.『ご飯が食べられなくなっちゃった』
機械越しというのもあったせいか、なんだかひどく無機質な声がそう告げた。俺はまたいつもの戯言が始まったと思って、歯牙にも掛けずに電話を切った。
翌日、いつ見ても腹が立つくらい綺麗なマンションの前に俺は居た。奴の所へアポ無しで訪れるのはそう珍しくない。自分達でも訳が分からないまま人目を忍ぶような関係になってからというもの、殴りたくなった時に、……なんとなく会いたくなった時に、俺は奴の元へ足を向けた。俺から連絡することはほとんど無いにも関わらず、臨也は大体家にいて、眉を下げて仕方ないなぁとお決まりの台詞を呟きながら中へと招き入れてくれる。
「仕方ないなぁ」
今日もその言葉を聞き流して部屋の奥へと進むと、食欲をそそる匂いと共にダイニングテーブルに大量の料理が並んであるのを見つけた。やたらでかい海老やらローストビーフやらが高級レストランのコース料理みたいに並べてあって、まるで今からのパーティーでもおっ始めるんじゃないかと思う程だ。横に立つ臨也を見やる。
「…作りすぎちゃった」
どう見てもそんなレベルではない。
「どうせお腹空かせてるんでしょ。食べてくれるよね?」
例え臨也がウザくても料理たちに罪はない。俺がまだ夕飯を済ませてないことだって、臨也にはお見通しらしい。
「………食べねぇの?」
にこにこ。ひたすら目の前の料理を胃袋に収めている俺の向かいに座る臨也は、ただ俺の食べる姿を見て嬉しそうに笑っているだけだ。そして、その笑顔を携えたまま紙ナプキンで俺の口元を拭いてきた。俺は黙ってされるがままソースを拭かれる。
「言ったでしょ、ご飯食べられなくなっちゃったって」
「あぁ?まだンなふざけたこと言ってやがるのか」
「ほんとなの。なんかね、食欲はあるんだけど体が受け付けてくれないの」
困るよねぇ、なんて他人事みたいに笑みを深くする臨也だったが、もしそれが本当だったら相当ヤバイんじゃねぇの。只でさえ食が細いのに。
「ね、シズちゃんが作ったのなら喉通るかもしれないなぁ」
「ふざけんなよ」
「作ってよ。俺、シズちゃんの作る味が濃くて安っぽいチャーハンすき」
「…褒めてねーぞそれ」
軽口を叩く臨也はいつものように憎たらしく、どこも具合なんて悪そうには見えなかった。だから、それから数日後、新羅から「臨也が倒れた」なんて連絡を貰った時には、思わずマジかよ、と呟いて仕事を早めに切り上げさせてもらう他無かった。
倒れた原因は案の定栄養失調だという。そういえば最近食事が喉を通らないとぼやいてた、と告げると、そうみたいだね、と返ってきた。
「ストレスとか精神的なものが原因だろうね」
椅子に座ったままくるりとこちらを向いた新羅が発した言葉に、俺は耳を疑わずにはいられなかった。探るような眼差しを向けても表情を変えないので、どうやら冗談じゃないらしい。
「…コイツに限ってありえないだろ」
「あはは、確かに。神経図太そうなのにね」
こいつもわりと辛辣なことを言う。横のベッドで点滴を打たれて死んだように寝ている臨也に目線を落とす。前に会ったときより確実に痩せた。顔も気味が悪いくらいに青白い。薄く開いた唇から微かに呼吸が漏れている。生きてる。生きてるけど、あの殺しても死なないようなしぶとい蟲が、今にも事切れそうに見えた。
「ストレスが原因としたら、静雄くんしか思い浮かばないんだけどなぁ」
「はあぁ?」
「だってそうじゃない。これだけ臨也を悩ませられるのは君しかいないよ」
「………俺は、関係ねえ」
付き合ってるかどうかも曖昧だった。たまに人目を気にしつつそれぞれの家を訪れて、飯食って、お互いの気分が偶々合ったら性処理もした。外で出くわしたら相変わらず殺し合って、甘い言葉なんてかけたこともなかった。…少なくとも、俺からは。
