24
 太陽が大地を焦がすような季節はもう去った。アンドロメダ星雲の瞬く初秋の空を独りで見上げ、かの人を想う夜もあった。
 どれだけ時間を重ねても、満たされることのない喪失感。
 ユウリが露伴のもとを去ってから、もう三ヶ月近くが経とうとしていた。

 ユウリは集英社を辞めた後、東京郊外の小さなオフィスで働いていた。
 さすがに集英社には劣るけれど、給料はまあそこそこで、なにより社宅が新築で綺麗なのがいい。
 今の暮らしにも慣れはじめていた秋深のある日、ユウリは自宅そばのファミレスでメロンソーダを啜っていた。
 テーブルを挟んだ差し向かいには、目の覚めるようなリーゼント頭。
 学生服に包まれた180cmもの巨躯をだらしなくテーブルに突っ伏して、不良と呼ぶにふさわしい容姿の少年―――東方仗助は、できたてのポテトフライをつまんでいだ。

「ったくゥ。探したッスよ、ユウリさん!」
「あはは…」唇を尖らせる仗助に、ユウリは力なく笑う。「ほんと、久しぶり。よくここがわかったね」

 ポテトをモグモグと咀嚼しながら、仗助は「まァな」と胸を張った。ニカッと子どものように笑う姿が可愛かった。

「いやーホント、承太郎さん達に感謝感謝ッス」
「承太郎さんって?」
 聞き慣れない名に、ユウリが尋ねる。
「あッ、いや、承太郎さんは俺の甥っ子で」
 言ってから、あの美丈夫を甥っ子と呼ぶのは絶対に間違っていると気づく。
 案の定、ユウリは「甥っ子をさん付け?」と不思議そうに首を傾げている。

「あァ、いや、なんつーか!まあそれは置いといて…」

 十歳以上も年上の甥がいるなどといちいち説明していたら面倒だ。仗助は、わざわざSPW財団の力を借りてまでユウリの居場所を探し出した理由を、簡潔に話すことにした。

「あの〜、これ。ユウリさんにって預かって来たんスよ」

 そう言って差し出されたのは、一枚の封筒だった。勿忘草の色をした紙地に、星柄のエンボス加工が施されている。

「なにコレ?」

 開けていい?と確認してから、おそるおそる封を切る。
 中に入っていたのは、間もなく開催される予定の、露伴の原画展、その記念パーティの招待状であった。

「それ。渡してくれって、露伴に頼まれたんスよ」
「露伴先生に…?」

 頷くかわりに、仗助はニッと人懐こい笑みを浮かべた。
 どこか放心したようにチケットを見つめ、ユウリは、どうして、とつぶやいた。それは仗助に対してでも、露伴に対してでもない、無意識のうちに出た言葉なのだった。

(露伴、先生………)

 眩暈がしそうだった。忘れたくても忘れられない、あんなにも愛しくて、あんなにも遠かった、天邪鬼なあの人が、今でも自分を覚えてくれているなんて。
 今でも彼の中に、たとえほんのすこしでも自分が存在しているのなら、こんなに嬉しいことはない。

「露伴先生は、元気?」
 声がふるえる。それだけ言うので精一杯だった。
 仗助はコーラをひとくち飲むと、うーんと唸るような声を出した。
「あァ〜、まあ、元気っちゃー元気かな」

 この少年は何もかもを見透かしている。彼は見た目より遥かに聡明で優しいのだ。
 二人のことを、当事者以上に理解している仗助は、宥めるような口調で言った。

「つーかよォ、そりゃあユウリさんが一番よく知ってンじゃあねえの?」
 優しい瞳で見つめられ、ユウリは視線を逸らすように俯いた。
「そ、そんなこと…。私には露伴先生のことなんて…」
「それ、本気で言ってンの?」
「………」

 普段の仗助とは違う、強い口調。
 仗助はもはやすべてを悟っていた。思いがほとんど通じ合っていながら、ここまですれ違い、そして離別を選んだ二人が、仗助にとっては悲しく、痛いくらいにもどかしい。
 スタンド≪ヘブンズドアー≫を使おうと思えばいくらでも使えたのに、露伴はそれをしなかった。
 グラスの中の氷をストローでつつきながら、仗助は、露伴の心情を思う。
 露伴はきっと怖かったのだ。ユウリの気持ちを知ってしまうことが。
 高飛車を気取っているくせに、彼はたまに人間くさいところを見せるのだ。


