「イヴェール、出かけるの?珍しいこともあるのね」

ガチャリと開いたドアの目の前で今にも家を出る用意をしていたイヴェールを見て、名前の口からそんな素直な感想が飛び出した。
それに気を害した様子もなく、イヴェールはぱあっと顔を輝かせて名前を見る。

「あ、名前!いい所に!」
「?」
「今から、新しく来た人たちに挨拶をしようと思ってたんだ。一緒に行こう」

そう言ったイヴェールの手には(双児が用意したであろう)地図が握られている。
ひょいとその地図を覗き込めば、第七の地平線に繋がる物語という文字とともに、鬱蒼とした森への道筋が書かれていた。

「私も一緒でいいの?」
「勿論だよ」
「そう……それならお言葉に甘えてついていこうかしら。これから(主にイヴェールが)お世話になるかもしれないし」
「名前、今何かつけたさなかった?」
「いいえ、なんにも。それじゃあ行きましょうか」

暢気な顔で聞き返したイヴェールに笑顔で首を振って、名前はたった今入ってきたばかりの玄関から外へ出る。
未だに準備の終わってなかったイヴェールが後ろから「ちょっと待ってよ!」と言いながら慌てて出てきた。


そして地平線を飛び越えること数時間。
ようやく森へとたどり着いたにも関らず、イヴェールはなぜか大木の陰に隠れていた。
それに付き合うように仕方なく名前もその木の陰に隠れているものの、目的地である井戸とその住人はもう目と鼻の先だ。

「ねえイヴェール。いつまでそうしているつもり?」
「だ、だって…!」
「貴方が挨拶に行こうって言ったのよ」

このままでは埒が明かないと、名前はイヴェールに声をかける。
それに振り返ったイヴェールはとても情けない顔をして、井戸の近くに居る二人組みを指差した。

「でも名前、彼ら顔色悪くて今にも死にそうっていうかむしろ死んでるみたいだしなんか雰囲気が怖いし、それにすっごく意地悪そうな人形が居るし!」
「ソコ、サッキカラ聞コエテルワヨ!」
「ぎゃあ!」

イヴェールが高らかに言い放った瞬間、黒いドレスを着た人形がぐるりとイヴェールと名前のほうへ振り向き甲高い声を上げた。
それに驚いたイヴェールは短い悲鳴を残し、更に遠くの木の近くまで逃げてしまう。
名前も少しばかり驚きはしたものの、イヴェールのあまりの逃げっぷりにむしろ冷静になったらしく、そのまま男性と人形のほうへ向き直った。

「あら、まぁ。気付いてらしたの?」
「ソンナ近クデギャアギャア騒イデタラ、誰ダッテ気付クニ決マッテルデショ」
「私たちに何か用か?」

男性のほうは何を考えているのか良く分からないが、人形の方は(二人の時間を邪魔されたためか)明らかに不機嫌そうな顔で名前のほうを見ている。
しかしそんなことでひるんではいつまでたっても目的は果たせないと、なるべく人形のほうを見ないようにしながら名前は自己紹介を始めた。

「Salut, enchantee. 私は名前、あそこで貴方のお人形に脅かされて震えているのはイヴェール、第五の地平線の住人よ。
きっとこれから長い付き合いになると思うから、今日はそのご挨拶に来たの」
「そうか。私はメルヒェン・フォン・フリートホーフ、メルで構わない。彼女はエリーゼだ。……よろしく」
「ええ、よろしく」

いまいち表情の読めないメルだが、差し出した手を握り返してくれたことに名前はほっと安心して顔を綻ばせる。
一瞬だけほのぼのとした空気がその場に流れ、一拍の後、それはエリーゼの怒声によって破られた。

「チョットソコノ雌豚!私ノメルニ気安ク触ラナイデヨッ!!」
「め、めすぶっ…!?」

突然の暴言に、名前は絶句してしまう。
更に言い募ろうとしたエリーゼの言葉を、メルが静かに遮った。

「エリーゼ、駄目だろう?」
「ッ……ゴメンナサイ、メルメル…」
「(何この人たち…)」
「(あの人形も怖いけど、名前も怖い顔してる…)」

さっきまでの威勢のよさはどこへ行ったのかと疑問に思うほど分かりやすく落ち込んだエリーゼに、メルが優しく微笑みかける。
その二人を前にしてひくひくと頬を引き攣らせている名前から発せられた冷たい空気は、数十歩離れた場所から一連の流れを見ていたイヴェールを震え上がらせるには十分だった。


結局、あの後別れの言葉もそこそこにイヴェールと名前は自分達の地平線へと戻ってきていた。
疲れきった様子でイヴェールの家の玄関を開けば、双児の人形が置くの部屋からパタパタと出迎えに来てくれる。

「ただいま」
「お帰りなさい、名前にムシュー」
「お帰りなさい。……二人とも、なんだかとても疲れた顔をしていますわ」

顔色の悪さに気付いたのか、オルタンスが心配そうに二人を見上げた。
それを受けてヴィオレットも、小首を傾げながら問いかける。

「もしかして、具合が悪いんですか? 名前はともかく、ムシューは今にも死にそうな顔ですわ。……そもそも生まれてませんけど」

最後にぼそりと付け加えられた言葉はイヴェールには聞こえていなかったのか、双児のセリフに感極まったイヴェールは両手を広げるとそのままがばりと双児に飛びついた。

「ヴィオ、オルタンっ!」
「きゃ!」
「ム、ムシュー? どうしたんですか一体!?」

双児は慌ててその手を振りほどこうともがくが、か弱い人形の力ではその抱擁から抜け出すのは容易ではない。
いつもならイヴェールの暴走を止めてくれるであろう名前に助けを求めようとしても、名前はその光景を無言で見守っているだけだ。

「僕の人形がヴィオとオルタンで本当に良かった!ありがとうママン!」
「何をいきなり当たり前のことを仰ってるんですか、ムシュー」
「ヴィオ、突っ込むところはそこじゃないわ! というか、ムシューに一体なにがあったんですか?」

オルタンスの言葉に、少し離れた場所に避難していた名前はふっと遠い目をして今日会った二人のことを思い出した。
脳裏に浮かんだのはいちゃいちゃしあうメルとエリーゼの姿だったが、それをそのまま言うわけにもいかず曖昧な答えを返す。

「まぁ、色々と。濃い新人に揉まれてきたというか…」
「?」

要領を得ない返答に更に疑問を深めたオルタンスを横目で見ながら、名前はこの三人が普通で良かったと心の底から安堵した。



(普通に勝る幸せなんて)