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 これは『再生』の物語。


 諸行無常。形あるものはいつか壊れると誰かが言った。それは確かに真理をついているけれど、誰しも愛だとか夢だとか、そんな不確かなものを信じてみたくなるときだってある。

 あれは今よりひとつ前の季節のことだ。岸辺露伴の担当編集者だった女は、六分咲きの太陽が瞬く初夏の日に、歴史深いこの地に降り立った。

『想像と違ったな』

 彼女とはじめて対面したとき、ユウリは瓶底のような眼鏡を隔てて目を丸くしていた。玄関の向こうに広がる外の景色を背負い、「あ、あの、えっと」ともごついた。あのときのことは、今でも鮮明に思い出せる。彼女のいた季節。彼女とともに駆け抜けた、短すぎるあの季節を、露伴は決して忘れない。
 彼女が去っていったあと。ユウリがいたという証、あらゆる痕跡を露伴は追い、宝物のように大切に扱った。たとえばそれは彼女の育てたプランターの花々だとか、彼女の買ったスクリーントーンや、彼女に贈ったドレスによく似た星空だとか。
 彼女を思うと、抗いようのない、もはや否定する余地すらない感情が、露伴の胸にすとんと落ちてくる。それは街行く人々のほとんどすべてに存在するありふれた感情である。形がなく不変的な、おそらく人間のいちばん根本的な情動。露伴の中に息衝くそれは紛れもなく、愛だった。



 岸辺露伴の、漫画家としてはじめての原画展は間もなく、今冬より開催される。先月より販売が開始された前売り券は誇張抜きにして飛ぶように売れ、地方での開催だというのに土日ぶんの入場券はすでに完売が続出しているという。それもこれも、コアな熱狂的ファンを多く魅了し続ける露伴の実力と、そのネームバリューのお陰だろう。予想以上の戦果に、集英社もご満悦のようだった。

 秋の杜王町は穏やかな日差しに包まれ、色づいた木々にはやわらかな影が落ちている。行楽日和ともいえる今日この日に、原画展の記念パーティは催されていた。

「今日は本当にいい天気で。これは幸先がいいですね」

 見合い席の世話人のような台詞を、露伴の担当編集者、佐藤が言った。彼はユウリの元上司であり、かつてユウリを露伴のもとに送り込んだ張本人だ。ユウリが編集部を去ってから、人員不足のため仮という形で露伴の担当を務めている。

 パーティは露伴にも馴染みのある杜王グランドホテルで行われていた。これは露伴の知るところではないが、すこし前にユウリはここで寝泊まりしていた。
 ホテルの二階にあるイベントホールを大々的に貸し切り、集英関係者だけでなく市長やマスコミ、協賛各社の上層部を招いての一大イベントとなっている。

 午後四時ごろより開宴したパーティは、編集長の挨拶に始まり、立体化を望む声が多く上がっている『ピンクダークの少年』の試作品フィギュアの発表や、ゲストとして招いたアーティストのミニコンサートなどで大いに盛り上がっていた。
 原作者である露伴の挨拶は、プログラムの中盤に組み込まれている。彼は一連の流れをまるで他人事のように感じていた。表情を彩ることも忘れて、無駄に高価なワインを、ろくに味わうこともなくぼんやりと飲み続けた。
 挨拶と酌をしにくる客人たちだけが、露伴の目の前で、めまぐるしく入れ替わっていく。主役のはずの露伴はこの会場でただ一人、置き去りにされているのだった。

 献盃のラッシュがようやく落ち着き、露伴は椅子に深く座りなおした。背もたれが軋むほど、身を寄り掛からせる。その様子に、隣の佐藤が、露伴以上に疲れたような苦笑いを見せた。

「お疲れ様です」
「ああ…、本当に」

 ふうと大きく息を吐き、ネクタイを緩める。飾り気のないシンプルなグレーのスーツ。ストライプの模様が露伴の体をさらに細く見せている。普段あれだけわけのわからない前衛的な衣服を好んで着ているせいか、礼服を纏った今の露伴はどこか窮屈そうだ。

 愛用のメタルフレームの眼鏡、そのブリッジ部分を中指で押さえ、ユウリの元上司だった男は「もうすぐ先生の挨拶ですね」と言った。思慮深い険しい目元がレンズ越しにこちらを見ている。細くつり上がったその目からは、部下や同僚、そしてたとえ上司であっても、気に入らなければ噛みつくような気の強さと、神経質さが窺える。彼とはあまり馬が合わないだろうと、会った当初から露伴は予感していた。
 結婚式のような丸テーブルの上には、客人たちが置いていった名刺が大量に散らばっている。佐藤は手早くそれを拾い集めると、グッチのカードケースに収納した。露伴のグラスが空になっていることに気づくと、佐藤はボーイを呼びつけ、