「なんでこうも二人して意地張るかなぁ」
新羅の呟いた言葉の意味が分からなくて、分かりたくもなくて俺は臨也を置き去りにしてマンションを後にした。そのまた数日後に望んでもいないのに臨也と顔を合わせることになったのだが。
「な、ん、で!手前がここにいんだよ!」
玄関の前に座り込む黒い物体が視界に入った途端にすぐに引き返したくなった。それを引き留めたのは、踵を返す前にソイツが顔を上げて浮かべた弱々しい笑顔だった。ひらひらと手招きなんかしてくる臨也の首根っこを掴む。
「新羅のとこで大人しくしてろ!」
「大袈裟なんだよ。もうへーきだし、抜け出してきちゃった」
中入れて?と首を傾げる臨也の顔色は依然として悪い。俺はそいつの体を乱暴に下ろして体を押し退けた。家の鍵を開けて中に入り、臨也を外に閉め出そうとすると、隙の無い速さでするりと侵入を試みてくるもんだから、ドアの前で攻防戦が始まった。
「ちょっと!病人外に閉め出すとかどういう神経してんのさ!」
「さっき大したことないって言ってたのはどの口だゴラァ!!」
すると、ぐ、と口をつぐんだ臨也がドアノブを引く力をふと緩め、少しだけ項垂れた。
「…ずっと外で待ってたから寒いの。ちょっとの間だけでいいから…怒らせないようにするから、入れてよ」
「…………」
俺は思わずぎょっとして、急にしおらしくなった臨也を見つめた。抜け出してきたとは本当なのだろう。いつものモコモコしたうざったいコートは着ておらず、この季節にしてはどう考えても薄着だ。剥き出しになった項は、見てるこっちが寒くなるくらいに真っ白だった。
「……何もねぇぞ」
臨也がぱっと顔を上げて嬉しそうに笑った。珍しい表情に虚を衝かれて固まっている内に、俺は今日もまた臨也の侵入を許してしまうのだった。
「シズちゃんまたコンビニ弁当なの?駄目だよしっかり食べなきゃ」
「それ、今一番お前に言われたくねーわ」
俺の右手からコンビニ袋を引ったくって中を漁り始める臨也。独り暮らしの男なんて専らコンビニ飯が多いだろう。
臨也が、俺の作った飯なら食べられるかも、と言っていたのをふいに思い出した。急に来られても冷蔵庫には何もない。もし連絡でもくれていたら、スーパーにでも寄ってったのによ。
「…………何考えてんだ俺」
「?」
「お風呂ありがとー」
寒い寒いとうるさかった臨也だったが、風呂から上がれば頬は少しだけ上気し、顔色もかなり良くなっていた。しかし、未だ食事を受けつけないという。先程も、弁当をかきこむ俺を何が面白いのかニコニコと笑って眺めていた。勝手に抜け出してきやがって、その訳のわからん病気が一生治らなかったらどうするつもりなんだ。やはり新羅に後で連絡しておこう。そうぼんやり考えていると、腰にするりと腕が回ってきた。
「俺がここにきた理由、わかる?」
弾かれたように振り向くと、仄かに桃色に染めた頬の臨也が上目でこちらを見つめていた。
「シズちゃん。俺、まだ寒い」
「…嘘吐け。風呂上がったばっかだろ」
「バカ。そうじゃない」
「……………」
ドクン、と心臓が跳ねる。臨也はそのまま、ぎゅうと体を密着させてきて言った。
「君にあっためて欲しいって言ってるの」
なんだよこの空気。ぬるくて甘い。気持ち悪い。こんなの、
「…ッ意味分かんねぇ」
俺達には、
「………シズちゃんさあ、俺と付き合うの、そんなに怖い?」
ヒヤリとした。新羅の言葉を思い出す。臨也の悩んでいる原因は俺だと。
俺達はいつだって恨みあって、殺し合ってきたというのに、ひょんなことから体を重ねるようになった。最初は只の気の迷いだと思っていた。日に日に心の中で大きくなっていく相手の存在と自分の感情から目を逸らしていたのは、お互い様だったはず。なのに、
「今の俺達の関係ってなんだろうね」
「…さあな」
