迎えてくれた。
だけどいくら待ってもあの子が出てこない。おかしいな、いつもならすぐに来てくれるのに。
不思議に思ってデンチュラに「名前は?」って聞いたら、デンチュラは案内するようにぼくのコートの裾を銜えてぐいと引っ張った。

「ちょ、ちょっと待って!」

まだ靴を脱いでいなかったから、急いで脱ぎ捨ててデンチュラに着いてリビングへ。
夕暮れ時だというのに電気がついていないせいでぼんやりと薄暗いリビングの、ソファの上で、名前はまるで赤ん坊のように丸まってすやすやと眠っていた。
うーん、疲れてるのかな?ぼく今まで家事なんてしたことないからよくわかんないけど、大変なことなんだろう。夜はあんまり寝かせてあげられないし。
そうは思うけど、お出迎えしてもらえなかったのを面白くないなって思う気持ちも確かにあって。だってこれ、ぼくとの約束の一つで、約束破られるの、ぼくあんまり好きじゃない。
どうしようかなって考えたんだけど、デンチュラがぼくを催促するように一度鳴いた。
そうだよね、デンチュラもお腹空いたよね。思い返してみればぼくも少しお腹が空いていて、やっぱりちょっと可哀想だけど名前には起きてもらわないと。
ぐい、と名前の片腕を掴んで力任せに引っ張った。当然のように体もそれに引っ張られ、びたん、と少し間抜けな音を立てて名前の身体はフローリングの床の上へと落下した。

「っ!?」

声にならない声が名前の喉から漏れた。ぱちりと目を見開いて、けど寝起きでまだ状況が読めずにぼんやりしてる名前の隣へ座って、その顔を覗き込んだ。

「おはよ、名前」
「え、あ、…あれ…クダ、リ」
「疲れてたの?ぐっすりだったみたいだね」

にっこり笑いかけてあげたのに、名前の顔はみるみる青褪めていって、それがなんだか面白い。

「私、寝て…っごめん」

慌てて起き上がろうとする名前を制して、むしろその上に馬乗りになる。

「あのね、ぼく、帰ったとき名前の声聞けなくて寂しかった」
「そう…だよね。ほんとうにごめんね、クダリ」
「駄目だよ、ぼくとの約束破ったら。ぼくが帰ったら、一番にお帰りって言ってくれないと」
「うん。ごめん、ごめんなさい」

必死で謝ってくる姿にもう内心では許してもいいかなと思ったんだけど、この状況を簡単に終わらせるのも勿体ない気がしてもう少しだけ苛めてみる。
悪戯に首元へ手をやれば、びくりと必要以上に身体を震わせる。そこに残った痣をなぞるように手を重ねて、少しだけ力を込めた。
迫りくる恐怖と訪れるであろう苦痛に耐えるかのようにぎゅうっと目を瞑った名前に、喉の奥から堪えきれない笑いが零れる。

「ふふっ、絞められると思ったの?ぼくそんなことしないよ?」

怯える顔が可愛くて、そのまま額にキスをひとつ。いそいそと名前の上から降りて、「ごめんね、痛かったでしょ」と言いながら名前の方へ手を差し出す。
恐る恐るといった風にぼくの方へ伸ばされた手を、ぼくから握りにいってそのまま起き上がるのを手伝ってあげた。

「あ、ありがと…」
「うん、どういたしまして。あのね、ぼくお腹空いた!」
「!そ、そうだよね。ごめん、今からすぐ作るから…!」

わたわたと立ち上がりキッチンへと向かおうとした名前が、ぼくの方を見て困った顔をする。握ったままの名前の手はまだ離していないから、動きたくても動けないんだろう。

「あ、の…クダリ…?」
「なあに?」
「え…っと」

態とらしく首を傾げて尋ね返すと、名前は狼狽えて、でも何も言うことができずに視線をうろつかせるだけだった。

「何かぼくに言いたいことがあるなら、なんでも言って?」

言いながら、ぎりぎり、手に込める力を増やしていけば名前の顔が痛みに歪む。

「ううん、なんにもないよ」

なのに、ぼくが怖いのかな。名前は小さく首を振って、それに耐えるだけだった。
今にも泣き出しそうな顔をして、唇をぐって噛みしめて、でもぼくが見てることに気づいたらぼくに向かって無理やり笑顔を作ってみせる。
ああ、やっぱりぼく、きみのその表情が一番大好きみたい!

「ねえ名前。ぼく、名前のこと愛してる!名前は?」

名前の目をまっすぐ見つめて問いかけると、その歪な笑顔がさらに引き攣ったのをぼくは見逃さなかった。

「名前は、ぼくのこと愛してる?」

けど見なかったふりをして、もう一度。勿論答えなんて一つしかないんだけど、ちゃんと言葉にしてくれないと不安になっちゃうでしょ?



(「愛してる」って言わなきゃ殺す)