15.待つ(リゾットと嫁)

 リビングで新聞を読んでいたリゾットは、不意に顔を上げた。ちらりと窓の外を見て、また新聞の記事に視線を落とす。もう、かれこれずっとこんな調子だ。

 自宅にいるはずなのに、妙に落ち着かない。
 その理由は明らかだった。今、この家には、いつも忙しなくリゾットの世話を焼いて回る妻がいないのだ。

 リゾットが帰宅したのは3時間ほど前。数日ぶりに帰ってきた家は静かで、いつも明るく出迎えてくれるはずの妻はいなかった。

 妻にも予定や人付き合いというものがある。自身を敬愛し、懸命に尽くしてくれる彼女がいつも当たり前のように帰りを待っていてくれるなど驕りでしかなかったと、リゾットはつくづく思い知った。
 文字などとうに追えていない新聞をテーブルに置き、リゾットは目を閉じた。妻に会いたくて仕方がなかった。
 いつも待たせてばかりだった。ただ待つというのはこんなにも途方のないことだったのか。

 コーヒーでも淹れるか、と立ち上がるのとほぼ同時だった。
 聞き慣れたフォルクスワーゲンのエンジン音と砂利の跳ねる音が庭先に駆け込んできた。

 リゾットの足は自然と玄関へ向かっていた。出会った日を思い出す。ドアがひらかれ、両手に買い物袋を提げた妻が姿を見せた。「あら!」リゾットを見て驚いた顔をする。なんとなく雰囲気が違って見えるのはなぜだろう。

「あなた! 帰ってたの」
「…ああ。どこへ行ってた」
「買い物と、美容院です」

 ああ、それで―――。
 雰囲気が違うと感じたのは、髪色を変えたせいか。

「美容師は男か?」
「女の人よ。どうかした?」
「いや、なら良い」
「おかしなひと。 ねえあなた、この髪色どうですか。明るすぎじゃないかしら」
「……」

 以前よりすこし明るくなった毛先をふわりと撫でて、リゾットは言った。

「……良いな。似合ってる」

 ドサドサと買い物袋が床に落ちた。耳元でそんなことを囁かれては無理もない。妻は顔を真っ赤にして、開いたままの口元を押さえた。

「手をどけろ。それではキスが出来ない」
「あっ…リゾット、あ、あのっ」

 妻は耳まで赤くして瞳を潤ませている。彼女の両手を壁に縫い止め、顔を覗き込むように、唇を合わせた。

「ん…!」

 渇いた唇は次第に内側から濡れてゆく。いつだって初心な反応を見せるこの妻が可愛くて仕方なかった。だがもう待たされるのは御免だった。



終 2019.05.30

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