03 ぽろぽろと、雨だれのように涙が零れてくる。拭っても拭っても、涙は止まることを知らず、手の平に、紙の上に、小さな水溜りを作っていく。 「泣き虫だな。そんなにここに落とされたことが嫌か?」 そうでもあるし、そうでもなかった。 元々こちら側の世界には興味があった。 お伽噺にしか出てこないドラゴンや、エルフを始めとする様々な種族が入り乱れる世界。まるで夢物語のようだが、乳母を始めとして周囲の人間は、ここ、《ゲレア》を『神の恩恵を受けられなかった世界』と言って、酷く蔑んでいた。 同時に生まれた兄も、乳母に倣ってか、《ゲレア》を恐れ、そこに生きる人々を嗤っていた。 けれど、いざここに来たとき、彼女のその人ならざる姿を見た時、全身の肌が粟立った。「気持ち悪い」と、そう思ってしまったのだ。 「おいおい、あんまり泣いてると目玉溶けるぞ」 めんどくさそうに笑いながら、水の入った瓶を差しだしてくる。 零れる涙を拭い、その瓶を受け取った。少し固い蓋を開けて、水を飲む。半分ほどまで飲むと、不思議と心が落ち着いた気がした。 「そういやお前、名前は?」 『そういう貴方は』 「私はレフィ、種族は竜人。"未知"を求めて旅してる」 『……未知?』 「そう未知」 何とも漠然とした旅の目的だと思った。 けれども、それを生涯の夢とでもいうように語る彼女の灰色の目は、ダイヤモンドのように輝いていた。 「さぁ、私は名乗ったんだから、お前も名乗りな。聞いといて名乗らないのは、失礼じゃないのか?」 そうだ。だから、何度も名前を書こうとしている。なのにペン先は迷うように、クルクルと紙の上を舞って、黒い模様を生み出していた。 しばらく沈黙が続いた後、レフィが口を開いたのと、彼女の前に紙を突きつけたのは同時だった。 「うおっ……え、えっと…?」 困惑する彼女に、紙の中心、書きなぐった三文字の単語を指をさす。 「ルイ……? それが、お前の名前か?」 小さく頷く。 何を言われるだろうか。あれだけ躊躇ったんだ。変な疑問を抱かれても問題はないし、この名前が偽名だと思われてもしょうがない。 それでも僕は、この堕ちた名前を名乗る勇気が無い。 「ふぅん、綺麗な名じゃないか」 綺麗な、名? 拍子抜けした顔でレフィを見つめた。 「"ルイ"っていうのは、私たち竜人の言葉で【透明な石】とか【澄んだ瞳】って意味があるんだ。そのまま名前にすることも無いし、大分古い言葉だから別の言葉に移り変わってる。 ……まぁでも、良い名前なんだから、何も気にせず誇ればいい」 頭の上に、ポンと手を乗せられる。 その手のじんわりとした温かさに影響されてか、再び眼に水が張る。 ツンとした感覚が鼻の奥を刺し、胸を引き絞るような焦燥感と人の温かみの懐かしさによって、再び胸がぎゅうっと締めつけられる。 「おいおい……何回泣けば気が晴れるんだお前は……」 砂の匂いのするマントで、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に拭われた。 それでも流れるものは流れるし、出るものは出てしまう。 最終的に、レフィがどう思ったのかはわからないけれど、赤子をあやすかのようにして頭を抱きかかえられる。細い首筋に僕の額をこすりつけるようにして、背中を一定のリズムで叩かれた。 名前を褒められたのは、初めてのことだった。 みんなが褒めるのは、いつだって僕が背負う家名であったり、勝手につけられた《称号》だった。 あの国に、個人を示す名前なんて価値はないのに、その癖名前を神聖視したがる。覚えのない罪で投獄されたときも、地に堕ちたとされて名を語るのは禁止される。なのに向こうは僕の名前を語るのだ。 卑しい名だと、低劣な名だと、俗悪で、陋劣で、下賤で、見下げ果てた名だと、口々に周囲の人間は嘲笑した。だから僕も、この名はそんなモノなのかと、酷い臭いのする牢獄の隅で理解した。 だけど彼女は、レフィは、なんの気なしに『綺麗』と言ったのだ。 それだけで、ただそれっぽちの言葉で僕は、どこか救われた気分だった。 「……そういえば、ルイって言葉は、別の種族の言葉で【泣き虫】って意味なんだが…。まさしくその通りだな」 いたずらっぽく笑う彼女に、僕も泣きながら笑顔で返した。 Top |