「先生、お好きなものを」

 と、露伴に向けて手をひらいた。露伴は「ああ…」と顎を引き、同じグラスワインを注文した。
 こんな晴れ舞台だというのに、先ほどからずっと浮かない表情で、どこか上の空ともいえる露伴。人嫌いで有名な彼のことだ、やはりこういった大勢が集まるイベントは面白くないのだろうか。佐藤はスパークリングワインを口に含みながら、そんなことを思った。

 やがて露伴のもとにワインが運ばれてくる。ほんのりと色づいた白ワインが、同じように透きとおったグラスの中で波紋を描く。

 開宴して一時間も経たないうちに、露伴は、ユウリの姿を探すことをやめていた。彼女に対する未練はまだ色濃く残っていたけれど、それ以上に、精神衛生上宜しくないと判断したのだ。
 やれることはやった。それでも彼女は姿を現さなかった。これが、自分自身の招いた凡庸な悲喜劇の結末なのだと、露伴は静かに理解した。叱咤激励してくれた仗助に、なんと言ったらいいかわからなかった。

 会場には多くの女性客がいる。着飾った彼女たちは遠目からでも美しく華やかだ。ユウリとは似ても似つかない。あの群衆の中の誰かを愛せたらどれだけラクになれるだろう。

『露伴先生』

 優しい声色を思い出す。怯えたような表情も、たどたどしい喋り方も、脱力したような笑顔も何もかも、露伴はその五感でもって、はっきりと記憶している。弱々しい笑顔の、臆病な年上の女。憧憬にも似た思いは、露伴の中で螺旋を描き、どんどん色濃いものになっていく。

「露伴先生」

 彼女の声が、耳の奥でわだかまる。奇妙なほどリアルな感覚。

「露伴先生」

 やわらかい女の声。円形テーブルの斜め隣に座している佐藤が、目を丸くして露伴を見ている。いや、正しくは露伴の背後を、だ。

「露伴先生ってば」

 ふり返るのと同時、露伴の肩に、とんと落ちるように手がふれた。幾度となく振り払い、そして掴みそこねてきた小さな手だ。露伴がふり返ると、その手は胸のあたりできゅっと握られた。その背後で浮かび上がる、星々の輝く夜空のような、ストーンやビジューで飾られた黒羽のドレス。
 一陣の風が吹き抜けるようだった。胸元から撫でるように視線を上げると、そこには出会ったころと変わらない、ユウリの困ったような笑顔があった。

「……………」
「お久しぶりです」

 と、グロスで彩られた艶やかな唇が、そんなかたちに動く。露伴は目を見開いた。

「……ユウリ……」

 もっと。もっと言いたいことが、沢山あったはずなのに。口の中がカラカラに渇いてしまって、舌が上下の壁に張り付くようだ。露伴は、彼女の名を呼ぶので精一杯だった。
 呆然とこちらを見上げている露伴に、ユウリはすこし笑って、
「お招きいただき、ありがとうございます」
 と頭を下げた。他人行儀だが、いやなかんじではなかった。

「…あの、先生?」顔を上げると、ユウリは言った。頬を撫でるようなその声に、はっと露伴の意識が引き戻される。

「…どうして、ここに」

 口を衝いて出た言葉は、おかしな響きをもっていた。どうして、だなんて。自分で招待状を出したのに。

「どうしてって。露伴先生が招待状をくれたんじゃないですか」

 そう言って、口元に手を持ってゆき、眩しそうにユウリは笑った。その手首には、金細工の細いブレスレットが光っている。

「…来てくれたのか」そう。言いたかったのはこういうセリフだ。「もう二度と会えないかと思った」

 脱力したように言う露伴。その言葉どおり、ユウリは、もう二度と彼には会わないつもりだった。けれど、露伴への気持ちと、仗助が、背中を押してくれたのだ。

「…仗助くんのおかげです」
「仗助の?」
「はい。彼のおかげで、決心がつきました」

 そう言うと、ユウリはそのシャープな顎を引いた。どこか自信のなさそうな顔立ちは出会ったころから変わらないが、今ではすっかり化粧が施され、きちんと整えられている。宴会のざわめきの中で、ユウリは露伴だけを見据えていた。

「決心?」
「はい」ユウリは頷くように一度まばたきをした。「自分の気持ちと…露伴先生を信じようという決心です」

 露伴はなにも言えなかった。黙って次の言葉を待った。

「私、ずっともう、露伴先生に嫌われていると思って…傷つくのが怖くって、逃げていました」

 露伴の激情に触れ、押し倒されたときのこと。その傷も癒えぬまま露伴に向き合い、歩み寄り、そしてまた心に深い傷を負ったときのこと。記憶のページをめくるたび、ユウリの細い手首に震えが奔る。

