過ぎゆく時の中で
その日は妙に静かな日でした。
昼頃に山に木の実を取りに行ったっきり眠りネズミは戻って来ず、アリスの訪問の無いことを思ったのか、三月ウサギは「散歩に行く」と出て行きました。
久々に誰もいない静かな家で、帽子屋はいつも通り分厚い本を読んでいます。
机に置いてある、自分でいれた紅茶を優雅にすすった帽子屋は、
「・・・・・・」
いつも三月ウサギや眠りネズミにいれてもらっている味と比べて、少しだけ顔をしかめました。
そんなことをしながら、長い間時々鳴るカップの音とページをめくる音だけの響く時間が続きました。
†
「遅くなってごめんなさい、三月ウサギ。ちょっと昼寝をしちゃって・・・・・・あら?」
玄関から音がして、ちょっとばつの悪い顔をした眠りネズミと恥ずかしそうな顔をしたアリスがリビングに顔を出してきます。
そこでアリスは部屋に帽子屋だけしかいないことに気付きました。
「散歩から帰っていませんよ」
帽子屋は本から顔を上げる事なく、アリスの思ったであろう疑問に答えました。
「散歩って・・・・・・三月ウサギ、いつも夕方にはいるじゃない。もう月が高い時間よ?」
「どっかで道草食ってんじゃねぇの? ウサギだけに」
眠りネズミが言うと、アリスは半眼で彼を睨みます。
「上手くないし。あなた心配じゃないのっ?」
べっつにー、とあくびをする眠りネズミの姿を見ながら、帽子屋は思い出したように、
「ああ、眠りネズミ。ついでに外に茶会の準備を出してください。久々に月光浴が出来そうないい月です」
と、なんともズレたことを言い出しました。
「ちょっと、何がついでよ! 帽子屋さんも心配じゃないの? もしも三月ウサギが誘拐されてたり、カツアゲされて大怪我してたらどうするのよ!」
眠りネズミが口答えをする前アリスが叫んだので、彼は黙ってテーブルや紅茶やお菓子の準備をし、庭へと運び出すことにしました。
「もし、大きな穴に落ちて出られなくなっていたら? もし、誰かにさらわれて助けを求めていたら? 帽子屋さんは、三月ウサギのことを思いやる心はないの?!」
帽子屋は黙ったまま、眠りネズミによって手際よく準備されたテーブルに着き、分厚い洋書を再び開くとおいしい紅茶を飲み始めました。
その様子を静かに見ていたアリスは、目を吊り上げます。
「あたしは心配だから探しに行くっ!」
「おい、もうこんなに暗いんだぜ。てめぇみたいに不慣れなやつがが森に入ったら、今度はてめぇが・・・・・・」
「あたしのことより今は三月ウサギよ!」
アリスは大股で庭を横切り門扉から出て行きました。が、再び家の中から現れます。
「もうっ、なんなのよこの家ー!!」
「だからー、ここは『鍵』がないと出入りできねーんだって!」
帽子屋は静かにため息をつきました。
「眠りネズミ、貴方もアリスと一緒に三月を探して来てください」
「なんでオレが!」
「お願いします」
帽子屋の眼差しは真剣そのもので、それを見たアリスは、
(もう、帽子屋さんも素直じゃないんだからっ☆)
なんて思いましたが、眠りネズミは、
(え、なにこれ、邪魔者廃除大作戦にオレ、使われてる?)
なんて考えつつ、黙ってアリスに付いて行きました。
しかし、眠りネズミはすぐさま庭へと走り戻って参ります。
「帽子屋〜、お客〜!」
眠りネズミは、客人を帽子屋のそばまで案内し、紅茶を入れようと客用カップを準備し始めました。
しかし、客人はその動きを制止して、門扉の前で待っているように言いました。眠りネズミは素直にそうします。
「本当に珍しいですね。こんなに頻繁に貴女が訪れるなんて」
「ただの通り掛かりだわよ」
人払いが済んだ後、客人である蝶子はそう言って、被っていたハットを机の上に置きました。そのまま帽子屋の隣にあるクッキーを優雅に手に取ります。
「このクッキー、本当に好きだわよ。またお土産に頂戴な」
「良いですよ。ついでに良いものを差し上げましょう」
そう言って帽子屋は、ポケットの中から金色に輝くものを取り出しました。
「アハッ!」
思わず、といったように蝶子は手をパチンと鳴らしました。
「まさかあんたがこれを手放す日が来るとはねぇ!」
それは、手の平の大きさの懐中時計でした。帽子屋は未練もなさそうに机の上にそれを置き、蝶子の前まで滑らせました。
「で、一体何をすればいいんだわよ」
「話が早くて助かります」
帽子屋は一呼吸置き、言いました。
「三月の帰りが遅いのを心配して、アリスが騒いでかないません。多分と白兎に捕まって動けなくなっているのかと。私はこの家から出られませんし、何かのついでに見つけたら彼女を手伝ってやってください。お願いします」
「ふぅん、お安いご用だわよ。むしろお釣りが要るくらいだわよ」
それには、帽子屋は含み笑いで答えました。蝶子はその意味に気付き、不敵に笑い返します。
「しかたないんだわよ。貸しを作っておくだわよ」
そう言って金の懐中時計を手に取ると、蓋をパカリと開けました。中にある針は時を刻む事はなく黙り続けています。それに軽く微笑んで、蝶子はぽつりと言いました。
「こんな、時間を教えることもない時計、あたしにとってはガラクタ同然だわよ。だけど、このガラクタに価値を見いだし、宝物のように扱うあんたや『彼女』がいるから、ヒトっていうのは見てて飽きないのだわね」
「・・・・・・」
蝶子はそのまま懐中時計をポケットにしまい、クッキーを何枚かつまんで、それ以上何も言わずに帽子屋に背を向けました。
そして、庭の門扉そばにいた眠りネズミのもとへ行くと、ついでのように蝶子は膝を屈めて、眠りネズミのほっぺに軽くキスをしました。呆然とする眠りネズミに手を振ると、キラキラと輝きながら夜空へと去っていきました。
眠りネズミは顔を赤らめながらしばらく動かずにいましたが、はっとして森へと向かって走ります。
そんな二人の様子を遠くに見ながら、帽子屋は静かになった一人の庭で、
「また一つ、『思い出』が無くなっていきますね」
とつぶやきましたが、その言葉を聞いていたのは、夜空に輝く月だけでした。
†
冷え込んできたのを不快に思った帽子屋は、本だけを手に、リビングへと戻って行きました。火がくべられている暖炉の暖かさを感じながら本を読んでいると、庭先がバタバタと騒がしくなります。
家に入ってきた三月ウサギは、リビングで読書をしている帽子屋に話しかけました。
「心配した?」
「全く。アリスがやれ誘拐だ、やれカツアゲだ、とバタバタしているのが煩わしかっただけです」
三月ウサギはぶつくさと何か言いましたが、帽子屋は軽く流すに留めました。
そして、三月ウサギは帽子屋の椅子に背中を預けます。
「一応言っとく・・・・・・」
その声はかすれていていましたが、帽子屋はふっと笑って何も答えずに本をペラリとめくりました。
その帽子屋の表情を見たものは、どこにもいませんでした。
End
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