メロウ
 フォークを持つ白い指先に視線を落とす。
 誘うような容姿と服装には似つかわしくなく、爪は短く切りそろえられており、中指には細いリングが嵌められている。
 そのまま観察していると、指先はフォークを操り、流れるようにパスタを絡め取った。視線は自然と唇へと移ってゆく。
 ルージュに彩られた唇。『愛している』だけなら三十ヵ国語話せるのよと、いつか笑っていた唇。

「…そんなにジッと見ないでくれる?」

 食べづらいわとユウリが笑った。

「…悪い。つい、な」
「つい、って何よ。そんなに自分の部下とやっちゃってる女が珍しい?」
「お前な…」

 少しは言葉を選べ。
 辺りを見回しながら、苦笑い気味に言うブチャラティ。
 いいじゃあないのと軽くこぼして、ユウリはパスタを頬張った。


 ユウリとブチャラティ。彼らが二人きりで居ることは珍しい。
 ユウリの仕事内容を理解しているブチャラティが、わざわざ自分から彼女に接触しに行くことはなく、ユウリもまた、特に理由なくブチャラティに会いに行ったりということもない。
 『何かが噛み合わない』ということを、互いに理解しているのだろう。そうして何年も共に平行線上で生きてきた。


 しかし、

「ユウリ。先日は、すまなかった」
「…何のこと?」

 口の中のものをコクンと呑み込んでから、首を傾げる。それは演技ではなく、本当に何の事かわかっていないようだ。
 ブチャラティは店員を呼びとめると、コーヒーと紅茶をオーダーした。

「パーティでのナランチャのことだ」
「ああ」

 あの時のコト?
 何だそんなことかと言わんばかりに、ふたたびパスタを絡めはじめる。

「助けてもらったらしいな…。俺からも礼を言う。ありがとう」
 運ばれてきた紅茶を差し出しながら、ブチャラティは続けた。
「悪かったな。本来ならアイツがお前を守らなきゃあいけねえ立場だってのに」

「別に良いわよ、そんなこと。アナタに恩を売るつもりであの子を助けたワケじゃあないもの」

 あのままワケのわからないクスリにやれたら、連れの私が尻拭いするハメになっちゃうじゃない。そうするしかなかったのよ。
 ―――そこに、損得以外の感情が全く無かったと言えば嘘になるのだが、今はそれを口にする必要はないだろう。

「でもよくナランチャがアナタにこんなコト話したわね。仕事中に口説いてきた男にまんまと薬盛られて、挙句の果てに依頼人に助けられるなんてこと」
「あぁ…。まァ、かなり堪えてたみたいだがな」

 報告に来た時のしょぼくれた顔を思い出し、ブチャラティは笑ってしまいそうになるのを咳払いで誤魔化した。

「反省しているのなら何よりだわ。そもそも、あんなチンピラもあしらえないようじゃあブチャラティの方が困るでしょう」
「そうだな…返す言葉もない」
「言っておくけど、次からは有料だからね」
「わかってる」
「…一応、そいつの身元も調べておいたけど、ただのホモの小悪党だったわ。ナランチャがウチの組織の人間だって知ってて近づいたワケじゃあなかったみたい」

 カラになった皿をテーブルの端に寄せ、まだ温かい紅茶に口を付ける。
 その様子を眺めながら、ブチャラティはおもむろに呟いた。

「お前、少し変わったな」
「…え?」

 きょとん、とユウリが目を丸くする。
 変わった?私が?どんなふうに?
 言葉はなくとも目がそう捲し立てている。ブチャラティは少し考えてから、

「…うまく言えないが…何と言うか、以前よりも人間らしくなった気がする」

 ずる、と椅子から転げ落ちそうになるユウリ。

「何よそれ。前は人間らしくなかったって言うの」
「…いや、そうじゃあない。何と言うかだな…」思慮深く、顎に手を当てる。「…以前のお前だったら、何の見返りもなくナランチャを助けたりしないだろ」

 ………。

「す、するわよ。するに決まってるじゃあない」
「目が泳いでるぞ」

 見透かしたように微笑みながら、ブチャラティは脚を組みかえる。

「何にせよ、良い変化だと思うがな」
「それは。良い女になったってコト?」
「…まァ、そういうコトだな」

 まァ、って何よ、まァって。
 そうは思ったが、それは心の中に仕舞っておく。

「アナタにそんなコト言われるなんて、思ってもみなかったわね」そう言って、紅茶を一口、啜る。「ナランチャを紹介する時、良い顏しなかったのにね?」
「…まあ、な」

 ほんの数ヶ月前のことを思い出す。ポルポに呼びつけられ、『ユウリがあの新入りを欲しがっている』と聞かされたときの、あの得体の知れない嫌悪感。身体的にも精神的にもまだ未発達なナランチャを、あの魔性の女医者に預けるなど。
 フーゴと同じような傷と枷を、彼に背負わせたくはなかった。
 私利私欲の為に他人を犠牲にし、同時に、いつふらりと消えてもおかしくない、生命や魂の希薄さが、当時のユウリにはあった。


 けれど、今は違う。
 ナランチャを語る優しい眼差し、所作のひとつひとつに宿る温かなもの。それらは以前の彼女にはなかったものだ。

(…ナランチャに絆されたか?)

 決して、口には出さないが、ブチャラティはやや確信めいたものを感じていた。
 そう時間も掛からず彼女の毒気に当てられてしまうと思っていたが、まさかユウリの方が先に、ナランチャによって心を動かされるとは。カタルシスなど、彼女にはもっとも遠い言葉だと思っていたのに。

「…俺はもう行くよ。仕事が残ってる」
「そ。じゃあ私も出るわ。御馳走様」

 パスタとミルクティーで済むなら安いもんだと笑いながら、ブチャラティは立ち上がる。

「お前、仕事はいいのか」
 そう問うと、ユウリは視線を上方に逸らした。

「まあ、予定も入っていないし、…それに」

 最近なんだか、そんな気分になれないのよね。

 そう言って、静かに出口へと向かうユウリ。
 痩せた背中。強い女を演じているような長い髪が、淡い照明で透けている。

(……ユウリ、お前……)

 不意に、胸にこみ上げてくるものがあった。何かが始まる予感がする。彼女の背を見つめながら、ブチャラティは、漠然とそう感じ取っていた。




2013.6.24
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