.新羅の言うとおりにしたら熱が下がった。
新羅の言うとおりにしたら食欲が出た。
新羅の言うとおりにしたらよく眠れるようになった。
新羅の言うとおりにしたら――…
朝目覚めてリビングの扉を開けると僕の妖精が極上の笑顔で誕生日を祝ってくれた。それだけでも勧天喜地、まさに天を仰いで地に伏すほどの喜びだというのに、なんとケーキまで焼いてくれるそうだ。忌々しいことに今日に限って時前から予約が入っていた往診も、これを思い出すだけで奮い立たせることができた。帰ったら愛するセルティが美味しいケーキを焼いているだなんて想像しただけで足取りがスキップになりそうだった。
帰路につくそんな俺の足を止めさせたのは、路地裏から風に乗って流れてきた血の臭いだった。いつもなら無視を決め込むくせに何を思ったのか足をそちらへ向けてしまったのは、悔しいことに長年の勘からくるものなのだろうか。
「やあ、臨也」
路地裏で伸びていたのは古くからの友人だった。
「………どうも」
見るからに不機嫌なオーラを身に纏った臨也は全身傷だらけの上に、腕に大きめの切傷を負っていてそこが血の臭いの源泉だとすぐに理解した。
「あ、舐めるとよくないよ」
ぺろりと小さな傷を苦い顔で舐める臨也を止める。
「ひょっとして動けないの?」
「動けるよ。ちょっと血止まんなくて」
どうせまた静雄君との殺し合いをしてきたのだろう。学生時代からそうだ。飽きもせずに顔を合わせるたびに周りを巻き込みつつ死闘を繰り広げる。その都度、怪我をして僕の手当てを受ける回数は臨也の方が圧倒的に多い。そんなに怪我するならやめればいいのに。金の羽振りが良いのは有り難いが、セルティとの甘い時間を潰されるのはまっぴらごめんだった。でもまぁ一応友人だし、と溜め息を吐きながらしゃがんで、救急セットを取り出そうとすると臨也の制止がかかった。
「いい」
「なんでさ」
「いいってば。帰れよ」
突き放すように続けた後、臨也が腕の傷に顔をしかめた。量は少なくなってきているがまだ血は止まらない。
「だから僕がやるって」
「いい。やり方教えてくれたら自分でやる」
何をそんなに苛立っているのかイマイチよくわからなかったが、
「そしたら早く帰れ。どうせ首無しが待ってるんだろ」
ああ、なるほど。すぐにそういうことかと察した。
「だから指示して、新羅」
ただ一心に命令を与えられるのを待っている臨也が面白くなかった。だからわざとのんびりした口調で話を逸らしてみる。
「臨也ってすぐに指示して欲しがるよね」
「はぁ?何言って」
「僕の言うことなら何でも聞くの?」
臨也が押し黙った。
昔からそうだった。何かあるとすぐに僕の指示を求める癖があった。言われなきゃ出来ないんじゃない。“僕に命令されること”自体に意義がある。そう勝手に自惚れているんだけど実際どうなのだろうか。
「わかんない」
肯定も否定も投げ出したずるい臨也の返答。もう少し苛めてみる。
「僕が死ねって言ったら死ぬ?」
「かもね」
今度は少しの間もおかない即答だった。本当に臨也はどうしようもない。どうしようもなくなってしまった。手遅れだ。僕がそうさせたのだろうか。参った、僕が責任をとりたいのはセルティだけだというのに。
「……僕のこと嫌いになれって言ったら?」
問うと臨也が顔を上げた。血の滲む唇をわずかに噛み締めて形の良い眉をへにゃりと下げる。
「いやだなあ。そういうこと言うのやめてよ…お願いだから」
消えそうな微笑みを目にして少しやり過ぎたかな、と後悔を覚えすぐに撤回する。
「冗談だよ。ごめん」
臨也は何も言わない。ただ早く帰れと身体全体で僕を責めている。馬鹿だと思った。途端、臨也がまるでそれを読み取ったかのように、馬鹿とか思ってるだろ、と吐き捨てた。僕は素直に頷く。
「…新羅も誕生日に俺なんかと会っちゃって相当不運だね。しかも怪我してるときた。仮にも医者として放っておけない状況かもしれないけど今は勘弁してあげるって言ってるの。早く彼女との愛の巣とやらに帰ってあげなよ。これでも分からない?」
「うるさいなあ」
臨也の言ってる内容の通り、一秒でも早く帰ってセルティのケーキを食べたい。でもいつもなら笑って流す臨也のそんなお喋りも、今は何故だかむかむかする。
「そんなに喋る暇あったらもっと先に言うことあるだろう」
「…ないよ」
「あるよ」
「……ない」
「祝えって」
「…………は?」
「命令だ」
絶え間なく言葉を紡いでいた臨也の口がぽかんと開いたまま止まった。それから、この状況で?と言いたげに赤が滴る自分の腕を見やった。僕はそれに構わない。
「臨也、早く」
一刻も早く帰りたいんだよ。そう続けると臨也は悔しそうな表情になった。
「………おめでとう」
「よし」
僕の言うとおりにしてしまうという臨也の癖が昔から変わっていないことに何故かほっとした反面、今はひどく不安に思えた。そんなに苦しい想いをするならやめればいい。一瞬脳裏を過ったその言葉は、きっと臨也を泣かせてしまう。そうなるくらいならこの停滞しきった状況が続いた方がマシだ、とすぐに打ち消した。
確と祝辞を受け取った僕は救急箱にやっと手をかけたのだった。
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