神の指先01
 他人に誇れる容姿や特技はないけれど、私は美しい手首を持っている。それは私自身の肉体の一部のことではなく、いつも私のそばに見えている青白い手首のことである。
 その手首は物心ついたころから私のそばに存在していた。
 不思議なことに、この美しい手首は私以外の人間には見えていないのだった。
 しかし、それはむしろ幸運であると思える。生白い手首だけが宙に浮いている姿など、きっと誰が見ても叫び、ふるえあがるだろうから。

 この手首には特別な力が備わっていた。それは、触れた相手を甘美恍惚のトランス状態に陥らせる、というものだ。
 触れた部位の感覚を倍増させる能力。快楽も熱も、倍にして感じさせる。
 怖くて試したことはないけれど、おそらく痛みも同様だ。

 その能力に初めて気づいたのは小学生のとき。もう十五年近くむかしのことだ。
 その日の下校中、通学路で犬の散歩をしている人がおり、犬好きの私は飼い主の許可を得てその黒い犬を撫でまわしていた。
 その犬のあまりの撫で心地の良さに、手がもうふたつあったらもっとたくさん撫でられるのに、と思った。
 そして私にはちょうど手がもうふたつあったので、その欲望の命じるまま、私の頭上で待機していた手首で犬に触れた。

 異変はすぐに起こった。それまで尻尾を振っているだけだった黒犬が、急に息を荒げ、へこへこと私の腕や脚に腰を擦り付けはじめたのだ。犬の性別はオスだった。
 飼い主がやめろと怒っても、彼は動くのをやめなかった。幼かった私は急に怖くなって逃げ出した。赤々とした犬の性器が頭から離れなかった。

 幼少の時代にそんなことがあり、小心者だった私はあの手で他人に触れることを恐れていた。
 しかし、身体も心も成長するにつれ、その恐怖は徐々に薄れてゆき、高校生になったころから、当時付き合っていた恋人たちにその能力を使うようになっていた。
 『手首』の効果は絶大で、どんな男であっても陥落させることができた。
 中には泣いて別れを惜しむ男もいた。そんなに良いのだろうかと自分自身にも何度か触れてみたが、残念ながらなにも変化は起こらなかった。能力は他人にしか使えないらしいと知った。

 しかし私はこの手首を愛していた。自分自身には何の効果もないとわかっていたが、私は暇さえあればその青い指先で、自分の指や頬をなぞったり、口づけをしたりしていた。
 どれだけ眺めていても、飽きることはなかった。
 こうして、長い年月をかけて、私は倒錯的なまでの手指愛好家に成長していったのだった。


 外見や性格などよりも、手の美しい男性に魅力を感じる。
 ひび割れていなくて、繊細で、爪もきちんと切ってある、長い指先。
 私と、私のもうひとつの『手首』はいつも理想の相手を求めているのだった。


「終わったかい」

 不意に、意識が現実に引き戻される。
 隣を見ると、先輩社員の吉良吉影が面倒くさそうにこちらを向いていた。
 私たちは、勤務先で残業を片付けている最中だった。吉良さんは、おそらく、夢想に耽り、手の止まっていた私に痺れを切らして声を掛けてきたのだろう。

「…まだです、もう少しで終わります」

 そう言って、キーボードに指を走らせる。
 吉良さんは細く息を吐き出して、自身のパソコンに向き直った。

「………」

 広いオフィスには私たち二人しかいない。
 横目で吉良さんを盗み見る。
 ―――正確には、吉良さんの手、なのだが。

 つくづく、この企業に入社して良かったと思う。入社してすぐに配属されたこの部署で、私は、考え得る最上級の美しさの手首を見つけたのだ。
 その持ち主が、吉良吉影。
 血管の浮いた、神経質そうな手の甲。のびすぎてもなく、深爪もしていない長い指先。それでいて手首はほっそりと骨ばっており、彼の形成するそれらは、あまりにも完璧すぎていた。
 デスクが隣なのを良いことに、理想的なその手首を、私は毎日のように眺めているのだった。

 やわらかく、マウスを握る手をじっと見つめる。思わずため息がこぼれそうになる。自分の中の、欲望の炎が静かにゆらめく。

 彼の手に触れたい。そんな衝動に駆られた。
 私のもうひとつの『手』は、私以外の人間には決して見えない。その法則を頭の中でぐるぐると廻らせながら、ゆっくりと『手』を彼の方へと近づけた。

 想像する。すべらかな手の甲を撫で、こわばった指先をもてあそぶ、その瞬間を。


―――しかしそれは叶わなかった。

「どういうつもりだ」

 今までに聞いたことのない低い声。
 同時に、彼の背後からのびた腕に、私の『手』は押さえつけられていた。

「―――ッ!!」

 想定外すぎる展開に、声が出ない。まるで金縛りに遭ったように、私自身の手も動かない。
 大きく見開いた瞳には、吉良吉影と、私の『手』を押さえつけている―――今までに見たことのない化け物の姿が映っているだけである。
 人間のような姿をした、けれど猫のような顔つきの化け物は、無表情に吉良の背後に佇み、握りしめた私の『手』を見下ろしている。

「まさかキミもスタンド使いだったとはな…」

 スタンド。耳に慣れない言葉だが、彼の口調から察するに、おそらく、私のこの能力のことを言っているのだろう。
 そして「まさか」はこっちのセリフだ。
 まさかこの世界に、自分と同じような能力を持った人間が存在するなんて思っても見なかった。

「…キミのことは可愛い後輩だと思っていたが」

 吉良吉影そう言って私の手に視線を落とした。
 湧き上がる激しい感情を押し殺すような瞳。狼狽する私には目もくれず、彼は、大きくゆっくりと溜め息を吐き、陶酔するように目を閉じた。そして私の手を静かに握りしめるのだった。


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