 まだユウリが露伴のもとを去って間もないころ、仗助は岸辺邸を訪れ、二人の別離の一部始終を露伴に聞いた。他人事ながら、仗助はたまらず激昂した。
「なァっ。アンタ、これでいいのかよ!?」
 脱力し項垂れる痩せた体、その胸倉を掴み、
「てめーッ、露伴!! ちゃんとオレの目ェ見ろよッ」
 と揺さぶった。

「オレ、ずっと前 アンタに聞いたよなァ。アンタは一体どーしたいンだって…、アンタはユウリさんをどうしたいンだって聞いたよなァ!?これがその答えかよ!?」

 露伴らしくもない、弱々しい光の宿った大きな黒目。それが仗助に向けられるのとほぼ同時、露伴はゆるやかに首をふった。

「違う。僕は…」

 ぐ、と掴んでくる腕は驚くほど繊細で、いつもの挑発的な彼の姿は見る影もない。いやなものを咀嚼するようにもごもごと口を動かし、僕は、と小さく繰り返す。

 バツッと突き飛ばすように解放してやると、露伴はすこしよろけて壁に手をついた。

「僕はただ、…そばにいて欲しかったんだ」
「何?」

 かすかに聞こえた、抑揚のないその声を、仗助は聞き取ることができなかった。聞かせる気もなかったのかもしれない。

 露伴は唇を噛み、俯いた。目を閉じても、思い出すのはユウリのことばかり。我ながら女々しいヤツだと自嘲する。

『なァ、露伴先生は、どーしたいンだよ』

 仗助の言葉とともに、ユウリの泣き顔と笑顔とが、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
 今までは自分でも、自分の気持ちがわからなかった。
 けれど、彼女を喪失した今でははっきりとわかる。
 自分はただ、彼女に、そばにいて欲しかっただけなのだと。

(でも、もう、僕は取り返しのつかないことを―――)

 ずる、と華奢な体が床に崩れ落ちる。
 仗助は彼の前に仁王立ちで立ちはだかると、
「アンタ、なに諦めてんスか」
 と人さし指を突きつけた。

「確かに過去は変えられねえし、やっちまったもんはどうしようもねえ」
 でもな、と声を張り上げる。
「どれだけ失敗したってよォ、やり直すことはいくらでもできるだろ!?アンタにその気がありゃ、きっと償えるハズだ。簡単なことだぜ?ほんの少し、自分に正直になりゃァ良い。それすらもできねェってンなら、一生そうやって後悔してろ!」

 露伴は顔を上げた。ふっくらとした唇がかすかにふるえている。

「償う、って、そんなこと…」
 言葉の途中で、仗助はふんと鼻を鳴らした。
「許すとか許さねーとか、それを決めンのはユウリさんだ。アンタは自分のすべきことをやれば良い」
 それに、と仗助は続ける。
「ましてや俺は当事者でもなんでもねえし、こうして首を突っ込むこと自体、お門違いってヤツなんだけどよォ」
 ―――アンタが望むなら、手伝ってやらんコトもないッスよ?
 そう笑う仗助の表情は、いつものすこしとぼけた少年らしいそれに戻っていた。

「…ふん」

 ゆっくりと立ち上がり、露伴はこちらを一瞥した。

「手伝いたいンなら、素直にそう言ったらどうだ?」

 そう言って、ぷい、とすぐに目を逸らす。
 腹立たしいほどの高圧的な態度だが、今に限っては、仗助も、いつもの調子が戻ってきたなァと内心ほっとした。

「言っとくけどよォ、こりゃアンタの為じゃあなくてユウリさんの為だからなァ」

 煽るように顎をしゃくると、露伴はわかってると言わんばかりにそっぽを向いた。

(なァんか今日のオレ、ちょっとカッコよくないッスか?)

