母の姿が随分小さく見えるようになったのはいつ頃からだろう。
ずっとずっと、何も変わらずそこにあるものだと、馬鹿みたいに信じて疑わなくて。動いている自分には何も気付かずに。
気付いた時にはもう、随分遠くまで来ているものなのだ。
(………喉、いてぇ…)
冬が近付くのを感じる早朝。乾いた空気と、規則的な目覚ましの音。そんな中で発生した違和感は、季節の変わり目とはいえ単なる風邪ではないであろうことに、霧野はもう気付いていた。
(………声、)
げほげほ、咳混じりに零れた声は風邪時のそれととてもよく似ていた。
喉元にそろりと手を這わせれば、思った通りの事象に溜め息が漏れる。
学校、行きたくないな。心中で呟いて、それでも身体は起き上がり地に足を付ける。習慣は意地でも彼を働かせるつもりで、霧野のささやかで、気まぐれな反抗心などものともしないようだった。
思えば霧野の周囲はわりかしそれが早かった気がする。一つ上の先輩は元より、同級生も次々と追うように変化していって。後輩でも剣城なんかはもうそれを迎えたのだろう、あぁあと生意気なあいつもそれなりに低かった気がする。
「おはようございます、霧野先輩」
噂をすればなんとやら。背後からの声に振り向く。顔を見る前から誰かなんてわかりきっていた。
彼はほんの少しの抵抗のつもりで着けたマスクに目を付け、風邪ですか、と無難に声を掛けた。さぁ、どうだろうな。わかっていたのにそう返したのは、自分ではまだ認めたくなかったからだ。だが狩屋はそれだけで察したのか、ぱちぱちと瞬いた後、へぇ、と息を吐いた。
「先輩も男だったんですね」
「殴るぞ」
「冗談ですよ」
「笑えないな」
思った以上に乾いた返答だった。狩屋の茶化しに怒ったわけではない。今の霧野には、それを許容する余裕はなかったのだ。
成長している。大人になる。当たり前のことで、どうしようもないことで、けれどそれが無性に怖かった。
自分が自分でなくなるような気がしたのだ。がっしりとしていく体格も、高くなる背も、低い声も、何もかも。自分のだと思っていたものが塗り替えられる。それが漠然と、怖かった。
「実感したんですよ。先輩が男だってこと」
「お前、しつこいぞ」
「だって本当に。俺は先輩の綺麗な女顔も、そこらのハスキー気取ってる女子より綺麗な声も、まだ細めの手足も全部ぜんぶ好きだけど、それもいつかなくなっちゃうんだなって思ったんです。だから今の内にちゃんと覚えときたいなって」
先輩の好きなとこ。何でもないようにさらり、呟いた狩屋にぱちぱちと霧野は瞬きを繰り返す。そのまま狩屋と目が合えば、間抜け面だと霧野を笑った。けれど、だけど。
「……狩屋」
「なんですか」
「お前、俺のこと好きなんだな」
大きく見開かれる瞳。丸く開いた口。
その呆気ない反応が次には、さっと頬を朱に染めて。
その姿に気分を良くすれば、心底嫌そうな顔をふいと逸らされた。馬鹿じゃないの、最低、次々と零れる罵詈雑言はレパートリーがない。
けれどその口で、今更でしょ、などと吐き捨てるものだから、思わず笑ってしまうくらい、嬉しくなってしまうのだ。
【そうして世界は幸せになってくの】
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思春期って可愛い
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