.本日一件目の取り立てに向かう途中で非常に不運なことに偶然ノミ蟲を見つけた。当然のごとくトムさんに謝って、そのクソ野郎の息の根を止めるために追いかけ回す。
「臨也あああ!!手前、朝から俺の前にツラ見せんじゃねえ!!」
「最悪。今から仕事に行くだけなのに」
うぜえうぜえうぜえ。俺を視界に捉えるなり溜め息を吐いた臨也に怒りが容易く沸点を越えて、衝動が身体を突き動かす。近くにあった自販機をぶん投げるとさらりとかわされた。
「ほんっっっっと、シズちゃんなんて大ッ嫌い」
捨て台詞を吐いたのを最後に、お得意のパルクールとかいう変な技でひょいひょいと逃げてしまった。すっかり見当たらなくなった臨也に、行き場の無い苛立ちを拳に乗せて路地裏の壁を叩き割る。逃げ足だけは早い野郎だ。次に会ったら絶対殴り飛ばす。
「急に抜けてスイマセン、トムさん」
煙草をふかして壁にもたれかかっているトムさんに謝る。いつも迷惑をかけてしまって本当に申し訳がない。するといつになく真剣な顔をしたトムさんと目が合う。
「まあ気にすんな。それより静雄」
「はい?」
「こんな仕事中で悪いんだが…実は結婚が決まっててな」
ま、
「マジっすか」
「ああ、言うの遅れて悪かったな」
「いえ…」
普通にびっくりした。
だがここは後輩として喜ぶとこだ。
「いつ頃っすか」
「来月くらいかな…」
すぐじゃないか。何かお祝いをしなければならない。しかしこういうのは初めてだからどういう物がいいのか分からない。仕方ない、誰かに聞くか。
そんな事を先走って考えていると、トムさんの吐き出した煙がゆっくりと立ち昇って。
「嘘だ」
耳を疑う程あっさりと小さな種明かしが聞こえた。
「へ?」
「静雄は素直すぎるな。今日はエイプリルフールだ。もう騙されるなよ?」
……怒りは覚えなかったが本当に綺麗に騙されてしまった。それからは、言うや否や煙草を揉み消し、早速仕事モードに切り替わったトムさんの後を情けなくついていくしかなかった。
「いやあ、もう完治もいいところだね」
「そうか」
日もどっぷり暮れた時間、仕事終わりに新羅の家に寄った。数日前に喧嘩を吹っ掛けてきた奴等に不意打ちに金属バットで後頭部を殴られ少しだけ腫れた。偶然出会ったセルティに一応新羅に見せた方がいいと勧められたので軽く診察してもらい、また数日後に念のため来て欲しいと言われた。すると傷跡も何も既に無いようで呆れたように新羅に笑われた。
ふと壁にかけられたカレンダーを見てエイプリルフールを思い出す。……よし、トムさんを参考に自然な感じで…。
「新羅、実はおれ結婚が決まっ…」
「嘘でしょ?」
俺の嘘を馬鹿にしたような声が遮った。あまりにもひどい仕打ちに眉が寄った。
「……なんでだよ」
「下手すぎ。しかももう夜だよ。嘘吐いていいのは午前中だけなの」
ほら、用がすんだならセルティとの時間を邪魔しないで帰って、と手でヒラヒラとジェスチャーをする姿に腹が立つ。午前中だけだなんて初めて知ったし、新羅相手には難しすぎたか。
空は暗いというのに池袋の街は明るく賑やかだ。夕飯を考えながら帰路についていると、嗅ぎ慣れた嫌な匂いがした。くせえ。
本能のまま匂いの元を辿ると案の定、携帯をいじりながら歩く臨也を視界に捉えた。
「いざやく〜ん?なんでまだ此処に居やがんだよカスが…!」
「!」
俺に気付いた臨也が苦虫を噛み潰したような表情で携帯を閉じてポケットにしまった。
「…やあ、また会ったね」
「なんで手前の顔一日に二回も見なきゃなんねぇんだよ!」
「俺は仕事帰りなの!そっちが勝手に俺を見つけたんでしょ?」
後退りした臨也がそのまま右足で地面を大きく蹴り飛ばして逃走を図る。器用に人の合間を縫って走る見慣れすぎた黒い背中をひたすら追い掛けた。大体いつも臨也が止まるか、胸糞悪いことに見失うかまで追い掛け続けるのがいつものパターンとなっている。気付けば池袋を出てしまっていたなんてことは当たり前にある。
逃げられるがままついていくと小さな公園に着き、人気の無いそこでようやく足が止まった。臨也は膝に手をやって息を整えてから、ゆっくりと振り向いた。
「…しつこい」
休憩、というように両手を軽く上げて近くの柵に寄り掛かるそいつと間合いを詰める。いつ掴みかかろうかと思案した時、臨也がぽつりと言葉を紡いだ。
「…今日はエイプリルフールだね」
何を言い出すのかと思えば。それは呼び掛けられたようにも聞こえたが面倒くさいので無視すると、臨也は伏せていた無駄に長い睫毛をしばたたかせてから言った。
「大好き」
紅い眼がしっかりと俺を射抜いた。不覚にも心臓が大きく収縮するのを感じる。
「………嘘吐いていいのは午前中だけだ」
口が急速に乾いて、情けない声でそんな言葉しか出てこなかった。眼を反らしたら負けだと思う。
「…知ってる」
臨也が静かに唇を動かす。思わず息を呑んだ。何を考えてるんだこいつは。
「……いざ…」
「それにさ、俺ちゃんと午前中にシズちゃんに嘘ついたしね」
「はあ?」
「……分からないならいいよ」
意味分かんねえ。それまで勝手に話を進めていった臨也は唐突に大きく伸びをして再びぐ、と足を踏み込んだ。
「じゃあまたね」
「……あ?…ッオイ!」
闇の暗がりに溶け込んだ背中をいつもなら殺す勢いで追い掛けるのに、足がその場に固まったように動かない。ついでに思考も使い物にならない。ただ、
『ほんっっっっと、シズちゃんなんて大ッ嫌い』
確かに朝会ったとき、臨也はそう俺に言ったのだ。
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