「私の代わりはいくらでもいるって言われたとき、もうダメだと思いました。実際そのとおりで、もう、何も考えられなくて…。私には露伴先生の隣にいる資格なんてないって、そう思いました」

 でも、と語気が強くなる。握った手の中で爪先が食い込んだ。

「逃げてばかりじゃダメだって、私、やっとわかりました。自分の気持ちも言えないままじゃ、うまくいくはずないって。私も成長しなくちゃいけないって、思ったんです」

 ―――だから。
 ユウリは伏せ目がちだった視線を露伴に向けた。
「私、正直に言います」
 一縷の歪みも澱みもない、真っ直ぐな瞳だった。
「私は…」


 ―――露伴先生が、好きです。

  
 ごく、と露伴の喉が上下した。石のように硬質な唾がゆっくりと喉元を下ってゆく。陳腐なメタファーだが、彼女の言葉が矢となって、胸に刺さるかのようだった。
 ユウリの目はふたたび伏せられたが、一瞬の間をおいてすぐに、勢いよく顔を上げた。彼女の顔は熟れた林檎のように赤かった。「あのッ…」

「あ、あのっ。だからって別に露伴先生とお付き合いしたいとかそういうんじゃあなくて…いや、そうなれたら一番いいんですけど…ああもうそうじゃなくて!」

 自分でもなにを言っているのかわからない。ユウリは恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆う。
 先の言葉に、呆気に取られていた露伴だったが、目まぐるしく変わる彼女の表情を見ているうちに、刺さった言葉の矢が溶けだし、じわじわと胸に広がってゆく。やがてそれは全身のすみずみにまで行き渡り、あたたかな幸福感で彼を満たした。まだなにか言おうとしているユウリがいじらしかった。

「あ、あの…」ユウリは涙目になっていた。「つまり、あの、私、自分の気持ちに正直になりたくて…」

「わ…私、露伴先生のそばに居たいんです。傷付いたこともあったけど、やっぱり私、自分の好きな人のことを…露伴先生のことを、もう一度信じてみようって、思ったんです」

 ドレスから露出した小さな肩が震えている。それは寒さからくるものではなく、ユウリが勇気を振り絞っているという証である。

「勝手なことばかりしてすみません。…でも私、露伴先生のそばにいたいんです。もう離れたくない。どんな形でもいい。もう一度私を、そばに置いてくれませんか?」

 夢を見ているようだった。さざ波のように心地よい酩酊感が露伴の胸を打つ。そのわきでは運営係のキャストが「そろそろ挨拶の時間です」と露伴を壇上へ誘っている。ユウリはあわてて「あ、どうぞ、私のことは気にしないで」と言った。

「返事はいつでもかまいません。私、待ってますから」

 八の字に眉を下げ、力なく、はにかむ。希望を纏ったその笑顔は今までに見たどれよりも可愛らしかった。
 露伴は出会ったころから今までの、彼女の変化を愛おしく思う。仗助の言うとおりだった。どれだけ失敗しても、やり直すことはいくらでもできる。誠意をもって接すれば、いつかきっと償えるはずなのだと。
「ユウリ」と、露伴は彼女の名を呼んだ。会場の喧騒の中で、二人の間にだけ静寂が流れていた。

「…今まで、悪かった」

 ―――戻ってきてくれてありがとう。
 消え入りそうな声だった。聞こえたのか聞こえなかったのか、ユウリはきょとんと目を丸くしている。

「続きは戻ってきてからだ」

 露伴は立ち上がると、人さし指を元担当編集者に突きつけた。「あと、そのドレス」

「僕の見立てのおかげだな。よく似合っている。綺麗だぜ」
「!」

 早口に言い切ると、露伴は彼女に突きつけていた人さし指で額を掻いた。ちら、と見やれば、ユウリの表情は笑顔で彩られている。喜びを噛みしめるような、どこか切なげな笑顔だった。リップグロスで濡れた唇は弧を描き、その目は今にも泣きだしそうだ。

「ありがとう、ございます…」

 ユウリは、それだけ言うので精一杯だった。彼のその一言で、苦悩や葛藤、彼を愛しいと思うこの気持ちさえ、報われるようだった。壇上へ向かってゆく露伴の背に、ユウリは声を振り絞る。

「…行ってらっしゃい、露伴先生」

 私はずっと、待っています。そうつぶやくユウリの声は、果たして露伴の耳に届いただろうか。
 極彩色とモノクロが出会い、混じり合う。二人の物語は、例えるならそんな単純なところから始まった。




アンドロメダ《Andromeda》
2013.08.25 fin.
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