 へへ、とおどけたように笑う仗助だが、今の露伴には、そんな彼がほんのすこしだけ、心強く見えていた。











 仗助と別れ、帰宅したユウリは、真っ先に寝室へと向かった。
 雨雲の切れ間からのぞく西日。ノスタルジックな色合いの光に照らされたベッドに勢いよくダイブし、仗助と話した内容を思い出す。浮かんでくるのは露伴の顏ばかり。

「私には露伴先生のことなんて…」
「それ、本気で言ってンの?」
「………」

 その会話のあと、仗助は続けた。

「アンタの知ってる岸辺露伴は、何とも思ってねェ女にブランドもんのドレス買ってやったり、メシ作らせたりするよーなヤツなのかよ?」

 なにも言えなかった。ユウリはただ首をふることしかできなかった。
 言いたいことも言えない、そんな自分が昔から大嫌いだった。そんな自分を、ほんのすこしだけ、露伴が変えてくれたのだ。

「私の知ってる露伴先生は…」

 高飛車で、ワガママで。人の言うことなんて、ちっとも聞いてくれやしない。好きなモノは好き、嫌いなモノは大嫌いとハッキリしているくせに、たまにそれを素直に出さない天邪鬼。

 一息に言い終えると、仗助は、
「よくわかってンじゃあないッスか」
 と、親指と人さし指で輪っかをつくった。

「ユウリさん。もっと自分の気持ちに素直になってくださいよ」
「自分の、気持ちに…?」

 仗助は頷いた。

「露伴がそんなヤツだってわかってるなら、ユウリさんがもっと自分の気持ちに正直にならねェと。怖いかもしれねえッスけど、勇気を出して」
「………」

 その言葉に、ユウリの胸の重しがすこしだけ、軽くなった。

「…そう、だよね…」

 俯きがちにユウリは言った。

「ありがとう、仗助くん。なんだかすこし、ラクになったよ」
「へへ。それならよかったッス」

 仗助は頬を掻くと、ほんとに二人とも、いい大人のクセに世話が焼けるんスから!と、まるで幼子を褒めるかのような、カラッとした口調で笑うのだった。



(仗助くん、ありがとう…)

 彼には露伴とのことで、本当に世話を…いや、迷惑を掛けた。全然足りないけれど、せめてこれくらいはとファミレスでの食事代はユウリが出した。

 仗助の、子どものような笑顔を思い浮かべながら、ユウリは彼から受け取った封筒を手に取った。
 封筒を開け、中に入っていたチケットを取り出す。
 ベッドに仰向けになり、それを眺めてみると、ふと、裏面になにか文字が透けていると気づく。

「これ…」

 裏返してみると、そこにはボールペンで一言、
『待っている』
 とだけ、書かれていた。

(露伴、先生…)

 懐かしい露伴の文字に、急に胸が苦しくなる。
 いてもたってもいられず、ユウリはベッドから降り、立ち上がった。
 そのままふらふらとクローゼットに向かい、扉を開ける。
 ユウリの指先は迷うことなく濡れ羽色の布地にのばされた。秋の夜空に浮かぶ星座を思わせる、ビーズやストーンのたっぷりとあしらわれた豪奢なドレス。かつて露伴に贈られたそれは、ユウリの大切な宝物になっていた。

 新品同様のドレスを胸に抱きしめて、夢想に耽る。
 露伴と二人きりで街に繰り出した日に、彼が、自分のために買ってくれたドレス。
 二人で街に出かけたあの日がもう、遠いむかしのことのよう。懐かしいようで、けれど決して色褪せることのない鮮明な記憶。あの日の思い出は、ユウリにとってはドレスと同じ、大切な大切な宝物だ。

 優美なマーメイドラインのドレスを胸に抱き、ユウリは窓の外、ほとんど日の沈みかけた東京の空を見つめた。外はちょうど雨が降り始めたところであった。
 パーティの日取りは、翌月の第三日曜日。夕暮れを過ぎた空は群青と橙との境界がひどく曖昧で、降りだした雨によって景色はさらに不鮮明になっていた。
 しかし、今のユウリの目には、それさえも、とても澄み渡っているように見えた。
 夜の色をした美しいドレス。これを着て、露伴の前に立ってみせたなら、彼は今度こそ、自分を綺麗だと言ってくれるだろうか。
 目蓋に焼き付いた、懐かしく愛しい男を思い、ユウリはドレスに口づけた。





2013.08.05
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