15
 岸辺邸は静かだった。普段、食事を作ったり掃除をしたりと、忙しく邸内を駆けまわっていた担当編集者が居ないのだ。彼女は日課であった朝食も作りに来なければ、ガーデニングもしに来なかった。一応、岸辺邸に訪れはしたが、露伴から原稿を受け取ると、ありがとうございますと小さく呟いてすぐに帰っていった。視線さえ、交わることはなかった。

 そんな状態が、もう三日近く続いていた。用事が無ければユウリは来ない。露伴が何か話しかけても、彼女はびく、と表情を強張らせるだけで、すぐに逃げ出してしまう。

(無理もない…か)

 仕事部屋の窓から、先ほど渡した原稿を大事そうに抱きしめて、とぼとぼと歩いていくユウリの小さな背を見送りながら、露伴は、ついこの間のことを思い出していた。

 自分は、とんでもないことをした。取り返しのつかないことを。
 あのとき、もしも仗助が割り入ってこなければ、おそらく自分はユウリを犯していただろう。あのときの自分は、それほど、衝動的な怒りに支配されていた。男として最低の暴力で彼女を従わせようとした。この現状は、当然の報いである。
 あのときのユウリの、ふるえた肩と、青ざめた頬。目を閉じれば嫌でも蘇ってくる。
『こんなの、嫌ぁっ…!!』
 ユウリは泣いていた。まるで知らぬ男を見るような怯えた目で、露伴を見つめていた。
 嫌われて当然だと、露伴は思った。相応のことを、自分はした。
 嫌われるだけならまだしも、男性に対して、ひどいトラウマを植えつけてしまったかもしれない。
 元来、純粋で男慣れのしていなかったユウリ。そんな彼女を、一時の感情に任せて押し倒し、一切の情を感じさせないキスで縛りつけた。
 あのとき、彼女のすべてが許せなかった。仕事の上では、どんな無茶な言いつけにも従うくせに、それ以外では決して思い通りにならないユウリが、あのときは、憎いとさえ思えた。

(僕はなぜ、あんなことを―――)

 スケッチブックの一ページを破り、ぐしゃぐしゃにまるめて、床に投げ捨てる。紙面に描かれた女の顔が歪んで見えた。
「…ッ」
 椅子に腰かけ、その一ページと同じように、自身の髪を掻き乱す。
 視界のすみに映るスケッチブック。気づけば露伴は、同じ女の顏ばかりを描いていた。しかし何度描いても、紙の中の女は、悲しそうな表情を浮かべているのだった。

「…くそッ」

 ダン、と握り拳を机に振り下ろす。

「荒れてるッスね」

 同時に、背後から、聞きたくもない声が聞こえてくる。

「………何しに来たンだ」

 忌々しげに吐き出すと、入り口に立った仗助は、こわっ、と、わざとらしく身震いしてみせた。
 それから、普段であれば彼の担当編集者が忙しなく駆け回っているはずの廊下をぐるりと見回して、言った。

「学校帰りに、ユウリさんのおやつでも御馳走になろうと思ったンスけど」残念、と、荒れた室内に視線を戻す。「ユウリさん、帰っちまったンスか」

「……アイツはもう、仕事以外で此処には来ない」

 露伴は背を向け、悲痛な、しかし強い口調で言った。まるで自分に言い聞かせるかのように。
 仗助はソファにどっかと腰を下ろし、ボンタンに包まれた長い脚を組んだ。
「…なァ、露伴先生」そして、苛立っているような、しかしどこか気落ちしたような露伴の背に、仗助は何気なく、問いかけた。

「露伴先生、寂しいンスか?」
「…はァ!?」何を言い出すんだ、コイツは。「寂しいって、まさか、この僕が?」

 露伴は思わず立ち上がり、仗助に向かって捲し立てる。

「突然、何を言い出すかと思えば。僕が寂しいって?まさか、どうして。あんな女、むしろいなくなって清々するよ。前々から僕は嫌いだったンだ。何をしてもノロマで、見ているだけでイライラするね!」

 一息に言い立てる露伴だったが、仗助には、図星を突かれて焦っているようにしか見えなかった。それでもまだ自覚が無いのだから恐ろしい。そして、仗助の眼には、なぜか、今の露伴がまるで、泣いているかのように映っていた。
 まるで、なにか大切なものを失って、傷ついているような―――自信家で、常に傍若無人、そんな普段の露伴の姿とは、かけ離れすぎていたのだ。

 仗助は仰々しく溜め息を吐いた。露伴とユウリを思ってだ。

(こんなコトになってもまだ、わかんねェなんて…露伴のヤツ、ユウリさん以上に鈍感ッスよ)

 完全に第三者である自分が、ここまで突っ込んでやらないと、己の感情さえ自覚できないとは、なんて不器用な大人たちなのだろう。

 露伴がユウリのことをどう思っているのか…そんなことは、二人を見ていれば一目瞭然である。
 仗助はすこし前のめりになり、露伴に向けて人さし指を突きつけた。

「アンタ、本当にわかんねェのか?」

 ―――自分と、ユウリの気持ちが。
 真剣な剣幕で、問う。
 しかし露伴の唇が、はァ?という形にひらかれたので、仗助はまた盛大な溜息を吐き出した。
「はぁぁ〜…」
 露伴に突きつけた人さし指で、こめかみのあたりをポリポリと掻く。

「いい加減、わかれよ」じと、と露伴を見上げる。「何とも思ってねェ女に、ブランドもんのドレス買ったりしねェッスよ。普通」
「………」
 なんで知ってるんだ、と小さくぼやき、露伴は言った。
「何が言いたいんだ」
「つまり、アンタがユウリさんに惚れちまってるってコトっスよ」

 わかったッスか?と、仗助は腕を組む。
 露伴からの返事はない。ただ目を見開いて、微動だにしないので、まさか気絶したんじゃ、と一瞬、不安になる。

「………ぼくが…」それが杞憂であったことを、弱々しい声が悟らせる。「ぼくが、ユウリを、好きだって…?」

「そうッスよ。ユウリさんは気づいてねェけど、見てる方にはまぁ、バレバレッスね」
「………」

 露伴は片手で口元を覆い、ふらりと倒れ込むように、椅子に座りなおした。
 否定する気には、なれなかった。むしろ胸につっかえていたものが、ストンと落ちたような気がする。しかし認めてしまうのはすこし、悔しいような感じもする。
 そして何より、もう、手遅れのような、そんな予感がしていた。スケッチブックの中で、悲しそうに笑う彼女が、ゆれる露伴の視界を掠めていった。




2012.11.02
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