「ボスー、今日はホワイトデーですよ!」
「はあ、それがなにか?」

出勤早々やけに上機嫌の部下にそう話しかけられた。
3月14日、ホワイトデー。確かにその通りだがなぜ名前が自分にそれをわざわざ主張してくるのかが分からず、ぼんやりとした反応しか返せない。
しかしそれが気に食わなかったのか、名前は少しだけむっと顔を顰めた。

「なんですかそのうっすい反応。ホワイトデーですよホワイトデー!世の男性諸君は何かするべきことがあるでしょう!」
「そう期待した目をされても困るのですが…」
「まさか、ボスともあろう人が何の用意もしてないんですか!?」
「そもそもわたくし、あなたからバレンタインに何もいただいていないのですが」

そう、思い返してみてもノボリ自身、名前から何ももらった記憶がない。
だからこそ何の用意していないというのに、なぜ名前は貰える前提で話をしているのだろうかその言葉に名前がきょとんとする。

「何言ってるんですかボス、私ここにお徳用チョコレート持ってきたじゃないですか」

言われて、「ああ」とようやく1ヶ月前に名前がおやつですよーといって持ってきたチョコレートを思い出す。同時に、なぜそれが自分の記憶に全然残っていなかったのかも思い出した。
結局あのチョコレートはノボリが食べる前にクダリが食べきってしまったはずで、食べていないのだから受け取ったことにもならず、覚えていないのも当たり前だ。
決して自分の記憶力が衰えていたわけではないことに内心安堵しつつ、「ほらね?忘れるなんてひどいですよボスー」と言って何かをねだるように両手を差し出した名前に、その事実を告げる。

「あれはクダリが完食いたしました」
「へ?」
「ですので、わたくしは頂いておりません」
「ええええ、白いボスまじ何やってるんですか…」

想定外の事態に名前は頭を抱えた。このところお返しのことだけを楽しみに生きていたというのにまさかこんなことでその楽しみが奪われようとは夢にも思わなかった。
これで話は終わったとばかりにその場を離れようとするノボリを慌てて引き留める。

「あー!待って、ちょっと待ってくださいボス!今全力でお返し貰う理由を考えますから!」
「…必死すぎて本音が漏れていますよ」
「ええと……あ、そうだ!」

ノボリの冷静な突っ込みすら無視してうんうんと唸り声を上げる名前を名前が突如大声をだし、ノボリにぐいっと詰め寄った。

「ボス!やっぱり私ボスにちゃんとバレンタインお渡ししてますよ!」
「しかしあなたのチョコレートは一口も食べては…」
「でもほら食べてなくても私のチョコをあげようという気持ちは受け取ってるわけですよね!」
「随分前向きな考え方ですね…」
「というわけで、何かお返しをくださいボス!」

必死すぎる名前には苦笑気味のノボリのことなど見えてすらいない。
あまりにも強引な考え方だが、ノボリが折れない限りこの不毛なやり取りは続くだろう。
そう判断したノボリはふぅと軽くため息を吐いて、名前に向き直った。

「そう言われましても、本当に何もないのですが」
「じゃあ形じゃなくてもいいんですよ!例えばお休みとか!もしくはボーナスとか!」
「ふむ…形ではないもの……」

顎に手を当てて考える。
休暇やボーナスは論外として、今のノボリが名前に渡せるものと言えば何があるか。その答えは存外早く見つかった。

「わかりました」
「!なにくれるんですか、私としてはお休みだとすっごく嬉しいんですけど」
「とりあえず、こちらへ」

言われるがままにノボリの方へ近づき、きらきらと期待のこもった眼差しで見上げてくる名前をまるで尻尾をちぎれんばかりに振ったヨーテリーのようだと考えながら、ノボリはその頬へ軽く口づけた。

「う、え!?」
「―これで、よろしいですか?」
「ちょ、え、な、何してるんですか!?」
「あなたからは気持ちをいただいたそうですので、わたくしからも気持ちを返しただけですが?」
「それが何か?みたいなドヤ顔やめてください!」
「おや、知らないのですか?頬の上のキスは厚意の気持ちを表すものだそうですよ」
「そんなの初耳です!」

頬をおさえてきゃんきゃんとわめく姿にくつくつと笑いを零し、ノボリは名前の真っ赤になってしまった耳に唇を寄せる。

「唇の上にしてほしければ、来年こそはわたくしのためだけに用意してくださいまし」
「っ!!そんなの用意しませんからね!」

「ボスのセクハラ魔!」と聞き捨てならないセリフを吐いてばたばたと逃げ出す背中を見送り、途端に静かになった駅員室でノボリは一人「来年が楽しみですね」と呟いた。



(Auf die Wange Wohlgefallen)