「…俺はもう、自分の気持ち認めてあげたよ」
俺の前に回り込んだ臨也の目はしっかりと俺を捉えて放さなかった。
「俺は、君と居たい」
まるでこれから死ぬみたいな覚悟を携えた瞳だった。俺は呆けた。まさか、あの意地汚くて、見上げる程にプライドが高い臨也が、こんなにもあっさりと俺が背を向け続けていたことに向き合っていたなんて。俺は、途端に驚きやら悔恨やら安堵やらがない交ぜになった感情になって、只臨也を凝視するしか出来なかった。黒髪から覗く形の良い耳が真っ赤だ。おかしくなってふ、と無意識に小馬鹿にしたような笑いが口の端から漏れる。それが癇に障ったのだろう、キッと眉を吊り上げた臨也の顔がみるみる内に朱色に変わっていく。これは相当勇気を振り絞って伝えたに違いない。そう気付いた瞬間、ずっと胸につっかえていた余計なモンがストンと降りた気がした。なんだ、そんな難しいことじゃなかったのか。
「俺も」
臨也の赤茶の瞳が、ゆらりと揺れた。
「俺も、手前と一緒に居てぇ」
肌寒さを感じて胸元にあるはずの体を掻き抱こうとするが、両腕は空気を掴んだだけだった。眠すぎて目が開かない。寒い。寝ぼけたまま手探りで布団の上のぬくもりを探す。…いねえ、アイツ、どこ行きやがった。
「っ臨也!!」
「何さ」
ガバッと勢いをつけて起きると、臨也が台所からひょこっと顔を出した。すっかり覚醒した頭で状況を処理する。そうか、昨日あのまま…。
「朝ご飯出来てるから早く顔洗ってきて」
味噌の良い匂いがする。俺は言われるがままにさっさと布団を畳んで顔を洗って服を着替えるという一連の動作を、昨夜の出来事に細かく頭を巡らせながら流れるように行った。素直になった臨也は、まあ正直に言ってしまえばとんでもなく可愛かった。終始顔を真っ赤にして、あられもなく俺を求めてくる姿を思い出す。再びざわざわと胸が落ち着きを無くして、ニヤニヤしてしまう口元を手で抑えた。
認めてしまえばこんなにも世界は変わるのかと、清々しい気持ちになった。
部屋に戻ると、テーブルには和食が並んでいた。こんな品数を作れる材料なんて俺の冷蔵庫には無かったはずだ。ということは俺よりだいぶ前に起きて一人買い物に行き、せっせと台所で料理していたのだろう。そう考えると、昨日まで苛立ちしか覚えなかった臨也の笑顔が急にいじらしく思えて、胸が引き絞られるみたいにきゅう、となったのを感じた。
「…いただきます」
「はいどーぞ」
熱々の味噌汁をすする。臨也の作る料理は、悔しいが非の打ち所が無いほど美味しい。普段はそんなにやらないらしいが、レシピを見れば大抵何でも作れるという。
「味薄いかな?シズちゃん外食ばっかだしちょっと気にしてみたんだけど」
「あ?どっちかというと濃いぞ。この卵焼きも」
「え、ほんと?」
「ほら」
あーん、と臨也の口に小さく切り分けてやった卵焼きを箸で運んでやる。雛鳥に餌を与えるみたいだ。もくもくとゆっくり噛み締めて味わった様子の臨也は、眉間に皺を寄せて軽く唸った。
「んー、確かに…。もっとお塩減らすべきだったかなぁ」
「まぁ俺はこのくらいが好きだけどな」
ファストフードに舌が慣れすぎたせいか、こっちの濃い味の方が俺好みだ。よし、次に生かそう、と意気込む臨也に苦笑して食事を再開する。いや、しようとした。
「……お前今、飯食えたよな?」
「へ?あっ、本当だ」
無意識だったのだろう、臨也は目を丸くして自分の喉に手をやった。それからふむ、と少し考えるような仕草を見せた後。
「シズちゃんと一緒になれたからかな」
「…………っ」
「なんか、安心したら治っちゃったみたい」
そう言ってはにかむ臨也に、頭がくらくらした。
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