酷い嵐だった。
今まで長い間航海してきた白ひげでさえ見たことがない規模の嵐。そんな大きく激しい嵐を、モビーの優秀な航海士でさえ目前に迫るまで予測も観測も出来なかったのだから、グランドラインは曲者だ。
強烈な嵐に、隊長達は勿論のこと、平隊員や新入りまでもが全員奔走していた。
怪我人の治療に慌ただしい医務室。対照的に誰1人残らない数多の部屋。
その中の一室。片付けられずに残されているイゾウの部屋で、ハルタは一人ぼんやりと膝を抱えていた。
ハルタは未だイゾウの死から立ち直れずにいるものの、すでに医務室から退去が許されていて、一日中イゾウの部屋でぼーっとしているのが常だった。
そんなハルタをサッチを中心とした隊長達も、ナースも白ひげも心配してよく様子を見に行ったり声をかけたりと気にかけていたが、ハルタからはろくに反応が返されることはない。
そんな中迎えたのがこの嵐。隊長格でさえもがこの嵐をどうにか乗り切るべく奔走している最中に、ハルタを気にかけて見に行く余裕のある者は一人もいなかった。
ハルタはイゾウの部屋で一人きりだった。
嵐の揺れに逆らうこともせずに脱力したままで、転がろうが気にも留めなかった。痛みさえ麻痺していた。ハルタはもう、――壊れかけていた。
イゾウがよく使っていたペンがペン立てごと落ちた音に、転がったままだったハルタが覚束無い足取りで立ち上がる。
しかし、ハルタが立ち上がったのを見計らったかのように一際激しい揺れがハルタの足元を掬った。
床から離れた小さい体はイゾウのベッドの上に一度跳ねて着地した。
ぶわりと舞い上がる埃に混じって、イゾウの匂いがする。柔らかくて、気品を感じるようなイゾウの匂い。ハルタが一番好きな匂い。
ハルタの目からまた涙が零れた。
飽くことも尽きることもなく零れる涙がイゾウの布団を濡らす。
声も出せずに泣くハルタを心配そうに見つめていた家族はここにはいない。
イゾウ、とハルタの掠れた声が呼んだ。
――瞬間、先ほどとは比べものにならない強い揺れがモビーを襲った。
誰か落ちたぞ!という声が甲板に響く。
イゾウの部屋では、ハルタが一人、揺れに体を取られていた。
ベッドの上から飛ばされたハルタは、そのままだと壁か床かに強く体を打ち付けるというのに身構える様子もなく飛ばされるまま。
宙に浮くその体の、その瞳から、また一筋涙が落ちた。
ハルタは、自分が宙に浮いていることも、このままだと怪我をしかねないことも、頭のどこかではわかっていた。
――このままだと駄目なことも、イゾウはこんなことをきっと望まないということも、自分の弱さも、全部全部、どこかではわかっていた。
けれど、駄目だった。そこから繋がる回路だけが切断されたように、わかっているのはわかるのに、体も頭も心も、何も動いてはくれない。
ハルタと壁との距離がどんどん縮まり、今にもぶつからんというところで、その間の空間が捻じ曲がるように闇が滲む。
独特な気配を感じさせないただの影のような闇がぶわりとその面積を増し――その闇が晴れると、一人の男がそこに立っていた。
間髪入れずに男の胸板に背中からぶつかったハルタを、男は慌てたように受け止める。次いでさっと部屋を見渡すと、衝撃と驚愕に目を見開いた。
その腕の中、ハルタはその表情を僅かに動かした。
凍ったような頭と心と体の中、唯一正常に働いていた頭の一部が、想定していた痛みも衝撃も来なかった事への驚きを表して慌ただしく動く。
それ以外の部分も、緩やかに、緩やかに、動き出す。
――この部屋には、誰も、いなかったはずで、この見慣れた部屋には、自分のことを受け止めるような物は、何も、ないはずで。
何より、いつも感じていた、一番好きな、ついさっきまでと同じ、けれどそれより強い香りを、感じて――。
ハルタを受け止めた男は、ゆるゆると腕の中の体に視線を移す。
見慣れたその体は本当に彼なのか疑わしく思うほどやせ細ってしまっていた。
確かめるように男が声を絞り出す。
「……ハルタ…?」
その声に、ハルタの顔が歪む。
幻でもいい、夢でもいいと、ハルタはぼろぼろと涙を零した。
「―――イゾウ…っ!!!!」
イゾウの名前を叫ぶと、ハルタはばっと勢いよくイゾウに抱きついた。堰が切れたように泣きじゃくって、またイゾウの名前を叫んだ。
イゾウはハルタの叫びを、慟哭を、絶望を、揺れる船の上で荒れる波を感じながら聴いた。
聴いているイゾウの胸が締め付けられるような、酷く痛ましい声だった。
泣いて、泣いて、過呼吸になるんじゃないかと心配になるほどひたすらに泣き叫ぶハルタを、イゾウはただ抱きしめてやることしかできなかった。
肉が落ちて心許ない体を抱きしめて、隈の酷い目元をなぞって涙を拭う。
――俺は、選択を間違えた。
ハルタがこんなになっちまうなんて思わなかった。こんなにも自分を責めちまうなんて思ってもみなかった。……俺がこんなに想われてるなんて、思いつきもしなかった。
「ごめんなぁ」
胸の奥が詰まる。
随分頼りなくなった家族の体を抱き寄せて、イゾウは呟いた。
何故だろう。涙が零れた。
数分も経たない内にイゾウに縋り付いて泣いていた小さな体が崩れ落ちた。
イゾウは血相を変えて床に倒れる寸でのところで支えて抱え上げる。
その軽さにまた驚いて、顔を歪めた。
寝れていなかったんだろう。食事もままなっていなかったんだろう。――俺が死んだせいで。
多少埃っぽいのは否めないが、この揺れだ。運ぶことが難しいのだからどうしようもないと、仕方なくハルタを自分のベッドに寝かせて、改めてまじまじその姿を見る。
濃い隈、青白い顔、痩せ細った体。
――ハルタをこんな風にした原因は、俺だ。
埃っぽい俺の部屋に俺の匂いが着くぐらい長くいて、俺のこと気にして泣いて、急に現れた俺に形振り構わず縋りつくハルタの姿を見て嫌でも分かった。
それが痛くて、でも嬉しかった。
今までずっと、家族と呼ばれる度に舞い上がって、なのに信じきれなかった。
あくまでこの体に向けられた言葉で、イゾウに向けられたものじゃないんだと、どこかでひねくれていた。
――なのにハルタが、俺が決めたことで、俺が死んだせいで泣くもんだから、ああ、俺もちゃんと愛されてたんだな、とやっと実感できた。
大事な兄弟の酷い姿に後悔を覚えて、同時に喜んだ。
こんな風になるほど俺は愛されてたんだと安心して、家族を信じきれなかったと後悔して、やっぱり家族が愛おしいと再確認する。
いつの間にか揺れは治まっていた。
イゾウはハルタがベッドから落ちないよう支えていた手を離し、濡れた自分の頬を拭った。