両親共々興味がなかった上、お日様園では童謡ばかり耳にしていたせいか、俺にはモーツァルトもバッハも区別は付かないし、黒い丸が蔓延る楽譜も全く読めやしない。曲調の違いが理解出来ないのは勿論、記号なんて四分音符に八分音符、あと何だっけ?ああもうどうでもいいや、何だって良い。


上記の通り音楽の教養なんて皆無に等しい俺には細かい点はわからないけど、それでも神童先輩の弾く曲がとても素敵だということは良くわかった。眠くなりそうに心地良くて、なのにずっと聴いていたくなる。この学校の音楽室にはあまり防音性がないので、他の奴等にも聴こえてるであろうことが悔しい。今こうやって、一緒にいるのは俺だけなのに。

「…すまないな、狩屋。退屈だろう?」
「え?いえ、大丈夫です。……あーだらけてるのはリラックスしてるだけなんで、気にしなくて良いですよ。眠くはないんで」

べたりと机に顔を貼り付けてたのが悪かったのだろうか。気遣う神童先輩は優しい。でも嘘じゃなく、彼のピアノは心地良かった。コンクールなんて大層なものが背後にあるなんて思わせないくらい、ゆったりとして温かみがあった。これに惹かれているのは事実だ。
まぁ、それに、……ピアノの練習が終わったら一緒に帰れるかも、なんて期待してたりもする。秘密だけど。

「俺のことは気にしないで。練習、して下さい。コンクール近いんでしょ?まぁ、やらなくても神童先輩なら優勝間違いないでしょうけど」
「買い被りすぎだ。俺にそんな力はない……やらずに帰りたいのは、山々だけどな」

珍しく優等生らしくない台詞を吐いて先輩は苦笑する。周りがああだこうだ言ってるのもあるけど、誰より優等生だと彼を戒めてるのは神童先輩自身だ。本人がそれを望んでるならと、俺から何かを言ったことはないけれど、霧野先輩がたまに唇を噛み締めてるのは見たことがある。本当、あの人は心配性だよな。神童先輩に対しては特に、過保護とも言うべきだろうけど。
でも、さぁ。そんなに深く心配しなくても良いんですよって、俺は言ってやりたい。何故って、俺は、知ってるから。神童先輩のこと、神童先輩の救い方を。



「神童先輩」
「ん?」
「俺は、なるべく早く帰りたいです」

俺は、という部分を強調して言う。神童先輩の長細い指が、鍵盤を叩くのをやめた。甘いココア色の瞳が俺を見て、ふっとわらう。


「じゃあ今日はこれぐらいにするか」


…………ほら。
神童先輩は優しくて、甘い。俺がこう言えば、俺に合わせて───正確には、俺を口実にして、自分のしたいことをしてくれる。
言い訳を作って、誰かのため、誰かが言うから。そうでもしないと動けない神童先輩は、確かにとても弱い。
でも大丈夫。先輩が脆く崩れそうになったら、俺がこっそり支えてあげる。俺が先輩の、優等生として抑圧されてる欲求を、全部受け止めてあげる。神童先輩が気付かないように、優等生を保てるように。
俺は彼の、見えない救世主になりたいのだ。



【ヒーローは透明色】

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拓マサをまともに書いた記憶がなかったのでひとつ
マサ拓っぽい、かも、でもなんか百合っぽいですこの二人